A 回答 (5件)
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No.5
- 回答日時:
人の立場とは、
人・律・場の局面です。
自即物のホライゾンモーメントです。(俗人おじゃまによる束縛です。)
あそびは、フィンクにとって、インスピレーションが到来するまでの試行錯誤ぐらいの感覚だとおもいますが・・・
しかし、「おれのやりかたもありか!しめしめ」とほくそえむ
おじゃまも、現世に存在しますので、当然足を引っ張られることがあります。
お邪魔の束縛は、
何万回もうそをわめいて、1億人の中に2・3人お前は正しい「かも」しれないと
優しい言葉をかけてくれるだろうと信じる打算です。
本人たちには、戦略となずけられています。
この絶望の局面は、
伝統的には、「主客」・「自我と物自体」という、2元論が、生じる場です。
同時に願いの場でもあります。
(横で熱心に拝んでいる醜い微笑みお邪魔を眼にして、なえてしまう普通の人の立場です。)
特徴としては、無力感・冷淡さ・思考の静寂です。理性の消極的側面というべきでしょうか。
「ぼくちん、反省の為
かがみは いつも もちあるくのら」
というオジャマ折衷プラン(漢の鏡)です。反省する振りのプロです。
要は他人に命令して、自分はおいしい目を見たいだけの社民教です。
自分の臭さに気づかないというのも、その特徴です。
ラカンの主体循環(狂気の輪廻)が、
結局Passion(理性的被創物要因)という性質を中心に空回りしている有様です。
この回答への補足
>人の立場とは、
>人・律・場の局面です。
毎回思うのですが、これらの言葉を哲学として学んでいない人にとっては???です。
>要は他人に命令して、自分はおいしい目を見たいだけの社民教です。
泣いている赤ん坊を微笑んで(ほくそえんで)抱き寄せる母親(父親)が元になっていると言うことですね。
「しめしめ、コイツはオレの影響を多大に受け、言うことを何でも聞くようになるだろう。言うことを聞かなくても「反抗」することで、俺という存在に縛られることには、最低なるだろう」という想いが微笑みに現れているんですね。
泣いている赤ん坊を見て悲しみ・苛立つ(同調する)母親(父親)と対照的です。
すべての人間の幼少期のころの親子関係が素晴らしいものであれば、それによって成り立ち・発展している人間社会も 素晴らしいものになるでしょう。
それが悪ければ、何をしようと事後処理に過ぎず、真の問題解決の手段とはならないでしょうね。
可能性としては「死に方」を考え、良くすることでしょうか。
>本人たちには、戦略となずけられています。
親の、子供に対する戦略とも重なりますね。無意識的でしょうが...
>自分の臭さに気づかないというのも、その特徴です。
親が自分の欺瞞に気付かないのと同じように。
(ちなみに、私の両親はそういった面はほとんどなく、それであればこそ気付くことができたと思いますので、それには、感謝しています。)
>ラカンの主体循環(狂気の輪廻)が、結局Passion(理性的被創物要因)という性質を中心に空回りしている有様です。
根本要因が理解できないと「狂気」として映り、そうとしか言えないのでしょう。「魔術的生産」という言い回しと同じ ということです。
なぜ「狂気」が循環し続けるのか。これまで述べたようなことを、ほとんどの人間が自覚しないで、生き、時として親となり、また繰り返すからでしょう。
哲学(用語)を自分のものとして真に咀嚼できるようになれば、物事の根の部分が解るようになるのではないでしょうか。
あるいは完全に捨て去るとか...
No.4
- 回答日時:
問題の大前提として、ドイツ語を読める人がどんどんひってきているということです。
具体的説明に入ります。
>哲学者モドキは、「結局は全ては遊びである」と言う。
すべては、神話である(ニーチェ)の部分否定です。
神話は、ダイナミズム・新鮮さ・矛盾の取り込み方等、で有利な概念で、
哲学的に取り扱われることが頻繁に行われます。
立場として神は死んだといいつつ自分が死んでしまったニーチェの滑稽さ(=おたまかげん)が、
どこから来るかというというこたえに回答(das entsprechede Respondere)したのが、フィンクです。
>それを言うなら、
>「全ては真剣勝負の試合である」とも言えるからねwww
そういう哲学者たちもいます。
>entsprechenは、二つ以上の意味を持ちます。
言応ずる は、 言い、応ず でしょうね。 げん おうずる と読めばよいでしょう。
ermutigen=何者からか鼓舞され、勇気を得るといういみです。
entmutigenは、勇気を奪いなえさせてしまうという意味合いで使われます。
entsprechen は フーコー的「逃れるあたわざる権力」を意識した、人間のあり方を
表現しているのです。
神の不在・超人の死に直面した一人の人間の絶望です。
「キリスト教的静寂」とは「言葉を奪われた状態」であるという思想も考慮しています。
entsprechenに対置されるのは、
神聖誓願dictum (主に対峙する認識知sciendum=epistehmehでもよい)です。
ersprechen ということばは、ありませんが、aussagen(明言する)という言葉があります。
アリストテレス的哲学の伝統です。
神話も、言い伝えられた言葉からなります。
補足要求
かっぱさんには
なぜつらく当たるの?よくわかりません・・・
この回答への補足
>神は死んだといいつつ自分が死んでしまったニーチェの滑稽さが、
どこから来るかというというこたえに回答したのが、フィンクです。
全体における存在者
は、フィンクは「神としての自分(ニーチェ)」であると言っている。ということで?
>なぜつらく当たるの?よくわかりません・・・
成長すべきはカッパ(仮名)であると言っただけですが...
それとも女子供の 楽しい議論にオトナが割り込んだのがいけなかったのだろうか?
No.3
- 回答日時:
>>遊戯は、目的を探す必要のない人間の行動です。
>スポーツは勝つのが目的
スポーツこそが、人的徒労の「象徴的事例」というひともいます。
権力からは逃げられないという立場です。
勝ってもえるものがないという状態=ジレンマです。
「目的を探す必要」 これは、インスピレーションといういみです。
人の立場に立つとアピールということです。
アピールということに関していえば、自分をごみ「=おじゃま」であるとのべ
わたしのレベルは「お邪魔のレベルです」と宣言することもできます。
物事を語り継ぐということに関していえば、
無知なばか者=おじゃまも
天才も=物知り昆虫博士の子供と同じで、五十歩百歩であるというジレンマです。
なんとはずかしいことでしょうか!
つまり
神的要請(Anspruch)=
「心物を統合するシステム」を完成させるべきであるという必然性が背景になっています。
形而上学的哲学の立場では、この合理的基礎づけが、論証の根底(hypokeimenon)をなしていました。
>楽器の演奏者も、目的があり、遊戯とは思っていないでしょう。
たしかにひとりひとり目的は違うでしょう。
しかし、ばかものの=おじゃまのたわごとは夢物語であるということ
=究極の失望に対し、
ふつうの人間の「ことば」および「あそび」が存在するというのも事実です。
Teleologie(目的論)ということばがあります。
1 人間は、なぜ言葉を持ち、生きているのかということを
2 たわごとをののしり嬉しがっているおじゃまが、(楽しそうだけど)なぜ病気なのかということを
人類的視点から考えていこうというものです。
>真の創造者・創造目的者が存在するための土台・底辺として必要である。
まずは、議論のため「真実の相」・「大事なものごとの理由」ぐらいまで、次元を引き下ろすべきです。
「次元を引き下ろすべきです」というのが、フィンクのやり方ですし。
>ピラミッドの頂点が存在するためには底辺(の辺り)が必要である。
というより
こどもたちや、女性・コミュニケーションなども哲学に生き生きと
取り入れていくべきだという立場だと思います。
もちろんアプローチの仕方として「あそび=ここが一番底辺」とイメージとして宣言しているので
おんなのこや子供が、アウトサイダーであるというアプローチになってしまい、
その意味で、恣意的・男性的であるともいえるのですが。
この回答への補足
>「目的を探す必要」 これは、インスピレーションといういみです。
代入すると
「遊戯は、インスピレーションのない人間の行動です。」ですね。
>人の立場に立つとアピールということです。
誤字?により意味が読み取れず。
>ふつうの人間の「ことば」および「あそび」が存在するというのも事実です。
そりゃそうだ
>人類的視点から考えていこうというものです。
>というより
こどもたちや、女性・コミュニケーションなども哲学に生き生きと
取り入れていくべきだという立場だと思います。
全体にね。
>おんなのこや子供が、アウトサイダーであるというアプローチになってしまい、
その意味で、恣意的・男性的であるともいえるのですが。
全体に薄く・広く広がっている(いく) と考えても良い。
No.2
- 回答日時:
第一部 観点
ファンタジーという言葉があります。
学問的にどうこういう必要もないと思います。
発語の最悪の形式として、うそと言うものがあります。
遊戯は、うそでもなければ、ファンタジーでもありません。
遊戯は、目的を探す必要のない人間の行動です。
遊戯を現実と目的という観点から捉え、遊戯にもし人類の歴史に照らし、
素晴らしい可能性が存在するとしたら、何かということが大事です。
もし、一つ大事という言葉を考えるとして。
この立場から、全ての行動を、遊びに分類できるかという風に問い直すことも出来るでしょう。
第2部
entsprechenは、二つ以上の意味を持ちます。
行動という沈黙
言葉を奪われた人
さらに順応という想いです。
この文章は、形而上学の信奉者と超然哲学の信徒には、意味がある文章です。
世界形式は、Formaとしてのモーメント(Prinzip)です。
存在者は人間です。別しては芸術家。
かけるは、ちょっとキリスト者にしかわからない感覚です。
話す必要はないと想います。サンタさんは存在するという考えです。
(いたらいいなという風な表現のほうがよいのでしょうか)
「自分(目的を持たない芸術家)だけが、まず、広大な宇宙のなかで支配する全体に言応(誤訳)ずることのできる唯一の存在者であるということが帰結される。」
は、この文章の最初に書いた一文です。
予定調和の芸術論です。遊びは、キリスト教(一神教)的宗教的行為(Ritual)であるといいたいのです。
この回答への補足
>遊戯は、目的を探す必要のない人間の行動です。
スポーツは勝つのが目的であり、それは試合や真剣勝負であって、基本的に遊戯とは言いませんね。
楽器の演奏者も、目的があり、遊戯とは思っていないでしょう。
>遊戯を現実と目的という観点から捉え、遊戯にもし人類の歴史に照らし、素晴らしい可能性が存在するとしたら、何かということが大事です。
遊戯人 はのりしろ あるいは
真の創造者・創造目的者が存在するための土台・底辺として必要である。
ピラミッドの頂点が存在するためには底辺(の辺り)が必要である。
と言うことでよいでしょう。
>もし、一つ大事という言葉を考えるとして。
この立場から、全ての行動を、遊びに分類できるかという風に問い直すことも出来るでしょう。
よって、できない。まあ、哲学者モドキは、「結局は全ては遊びである」と言うのでしょうが。
それを言うなら、
「全ては真剣勝負の試合である」とも言えるからねwww
>entsprechenは、二つ以上の意味を持ちます。
これは、どうかな。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5731502.html ←参照のこと。
言応ずる は、 言い、応ず でしょうね。 げん おうずる と読めばよいでしょう。
>「自分(目的を持たない芸術家)だけが、まず、広大な宇宙のなかで支配する全体に言応(誤訳)ずることのできる唯一の存在者であるということが帰結される。」
自分のことを自分でそう言うのは 底辺の存在 あるいは薄く(密度が低く)・広く存在する=全体における存在者 としてということだろうから、ほっとけばよいと思いますが、他者も全てそうである・世界はそういうものだ と思い込んでいるカッパ(仮名)はもはや遊びでしかない空虚な人生を歩み始めたということですね。
>世界の本質が遊戯として考えられるならば、
は、
「世界の本質が真剣勝負として考えられるならば、~」
でも良いわけだ。 よって 「ならば」以降は無効、却下となるwww
>全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、
これを遊戯=世界の本質と言っているのだから、
全体における存在者を世界の本質として存在せしめる
となる。「全体における存在者」がいるなら、それは当然「世界の本質」でもあるだろうから、同義重複ですね。わざわざ同じことを並べて言及するのはおかしいですね。「異様な」でも、なんでもなく、むしろ「普通」と言える。
「異様な」と言っているという事は、「全体における存在者」は神を想定していると考えて良いと思います。
>魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」
のではなく、試されている(賭けられている)から、生産と創造力が生じている。原因(試されている)があって結果(生産、創造力)がある。逆なんだよね。その辺を理解していないから「魔術的」としか思えない。意味が解らないから「魔術的」と言うwww
たいした事ないだろうに イキがってもねぇ...
なるほど、ブロックの組み立てはカッパ(仮名)のほうが上だ、しかしそれが醜いレゴブロックだと気付かず、しかもそれを自分で作ることもできないことに気付かないカッパ(仮名)は まさしく成長するのが当面の課題のようだwww
大人になっても他人の作ったブロックで積み木遊び(遊戯)www
>かけるは、ちょっとキリスト者にしかわからない感覚です。
↓こちらを参照してください。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5731502.html
追記:
「神をオハナシ(根源的な概念遊戯)として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。神がオハナシ(根源的な概念遊戯)として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。(・・・・)
これでも話は通るwww
No.1
- 回答日時:
宇宙とは「己の相補」という思想が有力と思います。
よって、あなたの提出した文章は私には理解できます。正しいかどうかは知りませんが、「この宇宙は私の相補」なので、私にとっては意味のある文章でした。妥当性はあると思いますが、思想的には弱い。量子論が入ると思想的に強くなると、このオイゲンさんにお伝えください。
この回答への補足
相補:互いに不足を補うこと。「―関係」
と言うことでよいでしょうか。
<<宇宙とは「己の相補」>>が正しいとすれば、
「全体における存在者」は、自分ではない ということになりますね。
自分で、自分を遊戯として(かどうかはともかくとして)世界(宇宙)に存在せしめている のだから。
完全に矛盾すると思いますが...
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