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学校で山月記を学んでいます。
なぜ中島敦は、山月記と題したのでしょうか?
月が大切なようですが・・・。
教えてください。

A 回答 (3件)

「山・月」の語は、小説中の詩に「此夕渓山対明月」とあるところからのイメージかと思われます。


 「月」は作品全体に度々情景描写として描かれます。最後に「虎は、既に白く光を失った月を仰いで、」とあり、人間としての理性・知性の喪失と同期するように描かれ、月はこの主人公の人間性と読むことも可能ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
とても、参考になりました。

お礼日時:2003/07/04 23:12

「山月」を「山」と「月」に分けるべきではないように思います。

「山で見る月」または「山の月」でしょう。
「山月の下での(主人公による、あるいは/および 主人公と旧友による)出来事の記録、物語」と解するべきかと思います。
作者が下敷きにした物語の「人虎伝」というタイトルは「人が虎になった」という事そのものを主題として示しています。之に対して中島は「人が虎になった」という事件を1つの核として、それがどのようにおこり、どのように今につながり、どのように感じ取られているか、その時間と物事の流れの方を主題にしたいと思い、その流れが語られ、背景が明らかになる舞台(山月の下)をタイトルとしたのではないでしょうか?

参考URL:http://www.sogogakushu.gr.jp/kosen/jissen_1_107s …
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この回答へのお礼

本当に遅くなって申し訳ございません。
ありがとうございました。
「山」と「月」に分けないで考えるんですね。

お礼日時:2003/08/02 17:18

手持ちの「山月記」の鑑賞のてびきのようなところに


「この作品で『月』は作品展開の上での時の経過を示す効果的な役割を果たしているが……」とありました。
その他、私の考えですが、月は常軌を逸したことの象徴でよく使われますので(英語でも 月を意味する lunacy は"狂気"です)そのあたりも関係しているのではないかと思われます。また、李徴は変身して虎になりますが、なぜ虎なのか、ライオンだったらファミリーでいるから、孤独な李徴のイメージには合わないと思えます。李徴の悲劇は単に中国のおとぎ話ではなく、私達の根源的な疑問や自意識に悩む現代人の悲劇でもあるような気がしますね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
色々と考えさせられる話ですね。

お礼日時:2003/07/04 23:10

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