お正月にソクラテスの考え方のダイジェスト版みたいな本を読みました。
高校時代に習った古文の書かれた平安時代などの信仰の在り方や今なお息づく神道などから古代ギリシャの精霊信仰は容易に理解できます。
現代日本の信仰の受け皿の主流は仏教ですが、観念の研究をイデア界と同一の観念世界からもたらされた事柄と理解すれば、知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。
今回の質問は流れとして前回の
神仏に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか その4
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5575674.html
これに続きます。
知を愛すると言いますね。
私が私である生きる実感が哲学とも聞きます。
なのに取りすがる態度を見せるのは、行き場の無い考え方ではないか。
それから、信仰を表ざたにしないのが主流の日本で宗教におぼれる少数派はあくまでも肩身が狭いでしょうが、誤解を解こうとする回答をいただいていません。
これらを題材としてお考えをお寄せください。
No.9
- 回答日時:
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。
Hidocchiです。> ただし、厳密かつ心情を厳しく見れば、故事は今や信行心のストライキにすぎないのではないかと考
えます。
現在、少なくとも、日本に限って申しますと、神・仏に対しましては、日ごとの糧に対する“感謝”の気持ちを述べるというのが、ふさわしいかとおもっております。
> 世界中の災害の情報が一夜で駆け巡る現在では人間同士の和解とは、要するに互助とはテクノロジーの発達で自然発生していて今やなされており、神に救いを願わなくても人間同士が信じあうに値する事は証明されていると言えるのではないか。
大部分がそうであると思っております。災害時におけます、緊急支援等(各国政府 or ボランティア団体)を鑑みますと、仰るとおりかと存じます。ただ一点、チベット仏教の存亡につきましては幾分不安を抱いてはおります。
> ところがそれを組織存亡にかかわると認めない危険で閉鎖的な祈りは有るでしょう。残念ながら有るでしょう。
愚見に対しまして、耳を傾けていただきましたことにつきましては、深くお礼申し上げます。
こちらこそどうどうと信仰の内側の話を表明していただいて気持ちよかったです。
日常で折に触れて感謝する事は私にもあるんですよ。
その感謝は形も対象も無いので祈りとして彼方へと行くのでしょう。
No.8
- 回答日時:
知の探求や哲学が信仰と一致するか?の点ですが、
根本的には一致しないと思われます。
その理由は
第一に、ソクラテスの立場は、哲学者、思想家の立場から、真の知を得るための徳は何かを説いたものです。従って、宗教家や信仰面からのアプローチではないのです。
第二に、ソクラテスは、真の知を得るにはどうしたらいいかと考えた時に、次のように結論を導き出しました。即ち、「真の知は他人から注入されるものではなく、自己自身のみによって気づくものでもない。他人との対話(問答)を通じて、自分も他人も納得できる普遍的真理(真の知)に至ることができる。」
彼は、道徳の根拠を人間の内面に内在する神(ダイモニオン)に求め、道徳は絶対的・普遍的であると主張したが、だからといって上記の結論のように、神や祈りや信仰等には言及していないのである。
【ソクラテスの徳は真実に生きるための知を追求することであるのに対し、仏教の根本的な徳目は慈悲であるが、慈悲を実践するためには、修行生活が必要となる・・・この時点でソクラテスの説く対話とは全く別なアプローチである】
第三に、キルケゴールの思想より。
キルケゴールは人間の成長の三段階を次のように説いたのである。
第一段階は、感性的でエロス的な要求に従って、あれもこれもと享楽的に取り入れたがる「美的段階」
第二段階は、あれかこれかの善悪を判断基準として生きようとする「倫理的段階」
第三段階は、「宗教的段階」である。信仰をもって、神の前にただ一人で立つことであり、その時初めて人間は、真の実存となるというものです。この段階に入るには、飛躍が必要となるのですが、それは知性では理解することができないパラドックスを信じることによって可能となると説いたのです。
たとえば、永遠なる神が、有限な時間のなかで、受肉し、人間となって現れたというような非合理的なことを信じるということである。
彼曰く、「そういう飛躍を通じて、初めて真に神との関係を回復することができるのである。
従って、キルケゴールから言わせれば、知を求める段階は、人間の心の成長から見た場合、第二段階の成長期に過ぎないのである。
知を越えた領域に至らない限り、真の完成はないのであるから、
哲学者ソクラテスは、知のみを求める限り、真の知にも至ることができない逆説である。
No.6
- 回答日時:
こんばんは、新春の候、いかがお過ごしでしょうか。
Hidocchiです。> 知を愛すると言いますね。
仰いますように、哲学(philosophy)の語源は“知を愛する”と記憶しております。
> 私が私である生きる実感が哲学とも聞きます。
この考えは、実存哲学(に近いものか)と思われます。従いまして、この“実存”思想の観点から愚 見をのべさせていただきたいと思います。
[定義] 実存:独自な存在者として(機械の歯車の1部とは異なった独自の存在者、または主体性を持っ た存在者として)、自己の存在に関心をもちつつ存在する、人間の主体的なあり方。
第二次世界大戦後には、フランスに輸入され、イデオロギー化した“実存主義”が発展しました(サルトルらがその代表です)。 確かに、サルトルらの“実存主義”は美しかったと思いますし、またカッコよかったとも思われます。何しろ、自分が選択した事柄に全責任を負い、その影響が世界に対して及ぶという意味において、全人類に対してもまた責任を負う。この一歩、一歩、進む実存主義者の姿は確かに立派なものだったかと思われます。しかし、これは、まさにタフな人々(強い精神力、高い知性そして卓越した行動力を持つ方々です)にのみ許容できる哲学とも言えるかと思われます(ですから、カッコいいのでしょうけれど) 。
ですが、普通の一般人に、かような責任感を持ち、サルトルのような行動(アルジェリア戦争の際に は独立を目指す民族解放戦線(FLN)を支持する等です)には、そう簡単には、実行には踏み切れないと思うのです。
[レヴィ・ストロースとサルトルとの論争] レヴィ・ストロースは、サルトルの実存主義の主体偏重に対して、主体ではなく、“主体間”の構造 こそが重要だと主張(主体が使う言語は“共同体社会”によって生み出された構造主義的なものなので 、絶対的な主体はありえないということです)。また、どのような民族においてもその民族独自の構造 を持つもので、西洋側の構造でもって、その他の構造に対して優劣をつけることなどは無意味だと主張 。
この論争によって、徐々に(少なくとも、哲学的思想上では)“実存主義”は衰退していくことにな りました。
以上の知見を踏まえ、以下のご質問にお答えしたいと思います。
> なのに(神仏に)取りすがる態度を見せるのは、行き場の無い考え方ではないか。
上述“主体間の構造”には、多分に“神話的”要素もしくは、それに基づく慣習・秩序が含まれていたかと察せられます(4巻に及ぶ『神話論理』は、レヴィ・ストロースのライフワークでした)。従いまして、習慣上によるもの、かつ、人知を超えたものにつきましては、“取りすがり”は致し方ないと考 えております(例えば、人知を超えた豊作の祈願等でございます)。
> 集団として暴力と化しているからこそ、神仏に取りすがる姿勢は個人の自由として容認せざる横暴ではないか。
確かに、世の中には“狂信者”と呼ばれるひともいます(暴力と化しているひとたちです)。もちろん彼等(彼女ら)には論理・理屈はとおりません。一方的に、他の立場のひとたちの信条・信仰を認めないようなひとたちです(もちろん人としての自由・尊厳をも認めようとしないひとたちです)。かようなひとたちには、横暴の感は否めません。
ご参考になれば、幸いでございます。
この回答への補足
質問の主文を少し修正します。
現代日本の信仰の受け皿の主流は仏教ですが、観念の研究をイデア界と同一の観念世界からもたらされた事柄と理解すれば、知をもたらすのは聖霊の姿をした神であり、知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。
知性がかくのごとくあるならば、取りすがる態度を見せるのは、思考の閉塞に結びつくのではないか。
ご回答ありがとうございます。
?。
>人知を超えたものにつきましては、“取りすがり”は致し方ないと考 えております。
これに関してはですよ、祭りでお参りに行く時の作法のような感じで、まづ、「神様あなたがいるからこそ私がいます」こういう感謝の祈りを非思考として無意識的であってもささげたのち、願いとするなら、作法のようなものとしてとりすがりでは無いでしょう。それが出来なくで、神に対して信仰のストライキを起こすぞと、脅かしながら交渉に及ぶのがとりすがりではないか。
そうすると正しい信仰心には取りすがりは無い事となります。
よって、
>> 集団として暴力と化しているからこそ、神仏に取りすがる姿勢は個人の自由として容認せざる横暴ではないか。
この主張を取り下げるのはまだ納得がいきません。
No.5
- 回答日時:
哲学や人知は、脳の論理思考に依存しています。
しかし仏教のブツダは、脳を否定しています。ブツダは、座禅や瞑想で、脳を休ませる事で悟りました。不幸や迷いの原因は、脳の自我だといってます。だから仏教の教えは、脳を休ませる事で得られたものです。だから日本人は、西洋の脳の論理思考に対して、心の情緒思考です。行動も情緒的です。日本の伝統文化、和風文化は、情緒文化です。だから日本人は、伝統文化で情緒に目覚めましょう。新しい時代は、情緒の時代です。脳の論理思考の時代は終わりました。この回答への補足
そう言えば自己の本質や基盤が自我である筈なのに、自我論につかみどころがなく研究が進まないのはいかにも変ですよね。
この点を唯識になぞらえて我執とは意識上に上る実態のない投影としておくと考えが膨らみます。
心理学では自我は欲望や欲求とセットで研究されていますが、そうすると哲学などでは取りつくしまも無いですね。
ご回答有難う御座います。
いわば我執という形で約2千年前に編纂された仏教の唯識にも自我の原型と一致する論理がでてきますが、WIKIの記述を読むだけでも我執とはマナ職の投影とされています。安定した種子を伴った記憶であったり経験と一致した事柄ではなく、要するに脳には理性的には身に覚えが無い、実態に無い事柄です。したがって各種自我論は全て仮説であり完成したり確定したりはしていない。乱暴に言えば内容が薄いといっていいでしょう。仏教ですから唯識論も瞑想の類の観念研究でしょう。私も観念研究で自我に関してはここで引用したような考えを持つにいたりました。
それから輸入思想中毒というのもあります。
西洋では伝統として日本より強い自己が(自我で無く)必要でありそれを鍛錬する為の教養も多いでしょう。それらを一言一句直訳して輸入すると、和を尊ぶ日本では強い自己の補強とはならないで自我意識が強くなる。
そんな中毒です。
No.4
- 回答日時:
No.1です。
お応えをありがとうございました。★ (No.1お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
抽象的ですが問いたいのはこれです。
>知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この主題でしたら 片がつきますよ。
信仰は 非思考における志向性ですから その《心の明け もしくは 伸び》において何らかの表象(かたちに表わすこと)を持たねば ひとに伝え得る意味内容は出て来ません。つまり哲学がそれです。
信仰という非思考から 経験合理性にもとづく哲学としての経験思考が出て来ます。そういう意味で一致していると思います。
★ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
しっかし、とりすがりとは単なる姿勢やそぶりとして釈明が通るかもしれないが迷惑千万です。
「ねーえわかるでしょわかるでしょ」「私のことおわかってくれるでしょ」。
あなたは間違いなくあなたで私ではないんですよ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この問題は 期せずして《日本教》の問題として合っていたようです。
○ 《とりすがり》は 《自覚無しの甘え》のことです。《日本教徒》には 生まれたときからその行動様式が刷り込まれ植えつけられます。
というわけで《甘え》の問題にもかかわっていて じつはそこに書き込んだ文章ですが 掲げます。
《日本教》の問題ということは つまり日本教徒という人間のもんだいです。集団における一種の規範であるならば つまりはその信徒たちのあいだの仲間意識のそれです。われはどこに帰属しているのかという意識のもんだいです。
日本教には 見えない総本山があります。そこからやはり目に見えない運河が下に横に その結果として縦横無尽に 張り巡らされています。
この観念の運河を 信徒はおのおの観念のゴンドラを漕ぎつつ行き交いする。この通行証を持っているという感覚――つまりは おれは日本教徒なりという確信―― これがすべてを決めているようです。
この一般には《無宗教・無信仰》と自称する《日本教》の成員であるなら 《おまえはおれ おれはおまえ。おまえのものはおれのもの おれのものもおれのもの》という世界が開けます。
前半(《おまえはおれ おれはおまえ》)は 文字通りさもうるわしき仲間意識です。後半は 社会が二階建てに成っており そこにはどの二人の人間どうしを取り上げても多少とも上下の関係(=《アマテラス逆立主導‐スサノヲ従属》の連関関係)があるからです。
でも中には この運河の通航に支障をきたす人びとも出てくるようです。
通行証を持っていたはずなのに だからほんとうのことを言ったはずなのに そのちょっと心の真実を言っただけで 皆から爪はじきにされてしまった。けっこうゴンドラをあやつることもうまかったのに ちょっとホンネを出したら 途端に村八分だ。
こういう事件に遭った人びとが その人びとから見ていかにも自立して自信を持った人だと見れば とうぜんのごとく その人に近寄って来て頼ってくるでしょう。取りすがりもおこなうでしょう。西も東も分からなくなっているかも知れないからです。
もっとも そのように自信を持って ひょっとすると通行手形も持っていないのに自信を持って 運河をつばめが飛ぶように通行していると見なされれば そのときには 信心の強い日本教徒であるならその自信のある人に対して ちょうど巡査になった気分で どんどん職務質問をしていくるでしょう。意識のうんこを投げつけてくるでしょう。
これは 取りすがりの反対側にある心理的な反応なのでしょう。
どちらも そういう《空気》の問題であり そういう《観念の運河》の交通規則であるようなのです。どこにもその条文は書かれていないのですが。つまりは 不文法であり慣習法であるようです。
運河の通航にかんする取り締まりにはきびしいものがあるようです。そこから弾き飛ばされる人びともいるようです。そういう人びとは 取りすがりをおこなう。こういう説明になります。
どうですか?
この回答への補足
A6の補足の後に余剰スペースとしてちょこちょこと書いています。
現代日本の信仰の受け皿の主流は仏教ですが、観念の研究をイデア界と同一の観念世界からもたらされた事柄と理解すれば、知をもたらすのは聖霊の姿をした神であり、知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。
仏教的的観念についての質問なので、
現代日本の信仰の受け皿の主流は仏教ですが、観念の研究をイデア界と同一の観念世界からもたらされた事柄と理解すれば、知をもたらすのは仏の慈悲そのものであり、知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。
このようにも説明できます。
ご回答ありがとうございます。
交通のお話の論理は完成度が高く参考になります。
でも、観念世界にそうした交通の支障は無いのではないかとも考えます。
ちょっと考えを整理していきたいと思います。
まだ形を成さないのですぐに答えが出るかわかりませんがやってみます。
ご教授ありがとうございました。
No.1
- 回答日時:
こんばんは。
少し主題を逸れます。
ただし その主題の土俵のようなものについてです。
山本七平に《日本教》という切り口があります。
これはけっきょくのところ たとえばいまこの質疑応答の場が OKヱーヴ部門の哲学カテゴリという日本教支部だという意味です。
そのように日本人なら誰しも この日本教に《絶対的に》属しているという分析です。意識しているにせよいないにせよ 多かれ少なかれ 日本教教団の活動の一端をになっているという捉え方です。
つまりは 生きた哲学も観念論哲学も 取りすがりも何もかも われわれの生活日常のピンからキリまでが 大きくは言ってみれば世の中に《観念の運河》が張りめぐらされていて われわれはこの運河を通らないことには 何も為し得ないという見方です。
こういう日本社会論がありますが どうなんでしょう?
* 極端なと言いますか 単純なと言いますか 手短かに例を言えば 共産党も右翼も 日本教のそれぞれそういう支部を成している。ゆえに 誰もどの集団も互いに地続きであるという日本人論です。
つまり 日本教の中のシントウ支部やコンフュシアニズム支部やブディズム支部やクリスチアニズム支部等々があるだけだ。それを思えば ブディズムがいくつかの宗派に分かれているなんてのは ちゃんちゃらおかしい たとえけんかをし合ったとしても ただのコップの中の嵐でしかないという見方です。
ありがとうございます。
踏まえておく事柄ですね。
抽象的ですが問いたいのはこれです。
>知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。
しっかし、とりすがりとは単なる姿勢やそぶりとして釈明が通るかもしれないが迷惑千万です。
「ねーえわかるでしょわかるでしょ」「私のことおわかってくれるでしょ」。
あなたは間違いなくあなたで私ではないんですよ。
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