あなたの習慣について教えてください!!

仏教を捨ててこそ仏陀となれる。
お釈迦様の語った「無を悟りなさい」の内訳は有無について明白な分別を養いなさいです。
ところが有史以後の仏教教団は無の研究を違いありもしない極楽を夢想しています。
仏陀に逆らい無を認めないのが仏教です。
仏の立ち入りようがない娑婆世界で互助を装い自己満足にふけるのが仏土です。
そんな信仰は捨てたもん勝ちです。
よって仏教を捨ててこそ仏陀となれる。

仏教を捨てきれないくたばりぞこないの生きる屍よりの反論をお待ちいたします。

私の意見としては、
仏教徒は信教に非ずただ潜り抜けるのみの道であり、仏道と言う。
仏道は虚無のみの咲き誇る世界観である。
救いを求めるほど救いが無い事を知る絶望が仏道である。

あくまでも反証を正す質問です。
従うだけ、
飼われるだけの、家畜人ヤプーはお断りです。

A 回答 (7件)

No.3です


>>> No.3お礼欄
何おもって仏が曖昧なままではやはり間違いがあるでしょう。
それから観念研究は書物を読んでも意味の無い瞑想です。
そうすると物の本に書いてある事はせいぜい話半分でしょうね。
<<<

私の思うところと順番が逆になっているので、食い違う部分ですね。

1.物の本に書いてある事はせいぜい話半分
だって、「書く」ことは、「考えていること」の部分でしかない。
したがって
2.観念研究は書物を読んでも意味の無い瞑想になることもあるし、そうならないこともある。
なぜなら、書いてあることの「中」に何かを見いだそうとするのではなく、書いてあることを「透かして」その向こう側へと想いを馳せようとするだろうから。
それゆえ
3.「仏という概念」がどのようなものであれ(たとえ曖昧であっても)、自身の思う(想う)ところがあるゆえ、「仏という概念」の向こう側に、(たとえ虚像であろうとも)自身の思いの投影像を見ることができる。

ヤプーが(人から見た)「ヤプーという概念」足りうるのは、すでに、「人」と「ヤプー」の両方を「知っている」からこそです。

>>> No3.補足欄
それども日本に生まれた限り感化される仏道とはそれ自体は信仰とは言えない。
実に古めかしいお化け屋敷が仏道です。
<<<

ヤプーが生まれながらにしてヤプーであり、「人」なる存在を知らず、「人という概念」のみを(半ば真実・半ば虚構の歴史的な)書物で聞きかじったなら、その「概念」の向こう側を希求する(想う・思う)かもしれません。
そういった「希求」が生じた途端、ヤプーからの脱却の方向性に向かっているといえるでしょう。

さらに、ヤプーについて記している書物を(人として)読む側は、ヤプーが抱くであろうそういった「希求(想い・思い)」を想像するからこそ、自身がヤプーでないことの意味を深く考えるのでしょう。

そういったレベルでは、知的・論理的・意味論的な言語活動と表裏一体の関係にある情的な「思い・想い」の重要性を再認識し、「希求する」方へ向かおうという意志、これらが総合的に働くところに人を人たらしめている「何か」があるのだということの再認識に繋がるのかも知れません。

>>>http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_7_23.html
ブッダがもたらしたのは、このような個人主義的な解脱への志向を、現実的な他者との実践的な「関係」に転換することである。そのために、彼は輪廻すべき同一の魂という観念をディコンストラクトしたのである。ディコンストラクトと私がいうのは、ブッダは、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってしまう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。したがって、彼は輪廻からの解脱をはかる修行一般を斥けた。初期の仏教が主にそれまでさげすまれていた商人階級や女性によって支持されたのは、当然である。
(柄谷行人「仏教とファシズム」『批評空間II-18』太田出版)
<<<

>>>「スッタニパータ」「八つの詩句の章」
779 思いを熟知して、流れを渡れ。聖者は所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。
<<<
ここに虚無を見いだすか、強い意志と思いが求める「何か」を見いだすかに、ヤプーと人を分けるものがあるのかも知れません。

この回答への補足

なんだかまだ中途半端ですが、思索を新たに進めるために今回は閉じます。

それからこんな事を考えました。
魂の所在について
「あるのでもなく、ないのでもない」
魂と言う観念上の規定は想定しうる事が示すようにあるとも言いうる。
しかし無常のもとではそれはうかがい知りようも無いと言う意味で無いとも言いうる。

この場合の無の観想は「そんなもんありゃしねー」では無く「それをあらわす言葉を知らない」と言う無でしょう。
とかく「無」が口癖だったのですが聖典の類は丸暗記するだけではそれこそが絶対化であり無常に逆らっています。
信仰を志すのなら「従う姿勢」は改めるべきです。
誰かがかつて言った事に惑わされる限りでは自らの歩む道とは言いませんよ。
仏道が地獄巡りでもいいじゃありませんか。

補足日時:2010/07/14 21:15
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
おっしゃることはよく考えてみます。

お礼日時:2010/07/14 10:54

>仏教を捨ててこそ仏陀となれる



なるほど。禅の考えですね。
格別変わった考えでもなさそうです。
仏教を語るなら禅も勉強してみてはいかがでしょうか。

この回答への補足

私は犬を飼ったことがあるので、お犬様を義理でいさめます。
なにせとことん犬なもんで。
「無とは尊いものだ」経典にあらはれるこの手の言い方を、「無に過ぎないのでそんなもんあやしねーと、なるのは然るべし」このようにお笑い芸人の言い方に置き替えて読み解くとよろしい。
それでも「そんなもんありゃしねー」が、判らなければ、その馬鹿さ加減は商売にできる。
お笑い芸人としてデビュー可能です。
いい加減にしやがれ。
犬ども。

補足日時:2010/07/13 19:55
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この回答へのお礼

禅何ぞ学ぶ必要は無いよ。
具体的に仏教こそ仏が理解できない現象の内訳だ。
ありがたがれ。
犬。

お礼日時:2010/07/13 19:20

>お釈迦様の語った「無を悟りなさい」の内訳は有無について明白な分別を養いなさいです。


>仏陀に逆らい無を認めないのが仏教です。

 お釈迦様の言うとおり。お釈迦様は正しい!という主張ですね。

 従うだけ、飼われるだけの、家畜人ヤプーの質問はお断りです。

 と言っておこうwww

 しかし、とりあえず質問文の主張は大体同意ではあります。

 この質問は「かまってくれ~」と言っているんですね。
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仏教、というと、いろいろかもしれませんが、私も「教団」については、あまり良い印象は持っていません。



こちらでmaggaさんにお薦めいただいた、スマナサーラさんの『怒らないこと』を、ようやく読む機会を得ました。

だから、というわけでもないですが、そもそも「それ」は、「心安らかに生きるための知恵」であって、「「何か」を求めるあまり、怒りを発することを、最も避けなければならないこととする」、というようなものではないでしょうか。
私は、その「無欲」ということを徹底しよう、というような行き方にも、また、良い印象は持っていません。
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この回答へのお礼

そうですか。

お礼日時:2010/07/12 21:04

仏教徒ではありませんが。

。。

思うに、「捨てる仏教」があれば「拾う仏教」があるのでしょう。

そうして「捨てる」ことも「拾う」ことも、両方ともを「捨てる仏教」もあれば、両方ともを「拾う仏教」もあるのだと思います。

仏教にかかわらず、(あらゆる)宗教という「概念」は、思考にとっての一種のフィルター(サングラス、メガネ、水晶体、視神経、知覚、認識)のようなものなのでしょう。。。

そういった「概念」(得られた果実、知的に所有可能な事物)を介してしか仏教(ないし宗教)の本質に到達できない(と感じている)のであれば、腐っていても腐っていなくても果実を拾い集め続けることに意味を見いだすことになるでしょう。

また、そういった「概念」は、(先があるのかどうかすら定かではないけれど、そうせざるを得ない)想い(ないし思い)という情の途中に、たまたま重ね合わせられている(と感じている)のであれば、拾うことも、捨て去ることも不要になることでしょう。

ただし、お腹が空けば必要な分量だけ拾い、自身にとって腐っているか腐っていないかといった判断にしたがって捨てるか捨てないかを分別するかもしれません。

「知の実」(概念)を拾って味あわなければ、どんな味なのかは分からないのです。腐っているか腐っていないか判断できるとすれば、経験的な知であれ、ア・プリオリな知であれ、「知る」という過程(ないし前提)を経てこそ可能になるのでしょう。

すなわち、はじめから「捨て続ける」だけというのは決してあり得ないということであり、そういったことを「求め続けようと」(拾おうと)しても、既に「味を知っている」からこその希求でしかあり得ないのでしょう。。。

。。。と、このように半ば抽象的に記述している私の言葉(概念)を「捨てる」ことも「拾う」ことも、それぞれの人々の抱く思い・想いの途中にて、それぞれ可能だということなのでしょう。。。

この回答への補足

お礼の追加です。
信仰を全うすることを阻むことは出来ないしそのつもりもありません。
むしろあくまでも自らの信仰の道を歩むことをお勧めしています。
それども日本に生まれた限り感化される仏道とはそれ自体は信仰とは言えない。
実に古めかしいお化け屋敷が仏道です。
今回はそんな批評です。

補足日時:2010/07/12 17:08
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
何おもって仏が曖昧なままではやはり間違いがあるでしょう。
それから観念研究は書物を読んでも意味の無い瞑想です。
そうすると物の本に書いてある事はせいぜい話半分でしょうね。

お礼日時:2010/07/12 05:33

何かを捨てれば何かを得られるのでしょうか。



それはある種の取引を意味していますが、

その結果として真理を手に入れられると?
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この回答へのお礼

意味不明

お礼日時:2010/07/12 17:10

それは断見で、外道の見解にすぎません。


無我や無自性というのは、虚無論とは違います。
詳しく知りたかったら、仏教哲学を学んだらいいんじゃないかと思います。

この回答への補足

むしろ即身成仏や生きながらに入滅することを覚悟して虚無にまい進してこそじゃないかな。

補足日時:2010/07/12 17:10
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この回答へのお礼

やあどうも。
おしゃる通り私は外道です。

お礼日時:2010/07/12 05:25

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