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神が存在するとして、その神は全知全能で、絶対の愛、真、善、美の存在だと思いますか。

地球社会に住んでいると、どうしてもそう思えないのですが。

A 回答 (26件中1~10件)

愛、真、善、美、すべてが貴方の脳のなかでの話です。


例えば、
美しいゴミ箱の絵といわれる絵があるとします。しかしあなたにはただのゴミ箱の絵です
ですが、隣の人には美しい絵であるわけです。
ゴッホの絵でもそうです、絵のなかに美しさを感じる人もいれば、ゴッホの絵だから美しくみえる
人もいるわけです。
後者の場合、事前にゴッホ作と聞いてみるのと聞かずにみるのでは感覚にさえ差が出るのでは
ないでしょうか?

神は全知全能、です。では、Sabadoは全知全能ですか?Belenusは全知全能ですか?Queroは全知全能ですか?







Belenusはケルト語で神です。

Sabadoはポルトガル語で土曜日で、Queroはポルトガル語で好きですという意味です。
ここで始めて Belenus があなたのなかで全知全能になりますね

なにが言いたいかは、あなたが始めて神という言葉を耳にしたとき不安を感じたと思います。
そのとき誰かが神を信じなさい神はすべてを知っていると教えたんだと思います、そこで、
神の認識が生まれたのです。頭の中で生み出したのです。
ですから、神は存在などしません。

<地球社会に住んでいると、どうしてもそう思えない

あなたがそう思えなければ、そう思えないですよ。

逆に言えば今生きてることを自分が幸せだとおもえば幸せになるわけです。

人は言葉を見て色々なことを考えて生きていきます。正しいことを素直にみて考えることが
大事です、そうすれば自身の力が幸せを導いてくれます。

ですが、言葉には一定の意味しか運べません。がしかし、何も運べないわけではありません
例えば、梅干という言葉を言われると、自然とつばが出てきます。
ですが水といって口から水が現れることはありません。

幸せという言葉で置き換えてみてください。

少し手短に書きましたので分かりにくい部分があったらごめんなさい。

☆あなたの幸せを願っています。☆
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神仏は少なくとも高度な知能、愛、真、善、美、の存在だと思います。


神仏は教師的指導者、多くの人間は生徒、という関係である面はあると思います。
教師にも校長、教頭、主任クラス、中堅クラス、新米、等々多数おられますし、得意教科も色々でしょうし、受け持ちクラスも色々でしょうし、学校そのものも色々あります。
また、生徒も大学生、高校生、中学生、小学生、と色々ですし、その中でも様々な状態の生徒がいます。
そして、教師は基本的に生徒を善導しようと尽力しますが、生徒間においては色々な問題が発生したりするわけです。
また、教科書はパーフェクトで教師も全員へ同じ授業をしても、試験をすれば95点や70点や45点等々、現実にはマスターするのにも色々分かれます。
なお、例えば釈尊もイエス様も孔子様もある意味で神仏的存在だと思います。
地球も広いですし歴史も長いですから、色々な方が色々な地域で人間を教導されてこられたことと思います。
そしてそれを受けつつも、上記のような現実社会が展開して来ている、ということだと思います。
試行錯誤はあると思いますが、子育て同様、苦労もあるけど育てがいの方が上回る、ということはあるかと思います。
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神を定義から入らず、ただ存在するものと位置づけて、その属性について問えば、それはわれわれ人間一人一人の「神」という言葉に対する印象を問うことにすぎないと考えます。



神というものを人間の友人だとか、協力者であると考え人間という存在全体に対する調和や平和を求められているように感じますが、では神とアリの関係はどうか、神とインフルエンザウイルスの関係はどうかと考えたとき、人間とアリとインフルエンザウイルス等には何の隔たりもなく神の属性の現れであり、神の前には等しく存在しているわけですから、地上にはすでに、絶対の愛、真、善、美がすでに表現されていると感じることは出来ないでしょうか。
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全知全能、愛、真、善、美というのはあくまでも人間中心の考え方です。


太陽はただ燃えているだけで、実りももたらせば、日照りで焼き尽くすことにもなります。
しかし、我々が太陽によって生まれたことに間違いはありません。
神は何もしませんが、神によってこそ私達があるということです。
稔りを感謝し、日照りで罵倒するのはあくまでも人間中心の考え方でしかありません。
だから、神ではないのか…自分達に都合のよい神を想定するなら、神は居ません。
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存在、愛、善、美


全て相対的な概念で、実際にあるわけではありません。
辞書を引いて下さい。
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絶対なんてのはないんじゃないでしょうか?



宇宙が誕生したのだってたまたまポッと現れたのではないでしょうか。

神は人が作り出した概念に過ぎないので人によってそのイメージは変化するものだと私は考えますが、いかがでしょうか?これもひとつの意見です。
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存在するとして、考えると理屈的にそう言う形態は無理じゃないの。


全知全能なら、「絶対の愛、真、善、美」の対極面も内包しているので、片方だけって事ないでしょ。
そう思えないのは、自然なことだと思いますが。
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 仏教では仏を創造主とは言いませんが、キリスト教では神を創造主と言っています。



 質問者さんは「神」を創造主と捉えて、こうした質問をしたんですよね。

 この地球社会を作ったのが神であるならば、この地球社会は絶対の愛、真、善、美の世界でなければならない、と。

 でも現実は弱肉強食の世界。喜怒哀楽+苦しみの世界。

 こうした現実の社会を見ると、神を全知全能で、絶対の愛、真、善、美の存在とは到底言えない。

 という思いなのでしょう。

 全く、こうした現実を見ると「神」を創造主と見ることができなくなります。

 ならば、「神」をどう捉えるのがいいのでしょうか。



 あえて、疑問という形での投稿にしました。

 
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>その神は全知全能で、絶対の愛、真、善、美の存在だと思いますか。



んー 
セルって映画があった。

ある男はキリスト教の世界で育ったが、統合失調症になったとき彼が生み出した妄想はキリスト教にのっとった世界になった。
キリスト教の言う浄化をやるようになった。
女性を拉致しては殺して漂白剤につけた。 清める行為。

自分も穢れた存在だからと、キリスト教徒が裸になって鞭を自分に打ち込み自分を罰することで清めをするように、身体にわっかをつけて自分の身体をつりあげ、激痛の中エクスタシーを感じ、漂白した女性の死体の上で、疑似性交を楽しんでいた。

性交はキリスト教では汚らわしい邪悪な行為という考えがあり、彼も女性と性交をすることは汚らわしい行為だと確信していたが、性欲は抑えられない。
それで漂白剤で清められた女性と性交渉もどきを行った。
それでも汚らわしい行為という教育されていた彼だったので罪悪感が発生した。
しかし、肉体の苦痛を感じることで、汚らわしい行為をやっても罰をうけさえすれば、清い状態に戻れるという考えのもと 激痛と快楽を同時に味わうようになった。
彼にとってみたら最高級の天国。

で、また女性を拉致して、女性を水槽に入れて溺れ死にさせようとした。
ところが、大発作が起こり彼は昏睡状態になってしまい、彼は捕まえられたが女性をどこに監禁したのか聞けない状態になった。

で、この昏睡状態の男の妄想の世界に主人公の女性は入っていくって内容。

彼は完全にキリスト教の毒をあびて腐りきっていたわけではなく、わずかにキリスト教に毒される前の人格が残っていた。
それが少年の姿となって、主人公の前に現れた。
カルト教育の毒を浴び続けた彼の病んだ魂をどう救済するか。

圧倒的な彼の作り出した狂気の世界に主人公の女性も飲まれてしまったが、弟の死を思い出し、そこから自分を取り戻したばかりか、女神に変身し悪魔に剣をつきたてた。

グアーと悪魔は叫んだが、側でみていた少年の体がからも血が流れた。
悪魔と少年は一心同体。
悪魔を殺せば少年も死ぬ。

主人公の女性は大慈悲をもって、少年の命を奪うことで少年を邪悪な世界から救済をした。


この考えは、古代のインド方面にあったポア思想。
オウムはこの思想を元に人殺しをしていた。
だけど曲解とされた。

何故なら古代の思想は、死は女神の慈悲だという考えをもっていたから。
うまく言えませんが、女神が生命を与えてその人を育て、苦痛の際になったときすら愛をもってその人に死を与え、苦痛から救済してくれる という考え。
死を女神の慈悲ととらえていた。

森鴎外の作品に高瀬舟というのがある。
自殺を図り苦しんでいる兄弟に対し、苦痛を終わらせてあげるために力を貸したわけですが、その行為は殺人となったという物語。

どんなに慈悲だと思っても、他人の命を短縮する行為をすれば殺人になる。
だけど、女神はその人を創造したのだから、奪うこともできる。
慈悲深い神というのが、古代の女神に対する考え。

キリスト教もその考えを真似ている。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ!!!!!!!」

もともとは作者は時代の変革のことを言っているわけですが、、、、何百年かたった後の人たちの解釈は違った。


うーん オウムのポアの曲解と同じような箇所が。。。。
お金を全額寄付しなかった夫婦を神が殺したとか、聖書に書いてありますが、オウムも信者のお金を全部取上げるため殺したし、、、、

これは慈悲じゃあない。
古代インドの宗教の概念を曲解したもの。

ってことで、神は全能で人を創造することもできれば、命を奪うこともできるって してもいいんですが、、、その神を信仰している自分は他人の命を奪ってもいいってのは、、、
異教徒をキリスト教は殺していきましたが、その目的は財産を奪うためだった。
こうなると、もう神の名を悪用した強盗殺人。

こんなの低俗で劣悪な人々に、崇高な古代の概念を悪用が悪用されてきた。


>地球社会に住んでいると、どうしてもそう思えないのですが。

上記のような古代の崇高な考えを捻じ曲げ悪用し利益をむさぼる悪魔に、この世が汚され続けているから。
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例えば、この世が、この宇宙が、ある生物の造った仮想世界だとします。


仮想世界を造る装置は、仮想世界に居る住民からは見る事はできない訳で、
仮想世界であるという事も知り様が無い訳です。

しかし、思考する仮想世界の生物はその生物の能力が及ばない出来事が生じたりした時に、
「神様・・・」と思うかも知れません。
まっ、仮想世界を造った生物は仮想世界の思考する生物を観察しているかも知れませんが。
ゲームをしている訳じゃないでしょうから、
途中で仮想世界の秩序を変更する事は難しいのかも知れません。

とすれば、質問さんが仮想世界の思考する生物だった場合、
仮想世界を造った生物を知る方法は無い訳です。
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