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「なぜ私のモノにならぬ、神よ!」「おまえが己を信じないからだ。他人の力を盗み、人から生まれたモノのくせに神とやらにしがみついていただけだ。おまえ自身が成長しておらん」「私はこの世の全てを知りたかった!望んで何が悪い!ナニサマのつもりだ、おまえは!」「私はおまえたちが世界と呼ぶ存在。あるいは宇宙、あるいは神、あるいは真理、あるいは全、あるいは一。そして私はおまえだ。思い上がらぬよう、正しい絶望を与えるのが真理」「!!!」「だから、おまえにも絶望を与えよう」「戻りたくない・・・いやだ!そこで縛られ続けるのは嫌だ! 私はどうすればよかったのだ!」「・・・・おまえはその答えを見ていただろうに」

だれか説明して。あと見てた答えは何?

A 回答 (7件)

すぐに答えを求めてしまうのもどうなんでしょう


成長の過程で学んでいって
「ああ、あの時の漫画(アニメ)はこんなにも深かったのか」
など大人になってからも楽しめるかもしれないのに
早急に答えを求めてもどうかな。
まぁ、これだけのセリフがあるから深さを知るのも
それほどの感動は無いかもしれないけど

見てた答え
見てたのだから物語の中で常にあったことでしょうね
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 No.4です。



 解説のサイトをおしえてもらってありがとうございます。
 ただし まだ筋やら文脈もはっきりしない感じが残ります。(すすんでそこから手を伸ばして あらすじを知ろうとしませんでした)。
 それで しばらく放っておいたのですが そこで持った反応を それだけですが お伝えします。
 
 (1) どうも《神》と呼ばれている登場者は いわゆる超自然的な神ではないような一面があって それは〔どうも〕《神》という名の人間なのではないかと思わせるところがあります。
 つまり 同じ人間どうしが 話し合っているというようにも受け取られます。
 だとすると いわゆる神の立ち場からの言葉とは違っていても 仕方がないのかも知れない。ただし そうなると 哲学としては 余計につまらないと思います。

 (2) 前回の最後に次のように書きました。
 ☆☆ (回答No.4) だからその線で考えるなら 《・・・・おまえはその答えを見ていただろうに》と言うのは 神がではなく 自分の心において自分がだということになる。
 ☆ これは その《自分》がすでにその答えを知っているという意味です。

 (3) 解説のサイトをおしえてもらっても 放っておいたのは 質問者のほうから 何らかの応答があるのではないかと思っていたからです。ご自分の考えを示してもらえれば さらにわたしも応答してまいります。

 では。



 (4) 勘違いかも知れませんが 登場人物は どうも死んでも生き返る(二度目の人生を生きる)ように感じられます。こういう設定は あまり面白くないようです。そばが延びてしまいます。
 一回きりの人生だから たのしいのです。また 文学は一回性の事件 ないし 生きることの一回性から 成ると相場は決まっています。昔は そういう前提に立ってこころざしを持ちました。作者もそうですし 登場人物もそうです。読者もそうです。世界が 新鮮なそばやうどんで満ちあふれていました。
 (年寄りからの苦言でした)。
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おいらはさいこう!


とさけぶキモイおじさんが多いということです。

自分が思考停止しているから、みんなも思考停止しているはず。としんじこんで
自分が唯物論者で、味覚を喪失しているのに、
あまい
からい
と主観的ないちゃもんをつけたがるじいさんは、キラわれる運命にあるという予言です。

みんなは、こころのなかで、「殴られろ!ひょろひょろおかまのグルピーのっぺらぼうめ」と
思っているというのが
その空想的表現の基礎です。

「おまえのいけんは きにいらん!」
以外の主張のできない哀れな高齢者に同情の微笑を投げかけてあげましょう。
おい先は短いのですから・・・

あとネットで本名を名乗るか名乗らないかというのは、IQの高さを計る為もっとも有効な指標です。
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 こんにちは。


 きびしく辛口の批評を寄せます。

 全体として 想像力のもんだいとしての文学なら何とも言いませんが 哲学としてなら 甘過ぎます。

 ● 「なぜ私のモノにならぬ、神よ!」
 ☆ 《神を自分のモノにしよう》と言っているのでしょう? そんな料簡で怒鳴りこんで来られても 神であれば どうしようとないと思いますよ。やってらんないと言って 放っとくと思います。
 ですから 次の神の言葉は まるで成っていない。そんな言葉を言うわけがない。

 ▲ 「おまえが己を信じないからだ。他人の力を盗み、人から生まれたモノのくせに神とやらにしがみついていただけだ。おまえ自身が成長しておらん」
 ☆ 人間が成長するかどうかを 《神を自分のモノにしようしている》人間に話す意味がありません。
 人間が《己を信じる》というのは――つまり 《信じる》という言葉を使って表わそうとしていることは―― 《自信を持つ》ということだけです。単なる文学的表現です。哲学から見れば この朽ちるべき相対的な存在でしかない人間を信じるということはあり得ません。鬼のように成って 一時的にはその目指すところに達することがあるかも知れませんが だからどうした? ということでしかないと考えます。
 《神とやらにしがみつく》だけでも ぎゃくに言えば――それは信じることであり―― おのれの努力のあとその努力が報いられることがあるかも知れません。ただしその報いというのは 必ずしも目的としていたことが達成されたというのではなく そうではなく ただひとつのこと すなわち 神が信じられたという結果を得るということにしか過ぎないかも分かりません。
 つまり そのようにして――《神とやらにしがみつきからかして》―― あなたは神に知られるようになります。

 ● 「私はこの世の全てを知りたかった!望んで何が悪い!ナニサマのつもりだ、おまえは!」
 ☆ 世界のすべてを知りたければ そうすればよい。何も問題はありません。
 ここで何で《ナニサマのつもりだ。おまえは!》と 神に対してでしょう? 言っているかは 文脈が分からないので そのままにしておきます。ひょっとして 神が とがめたのでしょうか? 良心に呵責を覚えたのでしょうか? 世界を知りつくそうという魂胆に対して 咎めることもあまりないと思いますが?

 ▲ 「私はおまえたちが世界と呼ぶ存在。あるいは宇宙、あるいは神、あるいは真理、あるいは全、あるいは一。そして私はおまえだ。思い上がらぬよう、正しい絶望を与えるのが真理」
 ☆ ううむ。もし神であるなら そして真理であるなら 直前に触れたように 人間にはその内面における良心の呵責だけで その軌道修正をすることができるように成っているよとおしえるでしょう。もしくは いちいちうるさいことは言わないでしょう。すべて人間に任せるのではないでしょうか?
 《思い上がらぬよう》という発想が出て来ることじたい 《思い上がる》というくせをいとしんでいる。つまり まだ《神とやらにしがみつく》気配がない。ということになるでしょう。
 《わたしはおまえだ》――文学的な効果はあるように思いますが やはり《神とわたしとの関係》について しっかりとした受け止めをした上ででないと この言葉も使い勝手がむつかしいように思います。先には
 ● 「なぜ私のモノにならぬ、神よ!」
 ☆ と言っていたわけですから 少々乱暴にでもここは 次のように言い返してやってもいいのでは? つまり 《わたしがお前に成るのではなく お前がわたしに成るのだ》と。

 ● 「!!!」
 ☆ 分かったのだろうか?
 ▲ 「だから、おまえにも絶望を与えよう」
 ☆ こんなめんどうな説明は要らない。
 ● 「戻りたくない・・・いやだ!そこで縛られ続けるのは嫌だ! 私はどうすればよかったのだ!」
 ▲ 「・・・・おまえはその答えを見ていただろうに」
 ☆ この最後の言葉も 甘やかしすぎ。いちいちそんな説明は要らない。そんなことを言うのは 神がこの人物をバカにしていることになる。あるいは この人物かもしくは作者かが 人からバカにして欲しいと思っていることになるし ただそれだけのマゾだということであるに過ぎない。
 どこへ戻るのか知らないが 《戻りたくない・・・いやだ!》と言っている限りでは 戻りたいと言っているのと変わらない。わづかに《私はどうすればよかったのだ!》とも言っているので それは 自然本性のこころに還っているように思われる。
 だからその線で考えるなら 《・・・・おまえはその答えを見ていただろうに》と言うのは 神がではなく 自分の心において自分がだということになる。
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この回答へのお礼 お礼日時:2010/06/30 15:48

答えは既に自分自身の中にあるんではないでしょうか?


我執っていう感情なくせばラッキーになれますよ、きっと。
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人生の真理とは「掴もうとした瞬間に逃げてゆきます」人生の真理とは「平常心」が分る事と一致します。



平常心は(悟りは)掴んだと思っても此処には無いと言う事になります。掴もうとしたらもうそこにはありません、掴もうとしないならば、まるで間抜けでしょうか?掴もうとしてもだめ、掴もうとしなくともだめ、という事になります。

ですが本当に道に達した場合は「青空が何処までも無澄み渡っているようです」寝起きにも「心は騒がしくなく」寝る時にも不安は無く、苦しいときや、悩ましい時にも、心はどかっと座っています。

安心して苦しんでいられるようになります。安心して悲しんでいます。安心して怖がっていられます。生死には囚われなくなるからです。自分の死でさえ「喜んで」頂ける様になります。

その時になったら、安心して生きてゆけます。何故ならば自分が「永遠」や「神様や仏様』と何時も一緒にいる事が分っているからです。自分を苦しめていた者の言う事を「勘違いしていた事が分かるからです。」

有限の世界とは「自分で勝手に作り上げた」妄想の世界と分るからです。自分で勝手に作った壁に、勝手に突き当たっていた事が分ります。壁は元々無かった事が分るからです。

壁は分別が勝手に作っています。分別を捨てたら分ります。それは自我意識という有限の者が自分の中で作った壁とだけ言っておきます。顕在意識が知らないもう一人の自分。無意識の中の主人公を知って、その者に従う時には、総ての苦しみから解放されます。何も求めなくなるからです。全てを放下できるからです。

総てを捨てた時に、総てが本当に手に出来ます。貴方の否定感は、その者を認めようと出来ない苦しみです。それが心の矛盾という事になります。認めた時が「悟り」という事になります。自分自身を苦しめていた者が「誰か」が分るからです。

自分自身の『実存』からの問いかけが貴方の疑問です。本当は貴方は分かっていた答えです。
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以前、大総統の一言で質問を立てておられた方でしょうか。

。。
私はコミック版を楽しみにしているので、テレビの方は頭半分で観ております。
ついでに最終回(ガンガンの)は未読です。
間違いがあるかも、ですが。

「真理」あるいは「真理の扉」は、どうやら「錬金術における」と言う但し書きが付くようです。
だから、全知全能の「神」にしてみれば、錬金術など一部分に過ぎぬ物。
加えて、「人生」には錬金術では語りつくせぬものが山のようにある。
そのひとつが「仲間」とグリードは気づいた。

「そこに縛られ続け」てしまうのは、錬金術の原理に縛られ続けると言うこと。
だからこそ、錬金術の原理を超えようと挑み続けたエドとアルが希望を叶えられたのではないでしょうか。
エドは真理の扉を代償にアルを取り戻し、その代価として錬金術を失ったけれど、彼自身はおそらく「何も失っていない」と考えている筈。

「答え」はきっと、「錬金術で全てを手に入れられる、と考える事の間違いと傲慢に気づく事」だと私は思います。
おそらく「傲慢」の方に、荒川さんの思いは強かろうと、勝手に考えています。
あれは「母」でなければ書けぬ物語と思っています。

最終回、最終巻、楽しみですね^^
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