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 わたしたち人間の能力を超えていることなのか? それとも 人間のおこないうる行為であるのか? これを問います。

 《ヰキペ:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2

 まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉( スサノヲ人間( S )語 )であって しかもすでに同時に 抽象一般化しまたその概念を純粋化し高めたもの( アマテラス普遍( A )語 )であると考えられます。
 抽象化され高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。

 ▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~
 1. 〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、

 【 S 語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、

 【 A 語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。
 したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。

 2. 次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は

 【 S 語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻(うめ)き」にあるという。
 「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。

    ☆(私註) これらの S 語は 日本語の《もののあはれ》に通じて
    いると思われます。

 【 A 語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。

 3. 仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。

 (一) 衆生縁とは   衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。
   ☆ (これは =【 S 語】か? つまり経験現実か?)

 (二) 法縁(ほうえん)とは、   すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。
   ☆ (これは ≒【 S 語】か? そのような経験現実か?)

 (三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。
   ☆ (これは =【 A 語】であろう。あたかも≠【 S 語】か? それとも 【 S 語】じたいの中に潜在しているというのか?)

 この三縁の慈悲とは、
 第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、
 第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、
 第三は 仏の哀愍の心であると言える。
 この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことであるとも考えられます。そのことをも含めて 慈悲は 人間の実際におこないうる現実であるか? こう問います。
 あるいはまた 《もののあはれ》という S 語は 普遍 A 語の内容をも宿しているか? この問いも含みます。
 ずばりおしえてください。

A 回答 (37件中1~10件)

 こんばんは、勝ってながら「もののあはれ」から、こちらの方に移ってきました。

Hidocchiです。

 まず、余談ではございますが、この「慈悲」という言葉なのですが、当初は、釈尊の発せられた言葉と理解しておりました。ですが、スッタニパータを見ましても、“無慈悲”という言葉が見られるぐらいで、この「慈悲」ということばは見当たりませんでした(訳者は中村元氏です)。そこで、由来を調べていきますと、世親(vasubandhu)ぐらいからだと判明致しました。つまり、世親の「浄土論」に、曇鸞大師(どんらんだいし)が注釈をつけ、「浄土論註(じょうどろんちゅう)」を著し[参考1]、その中で、かような小悲(しょうひ)、中悲(ちゅうひ)、大悲(だいひ)と位置付けをしているようでございます[参考2]。

参考1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%87%8F% …
参考2
http://www.hongwan.net/index.php/%E4%BB%8F%E5%BF …

 そこで、ご質問なのですが、3つに分けて愚見を述べてみたいと思います。

Question 【S 語】or【A 語】? 

小悲:一般的には【S 語】と解します。ですが、例えば、アメリカの共和党(小さな政府;必然的に貧富の差が生じます)と民主党(大きな政府;民主社会主義的な面を持ち、貧富の差が小さくなります)、さらに英国の保守党と労働党も同じ関係にあろうと考えられます。つまり、国民に選ばれた為政者(A側かと察せらます)も、国民の意思(例えば、貧富の差の縮小・白人以外の他民族の意思の尊重)に沿った形で政策を進めるからでございます。
 従いまして、基本的には【S 語】、しかし、【A 語】ともなりうると解しております。

中悲:契機・予定論的な要素も含んでいるかと考えられます。つまり、かような(“空”観思想に触れるという)偶然性のようなものがあると思うからでございます。一方、仏性を持った人が、他の人を教えることもあろうかと考えらます。従いまして、これも、原則は【S 語】と解しております。

大悲:相依・相待という関係(縁起)により、ひとがありうる ということかと愚生は解しております(上記 参考2からでございます)。これも偶然性も絡んではきますが、「それ(縁起・空)を理解できる人が存在する」 ということを鑑みますと、中悲と同じ結論になろうかと考えております。

 ご参考になれば、幸いでございます。

この回答への補足

 ひどっちさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。

 ★ この「慈悲」という言葉なのですが、・・・由来を調べていきますと、世親(vasubandhu)ぐらいからだと判明致しました。
 ☆ そうでしたか。《仏性》と同じような位置づけになるでしょうか。ブッダの直説ではないという点で。

 整理します。
 1. 『無量寿経』:浄土三部経の一つ。ブッダの直説ではない。
 2. 『浄土論』:上の経典の世親による注釈書。
 3. 『浄土論註』:世親注釈書の曇鸞による注釈書。
 4. 『仏説無量寿経』:(1)の康僧鎧による漢訳書。法然や親鸞らはこれを読んだ。

 5. 三縁(衆生縁・法縁・無縁)の慈悲:『涅槃経』に説かれる。
 6. 小悲・中悲・大悲:このように三縁をそれぞれ位置づけたのは 『浄土論註』。

 7. [参考2] 《仏心というは、大慈悲これなり》 ~~~~~~
 衆生縁の慈悲(小悲)というのは、病などで苦しんでいる人に出会ったときに、助けたいと思う心、人情としての慈悲と言ってよいでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ スサノヲ人間語ですね たしかに。人情と言ってもよいようです。

 8. [参考2] ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 法縁の慈悲(中悲)というのは、仏教に出遇ったところにはたらく慈悲です。諸行無常とわかりながら、どこまでも、執着を離れ得ない、そういう自分の身が明らかにされ、はずかしく思う心を起こさせるのが法縁の慈悲です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ スサノヲ人間語が 磨かれ始めるといった感じでしょうか。

 9. [参考2] ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 対象のない慈悲が無縁の慈悲(大悲)です。
 対象がないということはどういうことでしょうか。私たちは全てのことがらの出発点に自分があります。そして、私の存在こそが中心であると思っています。けれども私と思っているだけで、何の根拠もありません。仏教はそのことを「縁起(えんぎ)」と教え、「空(くう)」と教えています。
 私はここに生きていると言いますが、実はあるものに依ってあるものがあるという相依相待(そうえそうたい)において、あり得ているだけであり、他には何もありません。生きているのではなくて、むしろ生かされているのです。
 このように自己の存在を明らかにしてくれるはたらきが無縁の慈悲です。仏教における本当の慈悲とはこの無縁の慈悲のことです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ううーん。深いんですね。――ただ こうだとしますと もはやひとは何もしないといったことにもなるやに思われます。人とのまじわり(交通)におけるアマテラス人格語であるのかどうかが 問われませんか?

 ▲ (ヰキぺ:成仏) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E4%BB%8F
 さらに後期大乗仏教になると、・・・

   《一切衆生は本来成仏している》

 と考える思想(如来蔵・本覚)や、

   《信によって本尊に加持することで煩悩に結縛された状態から、ただ
   ちに涅槃に到達できる》

 とする密教の即身成仏などの思想も生まれた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これら《本覚思想》あるいは《即身成仏》――要するに 《〈われはブッダなり〉と誰もがそれぞれ宣言する》方向――と軌を一にすると言ってよいでしょうか? いかがでしょうか? そしてそのときの対人関係における実践はいかに? という問いをなお持つのですが?

補足日時:2010/03/23 21:45
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 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiです。

 どうも申し訳ございません。かえって戸惑わせてしまい、深くお詫び申し上げます。ただ、愚生といたしましては、荒れることもなく、ブッティストの方々の考えを拝聴することができたことに対し(意見の相違は別としまして)、とても参考になった というものでございます。従いまして、お気を使っていただく必要は全くございませんので、この旨ご理解いただければ幸いでございます。

 考えてみますに――と言いますのも 浄土系だということに注意を向けておられますからですが―― 表現のちがいが問題になるかとも思われて来ます。
 ちょうど つまりとうさんが 次のように書いてくれていますね。
 ◆ (回答No.20:tumaritou1 さん) この大悲と言う意味を習得するためには、心を究極の意味において「一切皆苦」と言う所に置かないと出来ないかも知れません。
 ☆ このご指摘と合わせてわたしが何を思ったかと言いますと どうもブディズムの表現には一般的に《受け身ないし消極的》な傾向があるのではないか これです。? 人間関係に対して決して避けていたり消極的であったりするのではないのだけれど 思想を表わすときには 控え目であるというようにです。じっさい控え目なのでしょうが 相手や人びと一般に対して 考えを述べたり時にはちょっとした助けとしての行動にまで及んだりするのだと思います。それなのに その行動などのことについて表現する場合には 何だか積極的に行為するとは感じないように表わす――といったような傾向がです。

 確かに、釈尊が「一切皆苦」という“苦”から、出発・出家したかと記憶しております。そう考えてみますと、tumaritou1様のご意見も一理あるかもしれません。
そこで、問題となってきますのは、「人間と言うものは如何して苦しい想いをしなくてはならないのか?」と言う事が把握できなければ、いかに学問から学ぼうとしても(慈悲・悟りは)出来ないのでないか?という問いかけ かと理解いたしました。

 これは、愚見でございますが、仏教の基本的概念、“諸方無我”、“諸行無常”といった概念は、確かに小・中学生では、理解は困難かと思われます。これは、仏教の根本理解そのものというよりも、概念上の抽象さからくる困難さからでございます。では、生きていく上での“苦しさ”を知らなければ、仏教を学べない・理解できないか?と問われますと、つまり、“悟り”・“涅槃”が分からないか?と申しますと、愚生は否定的でございます。と申しますのも、特に“慈悲”につきましては、ほとんど、ひとは生来持っているものと解しておりますし、そして、この“慈悲”の実践を通して、さらにこの“慈悲”の大切さを理解していくものと思われるからです。そして、その中で、“悟り”なるものが、自然と学ぼうと思ってくるでしょうし、また理解もできてくると考えております。ですが、この“実践”がなければ、やはり、理解(そもそも学ぼうとする意欲すらも)は困難かとかんがえてもいます。かつて、在家信者に大乗仏教を広めようと尽力した、竜樹もそうかんがえていたかと推察しております。

 まとまりのない文章となってしまいましたが、ご参考になるところがございましたならば、幸甚に存じます。

 末尾ながら、皆様、どうもありがとうございました!!!
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この回答へのお礼

 ひどっちさん どうもありがとうございました。
 
 たぶんたとえばパウロは《宣教という愚かな手段》とも言っています。そのつてで考えるなら やはりおしえてくださったように さとりと慈悲心とは ともに基本として 存在論である。こう帰結されることを 思いました。
 今回のご文章に接しては 普段は控え目でいて それというときには 慈悲心も発揮されるということのように そういう描像として 捉えられるように感じましたし 思いました。

 てるてるさんへの応答として次のように書いています。
 ◆ (No.35お礼欄) いまは 思えば遠く来たもんだくらいに思っていますが しばらくしたら また同じ主題で問い求めることが出来てくるくらいであれば しめたものでしょうね。
 ☆ お互いにさらにあらたなステージにいることができるならば ありがたいことだと思います。
 しばらく寝かせましょうか。

 ではこんどは ほんとうに閉めることにしたいと思います。
 ありがとうございました。

お礼日時:2010/04/05 23:44

日々これ精進と、はからいなき日々の異なる点が見出せないのだけれど、川は走っているのか、流れているのか、降っているのか、どれなんだい、見たいな事ですかね。



どれもまぁ間違いではない。

太陽は背伸びして昇るわけじゃないですからね。
しらーっと上ってくるわけですよ。
毎度おおきにってわけでもなく、そういうお約束だから。
別に積極的でも消極的でも、そういう話でもなく、太陽は昇るもの、川は流れるもの、人は覚るもの、それはおきまりのことなんじゃないですか。
心配しようがしまいが、そういうもんだから。ダルマっつうのは。
いやぁ、なんか、たのしかったなぁ。

みなさんまたね。(^^)/

ごきげんよう。縁があればまたお話できるでしょう。
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この回答へのお礼

 分かりました。現象の違いにいちいちこだわることもないよと。

 てるてるさん ご回答をありがとうございます。

 いえね。その昔 はからひ無きを旨とすべしと聞いたら はからひを無くそうというのは はからひになるな どうすればよいのかと悩んだことが思い出されて・・・。

 ひどっちさんからあるかどうか。もう一日待ちます。

お礼日時:2010/04/05 19:37

こんばんは。

皆様。bragelonneさん。

禅的な言葉にきこえるかもしれませんが、起こさずして起こす、仏のやさしさではないかと思います。
癒したことに気づかれない、本人さえもわかっていない、その様な姿が、究極の人の姿であるのではないかと思いました。
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この回答へのお礼

 お早うございます てるてるさん。ご回答をありがとうございます。

 いやあ ですから
 ★ 癒したことに気づかれない、本人さえもわかっていない、その様な姿が、究極の人の姿であるのではないかと思いました。
 ☆ この姿にわたしたちは《なろう》と思って自己表現を重ねて行くのか? それとも 何らその姿やブッダとしてのさとりについて たとえ一度や二度話に聞いたとしても 意識もせずに生活しているときに 究極の状態に到ることが出来るというものなのか?

 信仰すなわち非思考であるならば 《はからひ無き》をむねとするでしょうし その境地に到るのも たとえ一度や二度はその目的を持って走ることをしたとしても その自分の走りによってではまったく無いのだとなるかとは思いますが。・・・

 あぁ でも いっそのこと
 ★ 禅的な言葉にきこえるかもしれませんが、起こさずして起こす、仏のやさしさではないかと思います。
 ☆ という中身を 《わたし》は いま・ここですでに この身のどこかに――知らないのだけれど――帯びている。ということかも知れませんね。あぁ でも これはただの高ぶりでしょうかねぇ。

 なかなか おもしろいやり取りでしたね。それぞれの方が個性があって。
 いまは 思えば遠く来たもんだくらいに思っていますが しばらくしたら また同じ主題で問い求めることが出来てくるくらいであれば しめたものでしょうね。《はからひ》としては 昔から 日々是精進と言ったでしょうから はからひ無き日々において そういう精進の結果が出たなら 変な言葉を使いますが もうけものになるかも分かりません。
 ではでは。

お礼日時:2010/04/05 07:32

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiです。

 繰り返しになりますが、この三種類の”慈悲”の分類方法は、浄土教に貢献した僧侶であったことに気づきました。そこで、”なぞ”の部分も含ませてもいいのでは と考え直した次第でございます。
 例えば、”無縁”の「それは仏にしかない心」の仏は、”阿弥陀如来”を意味していたのでは? と考え直しました。つまり、非思考的、非経験世界の事柄も含んでいるのではないかと考えてみた訳でございます。

 愚生も、今回の、teruteru_3様、 tansll様、tumaritou1様の貴重な(ブッティストの)ご意見を拝聴出来ましたことには、とてもうれしく思っております。
 また、このような機会をお与えくださいましたbragelonne様にも、改めてお礼を申し上げたいと持っております。どうもありがとうございました。

 それでは、またよろしくお願い申し上げます。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん なんだかわたしに気を遣っていただいたようにもなっていささか戸惑います。
 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 考えてみますに――と言いますのも 浄土系だということに注意を向けておられますからですが―― 表現のちがいが問題になるかとも思われて来ます。
 ちょうど つまりとうさんが 次のように書いてくれていますね。
 ◆ (回答No.20:tumaritou1 さん) この大悲と言う意味を習得するためには、心を究極の意味において「一切皆苦」と言う所に置かないと出来ないかも知れません。
 ☆ このご指摘と合わせてわたしが何を思ったかと言いますと どうもブディズムの表現には一般的に《受け身ないし消極的》な傾向があるのではないか これです。
 人間関係に対して決して避けていたり消極的であったりするのではないのだけれど 思想を表わすときには 控え目であるというようにです。じっさい控え目なのでしょうが 相手や人びと一般に対して 考えを述べたり時にはちょっとした助けとしての行動にまで及んだりするのだと思います。それなのに その行動などのことについて表現する場合には 何だか積極的に行為するとは感じないように表わす――といったような傾向がです。

 ですから つまりとうさんが
 ◆ (同上) それは『人間と言うものは如何して苦しい想いをしなくてはならないのか?』と言う事が分かった後の心の状態であって、そこまでに至らないものがいかに学問から学ぼうとしても出来ない事と言えるはずです。
 ☆ と述べておられるその捉え方とは 微妙にちがうようにも思うのです。学ぶのなら 思弁的にさえ自由に学んでよいと考えますし おそらくわざわざ自分の生まれ育った境遇にもないような苦行をする必要もないと考えます。
 ですから
 ◆ (同上) 一切皆苦の反対語が『涅槃』です。この意味が判ったときには自動的に分かるはずです。悟りを開く事が先に必要と言う意味です。
 ☆ と述べておられるとき この《涅槃》という表現じたいには注目してもよいかと思ったところです。執着の捨から涅槃へ ということなんでしょうけれど はじめに大前提ないし基本命題として 仏性・さとり・慈悲心だとして打ち出してもよさそうにもちょっと思いました。

 もう少し開いていますので 何かありましたら どうぞお寄せください。

お礼日時:2010/04/04 21:46

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiです。

> この中の《独り占めにしてもよかったのですが》は まったく問題ないと考えます。それがそもそも自由ということなのだと考えますから。

 愚生と致しましては、もし、釈尊が“悟り”を得、その後、説法はじめ何もしなかった場合、どうなっていたのか という疑問がございました。そこで、かような表現をさせてもらった次第でございます(だれか他の方が説いてくれていたのかな???)。


 そうしますと 慈悲心の実践は ひとの自由意志によってもおこなうという言明になるのですが この場合は 但し書きが必要になりましょうか。すなわち 
> (1) なるほど いかに潜在的であったとしても 慈悲心の顕在化つまり現実における現われは おそらくひとの能力や努力を超えたところによってはたらくという側面があると わたしは受け取っています。

 仰いますように、人間理性の範囲外の作用もあろうかとも考えられます。つまり、慈悲心の現われかた、およびその強さ(深さ)は、一律に決定できないと思われるからでございます。場所・時間により、異なるというのが一般的かと考えられるからです。また、顕在化するタイミング自体も経験世界の法則のみでは、決せらないものと考えております(偶発性の問題も含んでいるかと考えております)。

> (2) でも人間が・つまり《わたし》が 或る程度の意図をも明確にして 志向性としては相手に対する慈悲ないし友愛のかたちで 接したり話したりすることがあるのだと受け取っています。

(1)の“ひとの能力や努力を超えた”場所においてON or OFFがなされる慈悲心も、《わたし》により、意図の明確化・志向化が可能ということでしょうか?
愚生が思いますのには、慈悲心を交えた交流も、何か”偶発的”要素がからんでいるようにも思えるのですが。

> (3) さらにただしになりますが ただし この慈悲心の発揮にかんして その願いや目的が実現されるとしたら それは 走る人間の力によるのではなく 何ものかなぞの力によるのだとも受け取っています。

 上記(1)、(2)から、上記の結論が導けるかと存じます。

いっそのことになりますが 《わたし》にすべておさまるものと捉えてはいかがでしょうか? 
 自我も超自我も何なら無意識もです。
> 自我やそれへの執着は わたしがそうするものです。これを見守り時には制御するという超自我も わたしの意志行為としてはたらくのだと見るというわけです。

 釈尊が説いておりましたように、“自我やそれへの執着”の制御は、可能でありますし、またそれは、その人の意志によるものであるとも考えられます(“諸法無我”を理解しようし、実践しようとする意志等です)。

> 無意識も 意識にのぼってきたなら そのとき あぁ そういう意識があったのかと気づき受け取ればよいものと思います。《わたし》がそうするという格好です。

 この論点につきましては、以前、愚生がご質問させていただきましたように、意見を等しく致します。

> すべて《わたし》の主観内面における作業ですし 外面とのかかわりも とうぜん《わたし》の――受け身および能動の――意志行為であるのだとです。

 “授・想・行・識”といったところでしょうか。

 心理学も、また精神分析も、未だ定説が存在しない部分もあり、なんとも申し上げられないのですが、今回は、誠に勝手ながら愚生からの質問という形で、述べさせていただきました。非礼をお詫び申し上げますとともに、まずは、ご返答申し上げたいと思います。

 ご返答賜れば、幸甚でございます。
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この回答へのお礼

 今晩は ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。


 何だか案ずるよりは産むが安しでしょうか。一応の決着をみたようですね。

 わたしは すでに申したかも知れませんが 勉強としては三身常住のところに来て分からないでいたところ ふと 三位一体論に出会って そちらを読み始めたのでした。一冊を終えるのに――途中 寄り道や道草をわざとしつつ―― 一年かけました。その後も一日どこからでも開いて十ページほどづつ読みついで行っていました。その結果 ブディズムには 長いあいだ 帰ってこなかったのです。
 やっと三年前ほどですか ここで質問をして勉強を再開したという経緯になっています。

 ということは 全体観が成っていないままだという意味があります。それがいちばん大きな問題だと思っています。

 (2)のところで
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (1)の“ひとの能力や努力を超えた”場所においてON or OFFがなされる慈悲心も、《わたし》により、意図の明確化・志向化が可能ということでしょうか?
 愚生が思いますのには、慈悲心を交えた交流も、何か”偶発的”要素がからんでいるようにも思えるのですが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはですね。慈悲心そのものではないけれども 《わたし》も自分の心と考えと意志とで 慈悲心として思うところを 実行に移そうとすることを言います。
 言いかえると 確信をもって行動するといったことを言おうとしたものです。
 言いかえると ダメならダメだと分かるようになるということ。
 あるいはまた ひとつの段落として結果が良かったとしても その知らせは 自分の慈悲心を実践するという意識が遠のいたころに 与えられる。
 こんなところでしょうか。

 でも こんなかんたんに 自分の考え方で慈悲心を捉えてよかったでしょうか? 経典ですとか研究書などの論拠も いま何も持ち合わせていないのですが? つまり《愛》の主題をそのまま横滑りさせたような内容なのですが?


 おつかれさまでした。たぶん そろそろお開きにすることができるでしょう。締めくくりのお言葉を言っていただいたりするためにも もうしばらくしてから閉じることとします。

お礼日時:2010/04/02 22:30

 こんばんは、ご返答賜り、厚くお礼申しあげます。

Hidocchiでございます。

こういう疑問は起こすほうが間違いでしょうか? 
 ○ 犀の角のごとくひとり歩めという助言を与えることは ひとり歩んでいるのではないことを意味するのではないか?
 ○ でもそう助言しているのなら それは そもそも慈悲心からではないか? つまり ブッダじしんの――間接的な――説としてでも 慈悲心は説かれているのではないでしょうか?

 まっとうなご質問かと存じます。

 昨日の愚生のご返答内容は、bragelonne様のご質問内容を、自分なりの順番に変えてみただけでございます。舌足らずで申し訳ございませんでした。
(1)釈尊が悟りの内容を説いた。
(2)執着に対する《捨》が成就したときには、慈悲心は、身から現われみづからも実践するようになる。
(3)(故に)修行を経てさとりを得たときには 釈尊がそうしたように、説法を始めるのがよい。慈悲心は、ひとにとってもっとも大事なことであるから。 

 もしおかしい個所がございましたら、ご返答いただければ幸いでございます。

> ☆ このように本覚思想のごとくそもそも人には仏性がそなわるといったように慈悲心を捉えているのであれば――わたしの持論としてはですが―― それはわがこころという大海の潮のようなもの(ちょっと たとえがずれているかも知れませんが)ですから 《自我》やそれへの《執着》は おもてに吹く風や立つ波くらいのものと言ってよいのではないでしょうか?

 愚見:「またその実践は、一般的には、“自我への執着”とは逆方向のものとも考えられます。従いまして、“自我への執着”の減少・除去は、慈悲心に結びつくと考えられます」
 は、”執着に対する《捨》により、慈悲心が現われ、実践へと向かう”理由を考えてみたものでございます。

 もう少し、自分でも考えてみたいと思っております。

 まったく、誤解を招きかねない表現をしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。

 何かございましたら、ご返信いただければ、幸甚に存じます。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★★ (回答No.31) (1)釈尊が悟りの内容を説く。 (愚見:独り占めにしてもよかったのですが、そうはしませんでした。これは、釈尊の“慈悲”の心からだったかと推察されます)
 ☆ この中の《独り占めにしてもよかったのですが》は まったく問題ないと考えます。それがそもそも自由ということなのだと考えますから。

 そうしますと 慈悲心の実践は ひとの自由意志によってもおこなうという言明になるのですが この場合は 但し書きが必要になりましょうか。すなわち 
 (1) なるほど いかに潜在的であったとしても 慈悲心の顕在化つまり現実における現われは おそらくひとの能力や努力を超えたところによってはたらくという側面があると わたしは受け取っています。
 (2) でも人間が・つまり《わたし》が 或る程度の意図をも明確にして 志向性としては相手に対する慈悲ないし友愛のかたちで 接したり話したりすることがあるのだと受け取っています。
 (3) さらにただしになりますが ただし この慈悲心の発揮にかんして その願いや目的が実現されるとしたら それは 走る人間の力によるのではなく 何ものかなぞの力によるのだとも受け取っています。

 ○ 自我
 ☆ は 無意識の問題とともに ややこしいと捉えています。
 いっそのことになりますが 《わたし》にすべておさまるものと捉えてはいかがでしょうか? 
 自我も超自我も何なら無意識もです。
 自我やそれへの執着は わたしがそうするものです。これを見守り時には制御するという超自我も わたしの意志行為としてはたらくのだと見るというわけです。
 無意識も 意識にのぼってきたなら そのとき あぁ そういう意識があったのかと気づき受け取ればよいものと思います。《わたし》がそうするという格好です。
 すべて《わたし》の主観内面における作業ですし 外面とのかかわりも とうぜん《わたし》の――受け身および能動の――意志行為であるのだとです。

 たしかに心理学や精神分析などの正式な見解を検討したかどうかはあやしいと言わねばならない部分を残すと思われますので いろんな角度から自由に切っていただいて構わないと思います。むろんそういう弁証法過程であると思われます。お待ちします。

お礼日時:2010/04/01 22:57

 こんばんは、ご返答いただきまして、厚くお礼申し上げます。

Hidocchiです。

 そもそも、“慈悲”の三つの定義は、曇鸞によるものだったかと記憶しております。
なお、曇鸞の著作(「仏説無量寿経」の注釈書である)「無量寿経優婆提舎願生偈註(別名:浄土論註)」は、浄土教の基礎となった書物のようです[参考1]。
因みに、原典の「仏説無量寿経」は、親鸞がもっとも重んじた経典で、浄土真宗の最重要経典だとのことです[参考2]。
参考1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%87%8F% …
 参考2
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%87%8F% …

 つまり、この“阿弥陀信仰”に基づく“慈悲”の概念と、釈尊の初期仏教当時の思想とが、重複してしまったがために、後世のブティスト達には、ややこしい問題(特に“無縁”の概念および扱い)になったように見受けられます。
 それでは、本題に移らせていただきます。

> おもしろいことを考えました。思考実験です。

 確かに、仰られまように、「法を説く意義」は、“慈悲心”との関連性が予想されます(少なくとも、論理的矛盾はないように見受けられます)。順を追えば以下のようになりますでしょうか。

(1)釈尊が悟りの内容を説く。 (愚見:独り占めにしてもよかったのですが、そうはしませんでした。これは、釈尊の“慈悲”の心からだったかと推察されます)
 → 
(2)執着に対する《捨》が成就したときには、慈悲心は、身から現われみづからも実践するようになる。 (愚見:慈悲心とは、元来人にはアプリオリに備わっているものかと思われます。またその実践は、一般的には、“自我への執着”とは逆方向のものとも考えられます。従いまして、“自我への執着”の減少・除去は、慈悲心に結びつくと考えられます)
 →
(3)修行を経てさとりを得たときには 釈尊がしたように、説法を始めるのがよい。慈悲心は、ひとにとってもっとも大事なことであるから。 

 ご参考になるところがございましたなら、幸いでございます。
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この回答へのお礼

 つまりとうさんは ブッダの姿が模範である以上になぜか重石のようになっているのではないか――あぁ 勘違いでしたでしょうか。

 ひどっちさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。

 慈悲心という主題がなくても ブッダはブッダである。こういう命題をおしえてくださっているのでしょうか?

 
 こういう疑問は起こすほうが間違いでしょうか? 
 ○ 犀の角のごとくひとり歩めという助言を与えることは ひとり歩んでいるのではないことを意味するのではないか?
 ○ でもそう助言しているのなら それは そもそも慈悲心からではないか? つまり ブッダじしんの――間接的な――説としてでも 慈悲心は説かれているのではないでしょうか?


 ★ 慈悲心とは、元来人にはアプリオリに備わっているものかと思われます。またその実践は、一般的には、“自我への執着”とは逆方向のものとも考えられます。従いまして、“自我への執着”の減少・除去は、慈悲心に結びつくと考えられます
 ☆ このように本覚思想のごとくそもそも人には仏性がそなわるといったように慈悲心を捉えているのであれば――わたしの持論としてはですが―― それはわがこころという大海の潮のようなもの(ちょっと たとえがずれているかも知れませんが)ですから 《自我》やそれへの《執着》は おもてに吹く風や立つ波くらいのものと言ってよいのではないでしょうか?
 つまり 慈悲心は 潜在的なかたちとしてでも アートマンやそれへの執着を たとえ少々それがあったとしても じっくりと身守っているのではないでしょうか?
 つまり アートマンとの対立概念ではないのではないですか? 次元が違うと思うのです。

 ここへ来て 違いが現われてまいりました。わたしは言わば挑戦者として 問い続けたいと思いますので よろしくお願い致します。

お礼日時:2010/03/31 22:30

 続きからでございます。



> よほど個人の個人による個人のさとりが 根本であって そこに慈しみのことが付け足されているだけだと 意地悪く見たくもなって来ましたが 収拾のつくことでしたら きっぱりと結論を明らかにしてくださいませんか?

 以下に他の方のご意見をご紹介させていただきます。愚生も基本的には同じ考えでございます。

《慈悲は仏教によって生み出されるのではない?》 からでございます。
(長文ではございますが、中盤以降は仏典の引用をしておりますので、筆者の見解を知る箇所は多くないと思われます)

・パーリ経典において、慈悲への言及が全体に占める割合は、多くない。 (愚見:事実かと思います)
・修行者に向けて説かれる慈悲と、釈尊の特質としての慈悲とでは、微妙にニュアンスが異なる。
・修行者に対しては、怒りや殺生の制止を説く文脈の中で、その対比として慈悲が言及されるケースが多い。 (愚見:確かにその通りかと思われます)
・慈悲を修行者の目的として、「有情のために修行せよ」と説く経典は、ほとんどない。
・「他のため」ではなく、自分を守る方法として、慈悲が説かれている経もある。本来の意味は、「慈悲があれば危害を避けられる」ではなく、「慈悲があれば、どのような状況に陥っても悪しき反応によって苦をつくることなく、平安を保つことができる」という意味であろう。慈悲に期待されていることの重要な一面が、主観的・内面的効果であることを物語っていると思う。 (愚見:一考に価するかと考えております)
・つまり、修行者に説かれる慈悲のほとんどは、他者救済という目的としてというよりも、怒りなど自分の悪しき反応を制止するための方法・手段として説かれている。 (愚見:確かに、そう見受けられます。上記スッタニパータからの引用もこれに近いと思われます)

 そして、これらのことからこんな思いつきを得た。
 慈悲は仏教によって生み出されるのではなく、執着と同様に、凡夫がもともと持っている反応のパターンではないかだろうか。
 釈尊、あるいは修行完成者においてはどうか? 無常=無我=縁起を腹の底まで納得して、執着の反応が止んだらどうなるのか? 執着が消え、その制約がなくなった分、慈悲が本来の100%の勢いで働くのだと想像する。          (以上 引用です)

 つまり、執着が減じた(消滅した)分、慈悲がそれを補充するかのように、働き始めるというものでございます。

> どうなのでしょう 個人という中核をどこまでも大事にするという方針こそが 社会的な交通の要諦に 周りまわって 成ると考えるのがよいでしょうか? そこらへんは どのようにお考えになりますか?

 我が国の憲法にもありますように「すべて国民は、個人として尊重される。(13条)」、社会的・もしくは民主主義的観点からは、“個人の尊重”という考えが基本になろうかと考えております。

 お役に立つところがございましたら、幸甚に存じます。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。

 まとめてこちらでお応えするつもりで書き始めています。
 おもしろいことを考えました。思考実験です。

 ○ (架空の物語による質問)~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 梵天勧請を受けたかどうかにかかわりなくブッダがさとりの内容を説法し始めたとするなら それは慈悲の心であるだろう。
 もし慈悲心が――慈悲喜および《捨》を含めて そしてあたかもパウロがその同じ座に《愛》を持ってきて説くように――ひとにとっていちばん大事なことであるとすれば かれはこう説いていたはずだ。
  ――修行を経てさとりを得たときには わたしと同じように
   説法を始めなさい。それが 人間にとってもっとも重要
   なことがらなのです。
 と。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり
 ○(質問の言いかえ) 心の内面におけるさとりが根本的に重要であるとしても 説かれるように執着に対する《捨》が成就したときには慈悲心が 泉から水の湧くごとく 身から現われみづからも実践することになるというならば 慈悲心とその発揮としてのこの実践こそが 最大の眼目であるとなるはずではないか? 

 ☆ どうでしょう? この問いにすべては帰着するように思うのですが?

 考え違いや考え損ねがありましたら その節はひとえにご容赦を 前もって お願いしておきたいと思います。では よろしく。

 * 何だか どこかの折伏修行のごとくになって来ました。法を説くことこそが慈悲心だというのならばです。どうかこのなぞを解いてくださいませ。

お礼日時:2010/03/30 21:46

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiです。

> 《仏教》と《それ以外の思想ないしいわゆる宗教》 とで区分することは どうなんでしょう?
わたしは 《絶対》の概念についてどう捉えているのか? また ブッダは絶対者であるか? などと問うていました。

 《仏教》を宗教とみなさない、もしくは釈尊はひとであるとの見方は決して珍しい考えではないと考えております。

中村元(共著)「ブッダの人と思想」
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%83%E3%83 …

多くのレヴューアーの印象としましては、「仏教というよりも、ブッダの教え」という観
が見られます。また、「スッタニパータ」におきましても同様かと思われます。

 語弊があるかも知れませんが、“儒教”と同じような見方をしております。愚生は孔子の思想と考えておりますが、宗教的側面もあり、議論は分かれているようでございます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99 の「儒教研究上の論争」の箇所をご参照くださいませ。

> 「スッタニパータ」8章 慈しみ 
いわゆる宗教でなくても あるいはまた特定の思想を掲げなくても 一般のひとがふつうに生活する上で持つ生活態度であるように思われるのです。
  互いに対する思いやりをかけるとか 助け合いをこころがけるといった生活の知恵に還元されると思われるほどでもあります。

 以下の、《慈悲は仏教によって生み出されるのではない?》の項をご参照くださいませ。

> 三人寄れば文殊の知恵と言いますが 万機公論に決すべしといった民主主義のひとつの考えなどは 掲げられていないのでしょうか?

 ブティズムでは、どうしても、内面的(内向的)要素が多いと考えられます。つまり、“和”もしくは“公論”といった概念は、原則存在しないと考えております(もちろん、民主主義もでございます)。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 以降続きます。
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この回答へのお礼

 ありがとうございました。

お礼日時:2011/03/24 17:28
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