人生のプチ美学を教えてください!!

神は1人と考えていますか?
キリストもブッダも神だとすれば、神は複数いるという考えですか?
それともキリストもブッダも融合させて1人の神という考えですか?

※私は神の存在を信じてはいませんが、神を信じる人を馬鹿にするつもりは全くありません。素朴な質問をさせて頂きました。

A 回答 (13件中1~10件)

>>神は1人と考えていますか?



これってなかなか難しい問題ですね。日本人は、宮崎アニメに象徴されるように、「汎神論」を無意識で信じているようです。いわゆる「やおよろずの神」というか、キツネやタヌキ、蛇や樹木までもが「神」の仲間ですね。これですと、宗教争いは起きにくいですが、「私の信じる神も「神」、貴方の信じる神も「神」。どっちの神の意見も悪いとも良いとも言えない・・」という「あいまい」な世界になってしまいます。

これは、海外の方々からみると、「善悪の判断もできない無能で、非論理的な人種」という判断をされがちになります。一般的には、「唯一神、人格神」を信じる宗教のほうが、善悪の判断がきっちりしていて、論理的であり、レベルは上とみられるようです。

で、私の回答ですが、人間は、「永遠の命を持つ霊的存在であり、転生輪廻を繰り返している。」そして、その中で優れた霊が神格を持って、一般的に「神」といわれる存在になっている。日本では、そういう方を「○○神社」などを作って神として祭っていますね。ブッダもキリストも、マホメットもそういう意味では、神の一員ですね。

なので、「神は複数いる」というのが答えです。イスラム教の教典の中でも、神は自分のことを「我々は・・」と複数形で言ったり、「我は」という単数形で言ったりしています。これは、マホメットに霊言を伝えるとき、複数の神の合意した意見か、一人の神だけの意見かによって違ってきたようです。

ただ、この宇宙を創り出した存在、つまりは「根本の神」となると、やはり1人になるようです。そして、根本の神のことを、他の神と区別して「仏」と表現しています。


当然ながら、複数の神がいるということは、それぞれの神どうしで、意見の相違、価値観の相違があるということです。そして、その決着は、それぞれの神を信じる信者である「人間」が最終的には、「戦争」という形で決着をつけてきています。いわば、神に代わって人間が「代理戦争」をしていると言えるかもしれません。

ちなみに、日本は、第2次大戦で、敗北しましたが、その前の日清、日露、第一次大戦で勝利しているので、トータルでみれば、日本の神々は、トータルでは「勝ち越し」している状態です。でも、バカ鳩山の元では、不戦敗して、日本が独立国で無くなるかもしれません。そうなると、霊界にいらっしゃる日本の神々の地位も危ういものになるでしょうね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます◎

根源的な神は1人というご認識なのですね。

よく映画とかで奇跡的な光景を目の当たりにした人々が「おぉ~!神よ~!」と言っていますが、あの人達は根源的な1人の神を想像しているのかも気になっていたんです。それぞれの想っている神は違うのかもしれませんが。

あと、日本の神々は「勝ち越し」ているんですか!斬新なご意見です!
でも私は戦争は一番忌むべき人間の行動で、信者達はそのような方法で決着を着けることを自分が信じる神が良しとしていると考えているのか疑問です。
そんな信仰って…。弱いから信仰があると考えていますが、信仰することで余計弱くなってるやん。と思ってしまいます。

お礼日時:2010/04/18 19:36

「神」というのを、人智を超えた存在、という捉え方というのを前提として。



「神」は全てを含む存在だと思います。
だから、ひとり、ではなく、ひとつ。

キリスト(イエス)、ブッダは人間です。崇拝の対象ではありますが、「神」そのものではなく、「神の一部」なんでは?
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この回答へのお礼

ありがとうございます◎

神は一つ、であると。
明確なご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/04/19 23:53

パーリ語仏典以降の改変された経典郡を優劣を付けて信仰する団体の奉じる


ブッダ像はどのように位置づけられているかわかりませんが・・・

少なくとも大元のパーリ語の仏典ではブッダは神じゃありませんよw

苦しみを滅する方法を見つけて実践しその方法を説いた方です。

信仰の神ですが、宗教団体の概念によっていろいろだと思いますよ。

神道は多神教だし、一神教は他の神の概念を認めないし。。。

仏教では神々といって「タダその次元に輪廻している生命」といった感じです。
もっと高い次元に梵天というのもいるみたいですね。そこも細かく分かれていると。
「でも、同じ生命でしょ」というのが仏教ですw

邪見を持たず道徳的に生きてりゃ簡単に天界に生まれるwけどその次どこに行くかね?
せっかく冥想できる境遇(人間)なんだか苦の因を滅するためのチャレンジもしたらいかがでしょう。
とね^^

何か参考になれば幸いです
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この回答へのお礼

ありがとうございます◎

輪廻転生も皆が本当にあると思っているのか、そうあって欲しいと願っているだけでマジには思っていないのか、よく分からないものの一つです。

生命か生命でないか学術的にも感覚的にも難しいウイルスも転生先(?)に組み込まれているんでしょうか…もし組み込まれているのなら自分の完全なるコピーが無数に生まれて面白いですね(笑)途中で変異は起こりますが。

お礼日時:2010/04/19 23:50

神とは、全ての人間には一つの神が存在しています。

その神とは『無意識の意識』として存在しています。従って、漠然としてしか認識できません。自我意識と、無意識が絶えず交代しながら毎日が成り立っていますが、大人の脳になってから、心の中では『自問自答』或いは『心の矛盾や対立や葛藤』というものが目立ってきます。

精神疾患などの場合には、その二つの意識が、対立や、矛盾をしています。この二つの意識の『ずれ』を心の矛盾として『症状として』受け取っています。その症状が『漠然とした不安や、恐怖感』やその他の症状という事になります。

従って精神疾患などの完治や、根治と言った場合は『心の矛盾が解消された』状態のことを言います。簡単に言うならば『神に会って和解する』という事になります。仏教などでは『不安を起こしている者に会って、その元が何で在るかを知って、不安をその元から根こそぎ解消する=生死の問題を解決する』という事になります。是は『見性する』という言い方です。自分自身の性を見るという事です。つまり悟りを開くということになります。

キリストも、釈迦も只の人間でしかありません。ですが自分の中に神が存在している事が『分かった』人という言い方が出きるかも知れません。その神とは『命そのものを働かせています』自我意識が引っ込んでいる時=没我の時=我を忘れている時にのみ働いている働きの事です。その神とは『言葉を持っていません』

その言葉を持っていない人間の脳が書かせたものが『禅問答』というものです。禅問答が一つでも解けた時に『精神疾患』は完治します。左脳の意識と、右脳の意識が出会うためのテキストが『禅問答』という事になります。無意識の中に封印された形(本当は交代制になっていますが)で存在しているもう一つの意識の事を『神や仏』と言っています。神や仏の存在を信じられない人は『まだ救われた事が無いだけ』という言い方が出来ます。人間は本当はもう既に『永遠』の存在で出来ています。救われた人しか信じる事が出来ません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます◎

神は1人の人に1つであって、通常1人に複数は存在しないというお考えですね。

その他の部分は殆ど理解できませんでした。私は頭が固いですね。

お礼日時:2010/04/19 23:29

縄文杉を神様だという人もいます。


その偉大な生命力への畏敬の念がそう思わせるのでしょう。
何千年も生きながらえてきた生命の神秘を感じさせるものが確かにあります。

神とは人間以上の知性的存在を指す事なのでしょうが
そのような知性的な面をも含めた、生命の根源的なもの、そのものを神と呼ぶこともできるように思われます。
そのように解釈する事ができれば、私達のこの身の中にも神はいる、事にもなります。

聖人に限らず、私達凡人にも神は内在しているのかもしれません。
また、外界の全てに於いても同様と思われます。

神という概念の解釈の違いによって、その捉え方は大きく違ってくるのでしょう。
人物的な捉え方、或いは上に述べたような抽象的な真理としての捉え方など様々のように思われます。
何をもって神と呼ぶのか、という事になるのでしょう。

神=真理の解釈でしたら、一つしかないのでしょう。
また、全てが神の顕れであると解釈した場合には、全てが神であるとも言えなくはないのです。
無限の宇宙の全てが神であるという解釈も成り立つ可能性があります。
いわゆる汎神論的な解釈です。

神はいない、という言葉には
なぜ人はいるのか、という反証の疑問がつきまといます。
人がいるから、神の存在を疑うのでしょう。
神の存在を否定しきれないところに、人間とは何かという答えがあるのかもしれません。
神とは何か、という事と、人間とは何か、という事は深いところで繋がっているようにも思われます。

信心というものを非知性的なものと見なす、無宗教の立場に固執してしまう事も狭いような感じがしますし
また、盲目的な信心というものも、あまり感心しないものです。
しかしながら、信ずる事によって限られた知性の枠を超えた世界に到達できるようにも思われます。
その信じる危険性を覚悟の上で踏み出せる人の前に、神は現れるのでしょう。
キリストもブッダもそのような人であったのかもしれません。

神を信じる必要はないと思います。
しかし、神を感じるのならば別です。
感じるところから、どこへ行くのかは人それぞれ自由でしょう。
そうした意味での自由さを無宗教と呼びたいようにも思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます◎

神を「感じる」ですか…。
神を感じている時点で、何となくでも存在を認識している=信じている、ような気がするけど違うのかなぁ。難しいですね。

私が信じていない神というのは、いわゆる「全て」をコントロールできるような存在としての神です。

私は、一部の人達が自分達にとって都合の良いことが起こると「神に感謝しよう」と言う傾向があることに疑問を感じます。あたかも神が意識的に「そう」なるように操作してくれた結果だ、というニュアンスがあることにです。
何の罪も無い人々が無残な死を迎える現実も神の操作でしょうか?悪人が何のことなしに天寿を全うする現実も神の御業?これは稚拙な見方かもしれませんが。
人間が考える「善悪」などは結局人間の都合の良い判断であって、同じように神も人間の都合で作り出された架空の想像物に過ぎないと私は思います。

つまり想像物としての神が一部(大部分?)の人達の脳内で存在しているのかもしれませんが、それはフィクションであってノンフィクションではない、というのが私の考えです。

だからといってあらゆる事象をコントロールできる存在などいないという証明は私にはできないし、私の考えを押し付ける気もありません。当然、最初にも言いましたが、神に感謝する人達を馬鹿にするつもりはありません。人に迷惑をかけないのであれば自分の信じるものを信じ、行動し、安らぎや幸福感を得れば良いと思っています。

お礼日時:2010/04/19 21:56

>それすら神として信じない私は何なのでしょうか?



神の仕業だ、神の意志により生まれた と信じてはいないってのは、私と同じです。
ただ、万物の法則の存在を私は知っているが、あなたは知らないと思っている。

本当に知らないのか?

例えば、雪が降ってきて、手の平にのったら水になったとしても、あなたは驚きませんよね?

やかんを沸騰させていて、やかんの中の水の量が減っても 驚きませんよね?

その理由を知っているから。
万物の法則の存在を知っているから。

子供の頃、建物の階段の下に雪だるまをこさえて置いておいた。
夏になり、そこに入れたことを思い出して、探したのに見つからず、なぜーーー 誰か持っていったのー 隠してたのにぃ と思った。
今は何故消えたのか知っているので、翌日なくなっていても驚きません。

このように条件がそろえば再現する現象が法則ですよね?

で、フリーメイソンの入会の条件に信仰をしていること とある。
これはカルト教団でなければ、どの宗教でもいいんです。
普遍的な何かの存在を信じている 知っている人なら信仰しているという扱いになる。
それは既存の宗教じゃなくてもいいのかもしれない。
例えば無神論者であっても、アインシュタインやドーキンスのような知っている人ならその条件を満たしていると思います。

それぞれの宗教が言っている普遍的な何かとアインシュタインやドーキンスの言っている普遍的な何かは同じもの。

ただ偶像化してしまうと、世俗的な神 になってしまう。
だから偶像禁止なわけです。
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この回答へのお礼

つまり、物が上から下に落ちたり、水が熱で沸騰することを知っているだけで、それはもう信仰だということですか。

うーん…そう言われてしまえばそれまでというか、そうであれば地球上の多くの人が信仰しているということになってしまいますよね。
自然現象を利用して狩りをする動物も含まれるのかな?

いや、もうこの議論はやめましょう!
kigurumiさんやフリーメイソンの人達などがそう考えているということが分かれば満足です◎

お礼日時:2010/04/19 00:46

こんにちはー。



お断りー好き放題書いてしまった。すんません。ご質問と、無関係ではないのですが、びちゃっと関係あるとも言えず。

で、

もともと神様を信じるタイプです。信じると言うより、「好き」です。なので、この質問に惹かれて書いてます。
また神を信じる人を馬鹿にしませんともあり、書いてみようと思います。


神や仏、ということで、それらを意味、超越概念としてとりあえず扱っていいですか?
まずすぐ思ったのは道やタオが抜けてる、ということですがあとで書きます。

下は、キリストや神や、仏などいろんな解釈が成り立つのはなぜか、ということの一例です。
神が一人でも多神論でも良いはずです。信じることに四の五の言うのは変だと思うタイプですので。


意味の普遍的性質として、ある種の揺らぎや、意味の重なりがあります。意味は時間的にも空間的にも固定したものではありません。

だまし絵などで、おばあさんと少女の、見方によって2通りに見える絵は有名なんですが、そういうだまし絵を多義図形と言います。
ポイントは、この絵をおばあさんだと主張する人と、少女だと主張する人はどちらも正しいしどちらも間違っていると言うことです。
つまり、正しい間違ってるを決めるのは視点であって、正しい視点間違った視点があるわけではありません。それらは暫定的です。


多義図形と同じ性質をはらむ問題として、クオリア問題、観測問題、人間原理などの量子力学系。陰陽図、即非の論理などが、知ってる範囲ではあります。おそらくもっとあるはずです。
不可弁別性という、2つ素粒子が存在していても決して区別ができない、でも2つある、という風な解釈もあります。
観測問題などは、本質が解釈であり、解釈こそが、人の知り得る範囲の本質だ、と言う結論に着くのではと思います。
というより、いろいろ科学を見ていると、科学はもうじき自分の限界をはっきり定義するときが来るんじゃないかと偉そうに思います。その限界の境界線は、宗教哲学との、軒を接した境界線です。

上に書いた、視点、解釈、意味は、ほぼ同じ意味のつもりです。


これらの問題のポイントは、人の脳の働きは、感性も理性も悟性も、この壁を越えられない、という脳の働きに対するひとつの定義です。
つまり脳が自ら作り出した意味自体が持つ壁を越えられません。
科学の進歩は、理性が理性の限界に気付くことへ到着します。
悟性は悟性の、感性は感性の限界を見極めることにもなります。


意味の世界は実に不思議で、物質存在は、意味を作るただのきっかけです。一個のスイッチが爆弾を爆発させるし、逆に巨大な海が平穏無事で有るのか無いのかわからない、というなにも意味を作らないこともあります。
つまり意味とは、それがどういう変化と結びついているかによって定義されます。意味は本質的には、存在ではありません。
ここで言う意味とは、上に書いた、解釈が生み出す意味、です。

その解釈が生み出す意味の構造を調べると、最終的に、無限小か無限大に収束あるいは発散します。オールオアナッシングです。
そして解釈そのものを生み出す意識は有とも無とも言えないものです。有無を言わさない意識の性質は我を作りますので、有限の源です。



普通に、仏陀は、仏様だと思うんですが。
だまし絵に於いて、おばあさんの絵が全くの真実で、絶対に正しく、それを逆に少女の顔だと主張する人も絶対的に正しいです。
まごうことなく2つは正しく、そして全く別々です。意味はそんな構造をしています。どちらも論理的には一分の隙もなく、蟻のはい出るすきまもありません。
だまし絵のおばあさんや少女を否定できる人はいないからです。
それらの、絶対的に正しく、絶対的に間違っているものを表現する言葉は存在しません。意味や解釈はそういう仕組みを取ります。
そういう脳の働き機能を越える概念に対して当てはまる言葉は生まれてきません、過去もないし未来にも生まれないと思います。


現在の結論として、
超越概念を心で感じると有と神、人格で把握すると無と仏、意識で認識すると道と天地人、となります。
人は基本的な3種類の性格があって、それに応じて、この世ならざるものが3種類に映って見えます。3つは対等です。
皆が自分が本質だと思うものに沿って優先順位を付け替えています。
もし、それでも感性や現実を把握するなら、まず3つが対等である実感をもってから、把握にかかるのが筋。いや、そんな筋はないかしら・・

という答えでどうでしょうか?

つまり、解釈は、本質であり、本質でなく、現実であり現実でないので、それ自体を扱うのは難しいです。
宗教は救われることが最優先でそれ以外何もないので、自分に最高に当てはまればいいのではと思います。
これらの解釈の不確定性は、矛盾を根源にした人の思考力によるものですし、だからこそ、信仰とぶつかるものではありませんし。


このご質問はおそらく、解釈が本質だ、という無意識の前提に基づいてされた質問だと想像します。
でも、神の「存在」と言うところで、僕はもうついて行けません。神は感じるものです。感性由来ですので。
そもそも信じる、という作業は感性の範疇のものです。把握や認識では信じることはできませんし、当然存在もしませんし、現実でもありません。
信じる、とは、信じてない状態から信じてる状態への変化、移行の時ですし、定まりがありません。
つまり・・・僕の独断では、言葉の使い方や定義がへんなので質問が意味をなさない・・と書くと悪いですが。
もし考えとして把握されるつもりなら、自分には他の要素ー感情もリアリティーもあり、それらは、思考と同等の本質だということを思い出してください。途中でいろいろあって忘れておられるかも知れません。
神という「考え」と言った地点で、考えに偏っている、と思いました。
3つに矛盾のないようにされるといいです(と哲学カテと思えない返事ですが& 自分のことは棚に上げさせてもらいました)


以上の話、まだ煎じてる途中で今ひとつ自信はないのですが、一度書いてみたくて、ちょっと場をお借りしました。考えは今後変わるかもしれません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます◎

何回か読ませて頂きましたが、私には難しい内容のご回答でした…。
正直???となっています(^ ^;)

お礼日時:2010/04/19 21:20

 こんにちは。



 ★ 神は1人と考えていますか?
 ☆ はい そうです。ただし 《一》という数字は 《全体》の意味です。《すべて》です。
 
 ★ キリストもブッダも神だとすれば、神は複数いるという考えですか?
 ☆ キリストは 神の仮りの表現です。神という言葉さえが その何ものかの――人間の言葉をとおしての――代理表現です。
 ブッダは 人です。超越的な存在として表現される場合がありますが あくまで人間です。人為ないし人智の極致に到ったという見方がされています。

 ★ それともキリストもブッダも融合させて1人の神という考えですか?
 ☆ もし神々という言い方をする場合を取り上げるなら それは 《一なる全体としての神》の――わたしは変な言い方だと思うのですが――分身のようなものだと捉えることになります。

 ちなみに このようにほんとうは表現し得ない何ものかを 神と仮りに呼ぶのですから それを同じく仮りに《無神》と呼んでも かまわないし それは同じことなのです。
 ちがいは 神は有るとして――またそれを擬人法で人格に似た存在として――捉えた場合と 無神として捉えた場合とでは そこから繰り広げられる神ないし無神のいわば物語りが ずいぶんと違ってくるということです。
 無神論には物語りはむしろ無いわけです。有神論では この宇宙を創造したそのはたらきだということになり それは人の顔形をした神様という存在として受け取られるようになって来ています。
 すべては 仮りの代理としての表現ということです。うそ(虚構)ですね。

 しかも このウソが 人間のこころの真実に触れることが起こるようです。かえって――と言いますか 仮りの代理の表現なので むしろ正解であろうと思われますが かえって―― 真実のこころのありか または あり方が分かるという事件が しばしば起きるようです。
 ですから このような個人の信仰は昔からありますし 絶えません。
 これを わざわざ教義としてつくり 人びとを集め その組織の中で秩序を保つための規範にもして 共同生活をいとなむというのは すでにその第一歩から 個人の信仰の自殺行為です。なぜなら 仮りのものを 規範として固定し絶対化してしまうからです。人間の言葉によって守るべき規範とするだけで 信仰ないし神への冒涜です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます◎

神は一つであり、全てということですね。
…すいません。実際のところピンと来てないですが、とにかく神は複数ではない、というbragelonneさんのお考えは伝わりました。

お礼日時:2010/04/19 00:28

人間と同じような姿をした神なんてのを想像するわけじゃないし、神の数え方が「何人」ってのも笑えますけどね、宇宙の動きとか、生物のメカニズムなど、自然界をを勉強すればするほど、人智を超えた「何か」があるなあ、と感じます。



それを神と呼ぶならば、神の存在を仮定するってのは自然な方向ですね。
神の存在を仮定しない場合、「なぜ?」に対す答えが出ないだけですけど、、、。

”人数”ですけどね、量子力学と生命科学を別々の領域と考えるような場合は、複数。
量子力学も生命科学も科学だ、と考えれば、”一人”と数えてもよい。

”人数”は気にならないですね。

それから、信仰に金や時間を費やす人々も理解できません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます◎

「~人」というのは適切ではないんですね。

お礼日時:2010/04/19 00:17

そもそもキリストもブッダも神ではありません。


仏陀は神という概念を持っていなかったし、
キリストは神の使い(子?)であって神ではありません。

世界にある大手の一神教はユダヤ教、キリスト教、イスラム教ですが、
モーゼもキリストもムハンマドも神ではなく預言者であり神の使いにすぎない設定です。
でもこの3教では、神は同一だとされています。

神のテーゼが各派微妙に異なるけど、
「宇宙の歴史やカタチを全て貫く法則」のような存在だとすれば、
現在科学の最先端である理論物理学も、神への探究心による宗教家だと言えます。
(仏陀はこれに近い)

一方で、八百万の神を尊重して部族間の平和的に統一してきたきた日本人や、
カーストという身分制度も利用しながら無数の部族の文化を尊重しあうヒンドゥー教、
古代ギリシャの神話の世界観、太陽神以前のエジプト国家など、
原理主義に侵されていない国や民族もあります。

原理主義というのは「自分達の考え以外は全て糞!」という妄信者達のことであり、
一神教の人たちの多くが陥りやすい最悪の病気です。
神によって選ばれた民族、という考えが起こすのは殺戮の歴史だけです。
(反ユダヤ、というナチスもこれ)

人類の歴史において、一神教は戦争ばかり起こします。
神の名において平和をもたらしたしたことなど一度もありません。

「神を妄信する人々」は政治的な支配者によって制御しやすく利用しやすい存在です。
「教会」が支配者によって保護されて発展してきたのはそういう理由です。


神のテーゼについて、各宗教のトップが議論しなおせば世界は平和になるんですが・・・
(そうすると軍需産業が困る、という事態になります)
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この回答へのお礼

ありがとうございます◎

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神が同一とされているというのは驚きました。

お礼日時:2010/04/19 00:10

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