『一向一揆』の宗教的な意味の有無について
一向一揆全般が起きたおおよその理由は、
政治上の問題や自身の仏閣が攻められる事への自衛策であったと思われるのですが、
このような宗教の絡んだ戦争では、自己の行動を正当化し、兵の士気を高めるなどするために
何かしらの教理や思想を声高らかと演説する風景が目に浮かびます。
日本の『宗教戦争』(のようなもの)においても、イスラームやキリスト教のような
戦争をすることへの理由づけは行われたのでしょうか?
又、行われたのであれば、その内容を知っている方がいらっしゃったら
是非その内容も教えていただけないでしょうか??
よろしくお願いします!
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
>>戦争をすることへの理由づけは行われたのでしょうか?
一言で言うと「支配者への反抗」でした。
親鸞は浄土真宗(一向宗)を信奉し、誰もが、
「南無阿弥陀仏」
と、唱えれば「極楽に行ける」と、教えました。
それまで、人々は、神社仏閣に多大な寄付をし、そして、領主には言われるままに「年貢米」を納め、その領主が神社仏閣を造営したり、信奉することで、ひいては自分たちが極楽往生ができると考えられていました。
しかし、親鸞の、
「ただ念仏さえ唱えれば、誰もが極楽往生できる」
との教えは、貧困にあえぎながら年貢米を納めてきた人たちにとっては、金納や物納で救いが得られるのではない、と考えるようになり、神社仏閣への寄付行為が減り、領主の年貢米の取立てに対しての反発心が芽生えはじめたのです。
つまり、領主が潤うことが、ひいては自分たちの幸せにつながる・・・と言う考え方を大きく変えたのです。
そこで、旱魃などで農民があえいでいるにもかかわらず一定の年貢米を取られたりすることへの反発が一向一揆という形で支配者への反抗につながったのです。
一向宗自体には、もともと支配者への反抗などの教義はありませんが、ただ、教えの中に一つだけ「同朋」(どうぼう)と呼ばれる、共に手を差し伸べ合って「自治権確立」を目指す教えもあり、これらが相まって一向一揆に発展したものです。
親鸞の教えの中の、
「他力本願」や、「往相回向」や、「悪人正機」は面白い考え方だなぁと思っていましたが、
信者集めのために作ったんだろうとふんでいた「称名念仏」にもそのような意味があったとは、
とても驚きました。
「同朋」というものもあったんですか、
この頃から民主主義につながりそうな思想があったとは・・・
とても参考になりました。
ご回答ありがとうございました。
No.15
- 回答日時:
宗教的な意味は限りなくないと思います。
そう思う根拠として…
( 1) 現代、高校の歴史の教科書などで「一向一揆」と言われている現象ですが、その一向一揆が実際に起きていた時代には一向一揆という記述が一切ありません。当時、実際に一向一揆を見ていた人々が、他の土一揆となんら異なる点を何一つ、一切見いだせなかったから、一向一揆特有、一向一揆特殊な要因は一切ないと認識していたからこそ、一向一揆という言葉はなく、どんな記録を見ても、他の土一揆と同様に、土一揆と記載されているのであると推測することが可能です。もちろん、当時、その場にいた人は、南無阿弥陀仏と言っているのも聞いているでしょうし、筵旗も見ているでしょう、参加しているのが浄土真宗の門徒であることも知っているでしょう。が、他の土一揆との差を見いだしていないのだと推測できます。これはそうすると宗教的な意味はなかったからと考えられます。
( 2) 後に、一向一揆という用語は発明されますが(だから現代でもその日本語があるわけですが)、真宗門徒が起こした土一揆は多数あり、高田派でも仏光寺派でも土一揆は起こしていますが、本願寺門徒の場合にのみ、だけ、完全にきっぱり限定してしか一向一揆ということはありません。真宗の教義が問題なのであれば、真宗十派の土一揆は後に一向一揆と呼ばれておかしくないはずです。しかしながら実際にはそうは呼ばれない(そういう記述例が歴史上、書き物が存在しない)のは、教義、宗教が無関係だからと推測できます。
( 3) 東西本願寺が分裂後、鷺森合戦物語というものが、ねつ造されます。先ずは西本願寺(現在の浄土真宗本願寺派にあたる)側を応援する人が、せっかく、天皇陛下がまあまあと間に立ってくれて朝廷によって和睦しなさいとなり、織田信長さまの血判のある和睦しますという約束の手紙もあるのに、教如上人がひねくれもので、石山本願寺に籠城し続けたため、信長が激怒、顕如上人もろとも、本願寺とその門徒衆を皆殺しだ!とキレてしまい、鷺森が包囲されます。顕如上人は、信長さまのおっしゃることに道理があって、正しい、教如があほたれであると血の涙を流し、仕方ない、自決しようと思ったそのとき、なんと宗祖親鸞聖人の霊魂が明智光秀に取り憑き、本能寺の変が起きたので、包囲網が解かれ助かりましたとさ、それにしても、東本願寺(現在の大谷派)はあほたれであるという、歴史上、まったく存在しない、鷺森合戦物語がねつ造されます。(話、作ってんなぁ~というやつです)。これに対して、東本願寺側を応援する人により、元々、織田信長は本願寺門徒を大虐殺しようとたくらんでおり、簡単に和睦した顕如上人が間抜けだったんだよ伝説で応酬。日本全国に、芸能ですね、後の世でいうと講談みたいなもので広まります。
これにより、真宗にはいっぱいあるのに、その中で本願寺だけ、織田信長が極悪人で、本願寺の門徒はご本山をまもろうという信仰心堅固、信仰に篤い庶民、百姓が戦ったという、講談みたいなものが流行って、そういう、史実に反した、だけれども、面白い芸能ができました。
これで、土一揆のうち、また、真宗門徒の一揆のうち、本願寺に限り、なんだか、宗教が関係あるようなお話がはやり、イメージができました。(但し、真宗では、霊魂はいかなる意味でも存在しないというのは絶対に譲れない根本教義のため、宗祖親鸞聖人のご加護により、石山本願寺の籠城は守られていた、あるいは、明智光秀に取り憑いた等は、本願寺それ自体の、ねつ造だったり、意図だったりはしていません。)
実際には鷺森合戦なんてものは起きていません。
戦国時代なんですから、昨日の敵は今日の友なので、信長と顕如は、石山合戦が終われば、お互いに仲良く手紙やプレゼントを贈りあっており、別に、普通に戦国武将同士(?)のおつき合いです。
No.14
- 回答日時:
No.10です。
お礼ありがとうございます。誤りがあったので訂正します^^;教如は蓮如の間違いでした。また、教主というのは文章の流れで判りやすいと思って使用しましたが真宗においては皆様がお使いになられている法主が正しい用法です。
さて、前の回答では述べませんでしたが、宗教的な意味について少し書いてみます。
有名な加賀の一向一揆によって成立し、1世紀ほど続いた「百姓の持ちたる国」をもって一向宗の教えを背景とした農民革命とする考え方はあります。確かに、一向宗の特徴のひとつに「御同朋(同胞)」というものがあり、これは平等思想にほかなりません。弥陀の前では天皇から百姓まで違いはないという危険思想ではあります^^;
ただ、個人的には蓮如自身が宗徒による反権力闘争に反対であったこと、それと講という非常に団結力の強い一向宗の布教形態を利用しようとして一向宗に改宗してそうした反権力闘争を行った節のあるものが多いことを理由にこの考えには賛成してはいません。
後年、顕如がまさに教団の団結力を背景に信長と敵対しますが、これは宗教的というよりは、前回にも述べたように、政治・経済問題と考えられます。なぜならば、信長は以外なほど宗教には寛容です。例えば、信長は自身が法華宗と公称しているにもかかわらず、浄土宗と法華宗の安土宗論では浄土宗側の勝ちとしていますし、徳川家康や上杉謙信などの多くの大名が領国内での一向宗の禁令を発していますが、信長は一般民衆に対する一向宗にかぎらずいかなる禁教令も出してはいません。
ということで、一向宗の組織力と団結力という側面をその宗教の特質という点では影響があったかとおもいますが、宗教の理念としての一揆の理由というのは無かったと思います。そういう意味では宗教戦争にはあたらないのではないでしょうか?
あり得ないくらいお礼が遅くなって申し訳ありません。
加賀に平等思想があったとは・・・
「百姓の持ちたる国」の言葉ばかり印象的でどういう国なのかは調べてなかったので
また調べてみたいと思います。
流石は信長ですね。
ソロモン王を彷彿とさせるような宗教への寛大さですなぁ。(言い過ぎか・・・)))
No.13
- 回答日時:
> その法主に対して、まあご本山に対して末寺と言うよりも、ご本山に対して地方の門徒衆から、簡単に言ったら、兵隊を出して戦争に参加するのはやだね、断る、さようなら、という手紙が、残っていたりする時代もあるわけです。
権力バランス上、言える時代だから言った、という意味です。
ヨーロッパでローマカトリック教皇から破門されたらえらいことになる時代もあれば、
「イギリス人は王様を殺せ、そうでなければイギリス人は全員破門!」と言われても別に良いや、実際の状況は変わらないと思えば、「けっ!全員破門でかまいませんよーだ」と言える時代もあるわけです。
つまり、実際に自分の側にそれだけの権力があれば、あったから、「けっ!」と言った。
言えるから言った。
よって、あくまでも実際の権力の問題であって教義上の争いではないと思います。
なるほど、
要は「地位」ではなく、「権力」「兵力」重視だったわけですかね?
う~む皆さんの意見からなんとなく当時の「寺社」の役割がわかってきました。
どうやら思ってた以上にずっと現実的みたいですねぇ。
ご回答ありがとうございました。
No.12
- 回答日時:
> 当時でもこの「悪人正機」は言い回し次第でいろいろな意味にとれて悪用もされやすいものだったようです。
使われ方によっては、そのような反社会的な見方もあったのかもですね。「悪人正機」というか「造悪無碍」あるいは「本願ぼこり」が用語としては、もんごんとしては、ヨリ正確な気はしますが、そういうことではなくて、まあ、宗教はなんでも「反社会的」だから宗教かもしれませんが、そういうことではなくて、税が圧政、むちゃくちゃな重税、税というけど、元守護大名や寺社勢力(比叡山とか興福寺とか)が、私腹を肥やしているだけ…(?)に対して、「やだね」と言えたから言った(「やだね」と言えない時代に言っても死ぬだけだったが、権力バランス上、言える状態に既になっていたから言った)という気がします。
つまり教義上の議論ではなくて…。
No.11
- 回答日時:
> 立場上、自分の上に立つ人に対して、「しかと」したり、意見したりするということがあったのですか。
その時返信された手紙の内容が気になるところですね。「立場上、上」というか、いや、そうなんですが、上も上、相手は「法主」です。
「法主」とはどういう立場なのかは、もちろん、時代によってまったく意味が異なりますが、ここでの文脈に限り、荘園領主、戦国大名、と似たようなもの、のお殿様と思ってください。
現代日本における天皇の立場と第二次世界大戦中なら第二次世界大戦中での立場は違いますよね。ですから、現代でもそういうものなわけでは全然ありませんが。
本願寺8代法主である蓮如(簡単には親鸞の子孫と思ってください)の子どもさんとかお孫さんとか(蓮如という人は子どもの数が物凄く多い人なんです)のことを「御一家衆」と言って、まあ、昔は大変に偉かったというか何というか、まあ、荘園領主、戦国大名、と似たようなものと簡単には思って欲しいのですが、たとえば、北陸なら北陸で、いわば疑似荘園というか、財力、権力、支配を広げたい、固めたいというのが(自分の集団を守るために自分の集団を強く大きくするという意味では別に唯一極悪な勢力ということではなく、単に時代が弱肉強食。下克上、なんでもあり。)実際には唯一の理由で、あるお寺を「御一家衆」で「乗っ取る」場合、そのお寺の住職さんの「目つきが悪いのが気に入らない」というような、理由にならない理由で「破門」。歩いて本願寺勢力圏を出られない時代であり、寺を追い出されて無一文で歩いている間に、破門されているので、誰からも水ももらえず、元住職一家は、道で餓死…ということができるだけの権力を持っていたのが、ある時代の、本願寺法主です。
その法主に対して、まあご本山に対して末寺と言うよりも、ご本山に対して地方の門徒衆から、簡単に言ったら、兵隊を出して戦争に参加するのはやだね、断る、さようなら、という手紙が、残っていたりする時代もあるわけです。
つまり、門徒衆側は、生活者なので、権力Aにつくのが良いのか、権力Bにつくのが良いのか、権力Cから皆殺しにされるから反抗するしか選択肢はないのか……で決めていると、解釈するのが穏当。
宗教の教義等は、そういう意味では、とりあえず直接的には無関係。
まあ、とりあえず、大人数の人間集団がいる。時代は戦国時代。すると、こっちの守護大名(実質は別に幕府とか朝廷とかよりも彼らも戦国大名というか自分の権力ねらい)からこっちにつけと言われ、あっちからはこっちにつけと言われ、しかとできて、それが、生き残りに最善と思えばするし、Aにつくのが最善ならAに着く。Bに着くのが最善ならBに着く…。
ようするに生きるのに必死なだけ。
でなかったら死んでしまう、というだけ。
というのが、物凄く大雑把ですが、私の解釈です。
No.10
- 回答日時:
この国の寺社勢力の存在意義というのは、信長~家康以前以後でまったく違います。
特に仏教教団は、この国では原則として国家が主導で導入しており、天台や真言などの古いものは天皇や貴族社会と、禅宗系は鎌倉以降の武家社会と深くかかわって発展をとげます。教団の権力者としての高僧たちは、軍事も含めた政治、哲学の最新知識者であり、対外的には外交官であり、国内的には折衝者や政策顧問でもあります。今、我々だ抱く宗教者とはまったく異質のものです。まず前提としてこの認識が必要です。
信長が敵対し、家康が最終的に政治から切り離し、寺社奉行のもとに管理下に置くまでの宗教勢力というのは、政治結社であり、寺社領を全国にもち、信徒という領民に等しいものを有し、僧兵や神人という軍隊をもった利益集団です。
信長はそうした集団を合理的考えから無差別に虐殺解体したとされていますが、事実は相当に違います。信長側から積極的に介入した事実は私の知る限りはありません。叡山にしろ石山本願寺にしろ最初に問題をおこし、政治に介入(=信長に敵対)したのは相手のほうです。ただ、その後の処置は徹底的で、魔王的なので印象が事実を誤認されがちですが^^;
こうした、宗教勢力のうち一向宗というのはその前身ともいうべき浄土宗とともに下級武士層から農民層という部分に広く浸透しました。これはそれまでの仏教がある程度の知識や財産がないと受け入れられないものであった(日本の仏教は来世救済が本旨であり、そのためには一定の知識と寄進が必要不可欠なため)ものが、一意念仏によれば極楽往生できるという安直な内容が受け入れられたためです(ちなみにけなしているわけではありません。うちの宗旨は浄土真宗です)。
特に教如という人物がでて、この宗派は驚異的な全国組織をつくりあげます。各地の領主にとっては領民や自分の軍隊の構成員に多くの教徒を抱えることとなり、宗門と共生するか敵対するかという選択にせまられたわけです。教徒にとっては領主のほかに教主という二重性があるわけですから、領主のがわにとっては多くの不都合があるわけです。まして敵対する他の領主のところにも教徒がおり、それらは同じ宗徒として連携しているわけです。これは困るでしょう^^。ということで、全国的に領主の弾圧などを原因に一向一揆がおこったわけです。三河のそれは有名で家康の父はたしかそれで殺されていたはずですし、後年、家康の懐刀といわれた徳川(当時は松平)家一筋の本多正信ですら一揆側に走って家康に敵対しています。
もう少し、詳しく書きたいのですが面倒くさいのでやめます^^。ということで、質問者様の前提に少し事実誤認があるとおもうのですよ。そして、イスラムやキリスト教のような戦争をすることへの理由ずけというのがいまひとつハッキリしないので回答が難しい。実際の戦闘となれば士気を高めるために「進めば極楽、退けば地獄」などと教祖親鸞が聞けば腰をぬかすようなことを唱えていますが、それが一揆の理由ではないですし、、、、まあ、死ぬのが目的という最強兵ですが^^。
「当時のお坊さん=最新知識人」というのは考えたこともなかったですねぇ。
しかし、言われてみればそうですよね。遣隋使だの遣唐使だの言ってた頃からずっと。
自分の配下に、他のところと意志を共有している人間がたくさんいたら、まぁ気持が悪いでしょうねぇ。
だから弾圧→で反発→で戦争・・・・
いや~分かりやすい!
とても参考になりました。
ご回答ありがとうございました。
No.9
- 回答日時:
誤植(読むのがたいへんですね)訂正:
仏教文化を武器として蘇我氏に対する、物部氏だったのか。⇒仏教文化を武器としていた蘇我氏に対する、物部氏だったのか。
このことは尊敬するダライ・ラマのチベット仏教がチベット土着の宗教と文化を政治的に制覇する仮定の図式でもありましたね。⇒このことは尊敬するダライ・ラマのチベット仏教がチベット土着の宗教と文化を政治的に制覇する過程の図式でもありましたね
個人の成長における人同士も、民族の文化も優れたものが、今までのものを制覇したいきます。とても悲しいことです。⇒個人の成長過程における個人同士も、そして民族の文化でも優れたものが、今までのものを制覇していきます。このことはとても悲しいことです
そして土着の神道と違ってテーゼが武器でもあった。そのテーゼの意味内容は、前から見るか━
⇒そして仏教の場合は土着の神道と違ってテーゼが武器でもあった。そのテーゼの意味内容は、前から見るか、それとも横から見るかで、・・・・
すみません。
No.8
- 回答日時:
関心のあるご質問でしたが、投稿する切り口がなくて控えておりました、
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5924895.htmlにこのご質問の#1(bungetsuさんご回答)を紹介させてもらったものです。kiyokawataturouさんの#1へのお礼は、私も同じ思いです。同じ事を書くでしょう。その中のこと(「同朋」というものもあったんですか。この頃から民主主義につながりそうな思想があったとは・・・)に関連した事で少し投稿したいと存じます。1. 民主主義ということは多面的で多義的なタームですので、ここでその論議はおきます。
bungetsuさんご回答の質問者さんが仰せの部分宗教では、私も内部的にはその民主主義的なことも感じたのですが、その前に宗教の多く(例外もありますが)がいじめられの中で生まれ、歩み、展開してきているような気がしました。そして内部的には同志愛結合ですね。
このことはhttp://oshiete.goo.ne.jp/qa/5924895.htmlの中のkigurumiさんの回答のユダヤ教やキリスト教でも通じているような感想です。
反逆、謀反、反体制活動・運動の立場。批判と現体制へのまつろい(服い)からの逆遡。服(まつ)ろわせようとするものへの抵抗、異端という立場が共通していますね。
ここには大義名分、テーゼという当為規範性があり、現実面では対抗する勢力と対抗対象勢力があるという図式なのでしょうか。
2. そしてそういう立場でもなく、そして内部結束の当為規範のテーゼもなかったのが、外来思想たる仏教文化を武器として蘇我氏に対する、物部氏だったのか。
神道にはそういうものが欠如し、しかも土着的でどうしても連合しませんね。
このことは尊敬するダライ・ラマのチベット仏教がチベット土着の宗教と文化を政治的に制覇する仮定の図式でもありましたね。
土着の思想(ということも拒絶する心性)と文化をインドの女悪魔の名前を与え、地面に敷いてしまいました。
日本への仏教とその文化の伝来、新規の勢力の制覇に類似した構造でした。キリシタンも或いはそういう経過を辿ることになったかも知れません、禁教していなければ。
個人の成長における人同士も、民族の文化も優れたものが、今までのものを制覇したいきます。とても悲しいことです。
一向宗は一つの抵抗であった事は否めないと存じます。世俗の権力財力、政治勢力の側面があるのはこういうこととしては当然です。
そして土着の神道と違ってテーゼが武器でもあった。そのテーゼの意味内容は、前から見るか━から見るかで、意味合いが異なる。その相違は微妙なものも時に反射した。
ということをbungetsuさんの回答を読みながら、感じました。
異なることを妄想しながらの読後感ですが、投稿させていただき、kiyokawataturouさんの批判をお待ちします。
民主主義的と思ったのですが、これだとずいぶんと狭い範囲内においてのみ適応されてたようですねぇ。
(「民主主義的」と書いたのはなんとなくそれっぽいなーと思ただけなので言及しないでくだせぇ)
確かに神道は関連性もへったくれもない祭り方してるのが多いですよねー(笑)
スゲェものとコエェものをとりあえず祭ってる感じですし、特に教理があるわけでもなし。
まぁ、私はその本邦さが好きですが(笑)
私の読んだ比較宗教学の本によると、どうやらキリスト教とユダヤ教はもともとあまり関係がなくて、
後に「キリストの教え」に「深みとコク」を持たせるためにキリストの直弟子か孫弟子か分かりませんが
誰かがユダヤ教をキリスト教の過去の部分に張り付けたらしいですしねー。
ちなみに、隠れキリシタンは日本の文化とキリスト教を融合させたような
「天地始之事」(てんちはじまりのこと)という聖典(?)をつくっていたらしいです。
読んだことがないので内容はよく知りませんが、
持っている「堕天使がわかる本」(ソフトバンク文庫)によると、
「悪魔=天狗」とされたり、ルシファーが「中天」(仏教用語?)に落とされたりと
中々のとんでも聖典だったので、イエズス会の使者は「取るに足らぬもの」と評したそうな・・・・
質問者が横道それまくってすいませんでしたー(汗
ご回答ありがとうございました。
No.7
- 回答日時:
「一揆」という言葉には「考え(思想)をひとつにする」という意味があります。
戦国期の一揆の場合ですが、質問者様の仰る通り、自宗教の既得権や勢力の防衛がまず挙げられます。
しかし、一揆のそもそもの意味(上記)よりも、ある種のマインド・コントロール(洗脳)の色が濃かったように思われます。“進めば極楽、退けば地獄”のようなスローガンを掲げ、一揆に参加せぬ者は破門にされるという強迫観念を植え付け、さも一揆を良い行いのように洗脳するといった具合です。
分かりもせぬ来世を説き、民百姓に刀槍を持たせ、戦へ向かわせておきながら、いざ坊主達は妻帯し権勢を欲しいままにし酒を飲み肉を食べ、女色に溺れ、貴族のように暮らす…人を戦に送り出すのは人でなくてはなりません。たとえ神仏が間違いをおかしても宗徒はそれが間違いだとは言えない。いや、思いもしない。そんな自堕落な寺社が多く(本願寺や比叡山など)ありました。
いくら勢力が大きな寺門でも基盤が脆弱なものでしたからやがて一揆は淘汰され、廃れていきました。
戦国期と江戸期の一揆はあり方も内容も変わっていきましたよね。
寺社は寺社らしく人々の救済を説く存在であればよかったんですけど。
一揆やあるいは宗教戦争的なものは、やはり織田信長がきっかけを作り、沈静化させたように思います。
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