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聖徳太子は、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや・・・」と書かれた国書を隋の煬帝に出していますが、これは心境としてはどんな感じだったのでしょうか?
つまり、

・日本と隋は対等の国だよと言う自尊心の表れ
・隋の脅威を知らない(もしくは甘く考えてる)世間知らず

のどちらだったのでしょうか?

※聖徳太子は天子では無い、聖徳太子は実在しないなどの説はこの際無視します。

A 回答 (5件)

・日本と隋は対等の国だよと言う自尊心の表れ


・隋の脅威を知らない(もしくは甘く考えてる)世間知らず

どちらでもありませんよ(^-^)
聖徳太子は、留学こそしませんでしたが、漢籍に通じ
また漢詩なども、嗜んでいたそうです。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」
これは、詩的な表現です。聖徳太子は、
三国志などに描写された倭国(日本)の記述なども読んでいたので、
「中原の方々は、私たちを野蛮な東夷と思っているかもしれませんが、
私たちは、すでに中華の文化に敬意を払い、その一員に加えてほしいと
使節を送るので、君子の交わりをしていきましょう。」
と詩的に述べたのです。
煬帝も、詩人としても評価される器量の方だったので、
一読して真意を察し、大げさに怒る演技をしたのち、
破顔一笑して、
「皇帝、倭王に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、徳をひろめて、全てのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したいという情に、遠い近いの区別はない。倭王は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う」
と返書を与えました。

この回答への補足

kusirosiさん
疑問な点が有ります。
1.「恙なきや・・・」とは、調子はどうだい?程度の軽い感じの問いかけと聞いてます。これはあってるのでしょうか?

2.野蛮な東夷が自ら天子を名乗り、どうだい?と言う事にご指摘されている様な内容(中華文化に敬意を払う、など)が含まれているとは感じられないのですが、「恙なきや・・・」以降にも文章は続くのでしょうか?

3.返書は日本に持ち帰る途中で無くしたと聞いたのですが、こrは間違いで、聖徳太子の元に届いたのでしょうか?

補足日時:2010/03/04 23:15
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この回答へのお礼

kusirosiさん
回答ありがとうございます。

返書の内容も知りたかったのですが、併せて教示頂き感謝します。
補足欄へ再質問を揚げさせて頂きます。宜しければご確認お願いします。

お礼日時:2010/03/04 23:14

>・日本と隋は対等の国だよと言う自尊心の表れ


・隋の脅威を知らない(もしくは甘く考えてる)世間知らず

のどちらだったのでしょうか?



どちらでもありません。以下、私の説を書きます。

589年、大陸では隋が天下統一を果たした。
満州地区にあった高句麗は強大な隋と隣接することになった。

593年、日本では推古天皇が即位。
厩戸皇子が皇太子になり、同時に摂政に就任。天皇から国政の多くを委任された。
大臣には蘇我馬子が留任した。

蘇我馬子の配下には渡来系の氏族が多く、日本の朝廷はその人脈を利用して
高句麗政府に対して仏僧の派遣を要請した。

高句麗王は、隋帝の朝貢要求に応じなかったため、二国の関係が険悪になっていた。
高句麗王は、この際、日本に近づき、同盟関係を結ぶ方が髄への牽制にもなり有利であると
考え、
595年、政治にも仏典にも強い僧、慧慈を派遣した。

朝廷の馬子は、慧慈を朝廷の外交顧問に就かせると同時に、皇太子の家庭教師をも務めさせた。

600年、日本の朝廷は隋の朝廷の動きを偵察するため遣隋使を派遣した。

日本の朝廷では、慧慈ら高句麗関係の人脈を通じて得られる大陸の政治情報や、遣隋使の帰国報告をもとに対隋外交政策を練った。隋と高句麗は国境で数度、武力衝突したがいずれも高句麗側の優勢で終わった。今ならば、日本は隋に対して強い態度で臨んでも、隋が日本を武力で攻めることはあり得ないと判断した。だから、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す・・」と事実上の独立宣言をしたのである。

607年、小野妹子を団長とする訪中団を送り込み、前記の天皇親書(国書)を持たせたのだが、果たして日本側の読みは当たった。

隋の煬帝は、日本の天皇親書には腹が立つけれども、ここで対日関係を悪化させるのはまずい。高句麗だけでも手ごわいのに、高句麗-日本連合軍と戦うわけにはいかない。ここは我慢して、答礼使節を日本へ派遣し、日本の天皇のご機嫌をとろうと、小野妹子の帰国に合わせて訪日団を送ってきたのです。

日本の朝廷は国際社会の情勢を的確に読んで、チャンスをうまく利用しました。見事な駆け引きだったと思います。

なお例の国書は、天皇に代わって皇太子が代筆したと思います。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

※聖徳太子は実在しました。
上宮聖徳法王帝説では、厩戸豊聰耳聖徳法王、
法隆寺釈迦三尊像光背銘文では上宮法皇、
法隆寺薬師如来像光背銘文では東宮聖王、
古事記では上宮之厩戸豐聡耳命、
日本書紀では廐戸皇子、法主王などと呼ばれています。

この回答への補足

hinode11さん
疑問な点が有ります。

1.本題とはかけ離れますが、朝鮮はずっと中国に対して臣下の礼を取っていたと思ってたのですが、高句麗は隋に反旗を翻したと言うか、そんなに強気に出れたのはなぜでしょうか?

2.事実上の独立宣言とありますが、するとそれまで日本の朝廷は隋に対して臣下の礼を取っていたのでしょうか?

3.この時点では隋は相当弱体化していたと考えて宜しいのでしょうか?

補足日時:2010/03/04 23:27
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この回答へのお礼

hinode11さん
回答ありがとうございます。

隋の天下統一からの時代背景までご教示頂きありがとうございます。文章だけでは理解出来ない時代背景までわかる事が出来ました。

補足欄へ再質問を揚げさせて頂きます。ご確認をお願いします。

お礼日時:2010/03/04 23:26

#2です。



>1.本題とはかけ離れますが、朝鮮はずっと中国に対して臣下の礼を取っていたと思ってたのですが、高句麗は隋に反旗を翻したと言うか、そんなに強気に出れたのはなぜでしょうか?

民族性ではないですか。朝鮮人は農耕民族ですが高句麗族は狩猟民族です。狩猟民族というのは大型の動物(熊、トナカイ、イノシシなど野生の動物)が相手であり、格闘し、殺して、その肉を食べるのですから、戦闘的な性格のDNAになります。一方、農耕民族は、植物を相手にしていれば生きて行けるのですからおとなしいですね。

>2.事実上の独立宣言とありますが、するとそれまで日本の朝廷は隋に対して臣下の礼を取っていたのでしょうか?

日本の天皇が隋帝の冊封を受けたわけではないので、隋に対して臣下の礼を取っていたわけではありません。600年の遣隋使では、真の目的は何であれ、表面的には朝貢使節であり、低姿勢でした。しかし、その次の607年の遣隋使では表面的にも「日出づる処の天子・・」と高姿勢をとりました。だから煬帝は国書に不快感を示したのです。

>3.この時点では隋は相当弱体化していたと考えて宜しいのでしょうか?

607年の時点では、隋の国勢は衰退していません。
611年に煬帝が本格的な高句麗遠征を行って失敗してから、山東地方で農民の暴動が起き、これをきっかけにして全国的に暴動が広がります。
612年に煬帝が第二回高句麗遠征をしますが、これが大敗北。皇帝の配下の武将の反乱が起きてしまいました。
こののち、隋は滅亡に向かって一直線となります。
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この回答へのお礼

hinode11さん
補足に対する回答ありがとうございます。

朝鮮は、中国に憧れ完全屈服と思っていた(だから氏名も中国風に変えた)のですが、それはまた時代が違って、対等とまでは行かなくても言いたい事は言える関係でもあったのですね。勉強になりました。

元々の国書に関する質問の件に関しては理解(納得)出来ました。

お礼日時:2010/03/05 22:03

対等です。


随はいわば、『ホクテキ』が中国を統一して、皇帝を名乗っているわけで、それならば、「『トウイ』の我々も、対等であろう。」というものです。
高句麗もほぼ、同様でありましょう。
この対等意識が『白江』の悲劇につがっていきます。
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この回答へのお礼

torajiiさん
回答ありがとうございます。

なる程、そっちだってホクテキじゃん?と言う事ですね。他の回答者さんからの回答にも有る様に、聖徳太子は隋の状況をよく知っていたとの事なので、「何偉そうに。元々お前は・・・」みたいな感じだったのかもですね。

お礼日時:2010/03/05 22:07

日本書紀をみるかぎり、編者たちは中国の史書の知識が十分にあります。

当然、太子も知っていたでしょう。

何を知っていたかというと、書記は記述していませんが、いわゆる倭の五王のことです。この五人は、中国に朝貢しており、将軍号などを申請し手にいれています。また、使節は他の朝貢国との席次争いなどもしています。

以上のことから想像すれば「対等」という考えでしょうか。まあ、世間知らずとはいわないが、甘いかもしれないという疑念はありますが、ただ、聖徳太子はイメージとは違い、相当に好戦的です。実現はしませんでしたが、何度か朝鮮への出兵をしようとしています。そのへんも加味して考えられるとよいかもしれません。

それと、返書は届いていないというのが定説です。それにより小野妹子が罰せられていないのをみれば、あまりに無礼な返書で妹子が処分し、太子も了解していたと考えるのが妥当でしょう。
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この回答へのお礼

fudousinさん
回答ありがとうございます。

なる程、席次争いがあったのは初耳でした。一つ勉強になりました。

聖徳太子は好戦的でしたか。それは外交に関してはなのですかね。取り敢えず国民には「和を持って尊しとなす」と言ってるので、
内交 ⇒ 皆仲良く
外交 ⇒ 対等を貫く
だったとしたら、今の政治家(屋?)にも見習って欲しいものです。

お礼日時:2010/03/05 22:12

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