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小説やマンガなどに登場する高杉像に憧れています。
脚色されていることがあるかと思い、自分なりに史実を追ってみました。

自分なりに調べた結果、今まで知っていた晋作とはかけはなれた、あまりパッとしない人物のように思えました。
長州が大変な時期になると、イヤなことから逃げるように脱藩したり、
大事な時期に活躍していなかったり。。。
奇想天外な行動力でカリスマ的に登りつめた印象があったのですが、
家柄で登用されていたに過ぎない感じもしました。
最後の最後、騎兵隊をちょいとまとめて、数回戦に勝ったぐらいしか
目立った活躍はないように思えます。
はたしてどれほど維新に貢献したのでしょうか?

そこで疑問に思ったのは、なぜ高杉はここまで評価されているのか。
また、自分が知っているイメージを払拭する史実があれば教えてほしいです。
坂本龍馬は、司馬遼によって一気に知名度を上げましたが、高杉はどのように
知名度を上げたのでしょうか?
舎弟である、伊藤や井上、山縣辺りが誇張して広めたのでしょうか?

まとめ
1.高杉晋作はなぜ有名人になったのか
  (史実に基づいた具体的な功績など)
2.維新への貢献度
3.回答者の皆様が思う、高杉評価

エピソードとかは抜きで、史実に基づいた意見を1~3に対する回答で聞きたいです。
よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

1.明治政府の中枢を占めた長州藩士だから



2.No.1さんに同意

3.もっと長生きしたら明治維新はどうなったかと、坂本・高杉両君については思います。が、長生きしなかったから良かったのかもしれない。

補足として1.の理由というか対比というか、越後長岡藩の河井継ノ介が有名でないのと好対照ですよね。能力は五部とみますが。
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この回答へのお礼

たしかに、勝てば官軍の長州藩士であるから。が理由の大きな部分を占めて
いるのですかね。
私も、fudousinさんと同じ意見で龍馬も晋作も、この時期に死んだから半ば伝説化
しているような気がします。(ドラマが生まれているという意味での伝説化)

河井継之助の例えも分かりやすいです。薩摩、長州というだけで名が売れている
輩よりも、もっとクローズアップするべき人物はたくさんいますよね。
個人的には、悲劇の皇族、超マイナーな輪王寺宮のドラマチックな義憤の生き様を
クローズアップしてほしいもの。

お礼日時:2009/09/01 13:58

基本的にはNo1の方の言うとおり。


付け加えるに

第一次長州征討で、負けを認めた直後に挙兵したこともあげられます。挙兵時84名です。
関ヶ原の戦いの後と比較すればその功績が分かります。
関ヶ原で負けた後、大坂城に籠城する説を説いた武将はいましたが、実際に勝てるかどうか分からなくても、東軍に再度戦いを挑んだ武将はいません。たとえば立花宗茂は主兵力が温存されていたにもかかわらず、地元に撤収しています。もし、立花勢のみで東軍に再戦を挑み、勝っていたなら歴史が変わっています。
300年後実際に毛利家の歯車を逆転させたのですから、これをもってしても評価は大です。
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この回答へのお礼

たしかに。回天義挙のクーデターも功績に挙げられますよね。
ただ、他の人の功績に比べると、あくまで藩内の功績に過ぎないという印象があります。
藩内の統制を計ったからこそ、長州がこの時期にひとつになれたのは影の功績ですね。
土佐では、同じように武市が東洋暗殺のクーデターで実績を握りましたが、土佐のしきたりで
この後うまいこといきませんでした。
やはり、日本的に見た倒幕の活動としては、回天義挙は印象が薄いかと。
また、関が原と比べるのも時代背景的にも、置かれている立場的にも合致しないような気がします。。。

お礼日時:2009/09/01 13:42

高杉晋作は評価は高いのですか? 坂本龍馬とかに比べるとイマイチ人気がないのかなあと思っていましたが。

もしそうなら、下関の生まれで公園の高杉晋作像の下で遊んでいた者としてたいへん喜ばしくおもいます。

高杉が家柄で登用されていたに過ぎないなんてとんでもない。高杉を引き立てた周布政之助(すふ まさのすけ)もすごい人だったらしいです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%B8%83% …
http://www15.ocn.ne.jp/~yujinan/C6_3.htm
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この回答へのお礼

おそらく一般的な知名度としては、龍馬などに比べると低いと思いますw
ただ、幕末に興味がある人間であれば名前を知らない人はいないでしょう。

なるほど。たしかに、周布の功績も登用する目も凄いですよね。
ただ、長州派閥で才能で成り上がってきた人物が、松蔭や大村益次郎、ぐらい
しか思い浮かばず、(伊藤は山縣は、才能というより舎弟から上がってきた印象)
後は、やはり家柄(世襲)で登用されているイメージがあります。
もちろん、晋作の場合も「家柄だけ」とは思いませんが、才能よりも家柄を重視
されていたような気がしました。

お礼日時:2009/09/01 13:37

こんにちは。

騎兵隊ではなくて奇兵隊ですね。
たった一文字で全然意味が違っちゃいます。
で、回答ですが、奇兵隊だけであの時期の有名人になるにふさわしい十分な実績だと思います。
当時、諸藩や朝廷が整備した軍は全て武士がらみのもので、元々戦闘集団・戦闘の専門職であった武士の活用だけでした。
戦国後期以降、兵農分離で完全に農兵がなくなり戦闘を専門にする武士として独立した地位を築いて政権まで取ったのですから当然の成り行きでしょう。

それを覆して、兵農分離の垣根を取り払い、武士を維持するために四民階級を作ったのに、相互にその行き来を出来る道を開いた、という点でも人材活用面での功績は非常に大きかったでしょう。

これに類するレベルの提案をやったのは、後の榎本武明の北海道(蝦夷地)の防衛として兵士(旧武士)を就農させる、という、方向は逆ですが、これくらいだと思います。
榎本はこの提言を行ったらなぜか「誅する」という言いがかりをつけられて賊軍として追われてしまう、という不可解な事になりますが、函館戦争以後、再雇用され?対ロシア交渉で辣腕を振るいます。

1.高杉晋作はなぜ有名人になったのか
  奇兵隊だけで十分。

2.維新への貢献度
  全く新しい軍養成システムを確立したのだから、大変なものでしょう。

3.回答者の皆様が思う、高杉評価
  こういう発想が出来る、また、それをやらせた上司も含めてすごいと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
騎兵隊・・・これは変換ミスです。すいません。

なるほど。やはり晋作の功績は「奇兵隊を作り上げた」だけでまとまってしまうのですか。
確かに当時としては、奇抜な発想であり、しかも功を奏しただけあって名も刻まれますね。

奇兵隊。考案は晋作ですけど、率いたのは大村益次郎や山縣、赤根の印象が強いです。
晋作は行動派、いというイメージがありましたが、英館焼き討ち(これは暴挙のような気もしますが)や
回天義挙ぐらいしか浮かんできません。(これだけでも十分な実績でしょうが)
他の志士(木戸、久坂、周布、村田)と比べてしまうと、どうしても活躍は見劣りしてしまいますかね。

お礼日時:2009/09/01 13:27

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