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僕はいつも、「カノッサの屈辱」 と「アナーニ事件」 が混乱してしまいます。
覚えても、あれ? となってしまうことが多いです。

それで、カノッサの屈辱では教科書では、
ハインリヒ4世が、グレゴリウス7世に破門され
ハンヒリヒ4世が謝罪し、その後のヴォルムス協約で事がおさまる。

で終わりです。

ですが、先生が「この後がほんとはおもしろい」と言っていました。
ウィキペディアでは、詳しすぎて余計わからなくるので、
どなたか、高校生の世界史レベルでいいので、ご説明お願いしますm(__)m

また、「カノッサの屈辱」 と「アナーニ事件」が混乱しない良い覚え方とかあれば是非、教えて下さい!

A 回答 (3件)

まず、西洋史の中における2つの事件の決定的な違いです。


「カノッサ」は教皇の権威を示したものですが、「アナーニ」は教皇権の衰退の始まりと言えます。

その他にも違いはあります。
「カノッサ」はローマ教皇vs神聖ローマ皇帝、「アナーニ」はローマ教皇vsフランス国王。
「カノッサ」はローマ教皇の破門に対して皇帝ハインリヒ4世が謝罪していますが、「アナーニ」では破門を宣告されたフィリップ4世は反撃に出て、一度は教皇を捕えることさえしています。

時代も11世紀と14世紀なので、ローマ教皇の権威の移り変わりとして見るとわかりやすいのではないでしょうか。

ちなみに「カノッサのその後」ですが…。
ハインリヒが謝ったのは、ドイツ諸侯が破門を口実にハインリヒに叛旗を翻そうとしたからなんです。だからしかたなく教皇に謝りに行ったんですね。
ところがハインリヒは教皇から許しを得ると、さっさとドイツで諸侯を制圧します。しかも10年も経たないうちにハインリヒはローマを攻め、教皇グレゴリウスは逃亡先で亡くなってしまうんです。
「カノッサの屈辱」では、絶大な権威を見せ付けたかに見える教皇は、最終的には負けて失意のうちに亡くなるということで、事件だけでは終わらないのが歴史の面白さでしょうか。

しかもこれで話は終わりません。
ハインリヒはこの後、2人の息子に立て続けに裏切られます。どちらも教皇側についたというから、歴史の皮肉です。1人目の息子には結局勝ちますが、2人目(後のハインリヒ5世)には幽閉までされてしまうんです。最終的には自由の身となりますが、相当なショックだったのでしょう。息子に一矢報いることなく、彼もまた失意のうちに亡くなるんです。

先生が言いたかったのは、きっとこんな話だと思います。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%B4%E9%96%80

No1の方や上記の説明に補足すると

抜いちゃいけない伝家の宝刀
というのが、大破門となります。

最後の武器は、「抜くぞ、抜くぞ」と脅かすまでが有効で、一度抜いちゃうと効果がなくなる。
カノッサの屈辱の場合も「破門されたら、謝っちゃうと、許さないとならない」という隠しコマンドみたいな論理があり、ハインリッヒ四世も、これに気づいちゃいました。
なので、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8E% …

「突然現れたハインリヒに教皇は戸惑い、捕縛されるのではないかと恐れ、城から出ようとしなかった。ハインリヒは武器をすべて置き、修道士の服装に身をつつんで城の前で教皇に赦しを求めた。教皇は破門を解く旨を伝え、ローマへ戻っていった。」
これです。これが前例になったので、「破門されたら謝っちゃえばOK、その後体制を整えれば、教皇を捕まえれる」となっちゃいました。

で、実際に、いきなり教皇を捕縛したのがアナーニ事件となります。
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カノッサの屈辱は、実際に屈辱を味わったのは、教皇グレゴリウス7世で、勝利をかみ締めていたのは、ハインリッヒ4世です。


ハインヒ4世が、修道衣をまとい許しを請うていた時、ハインリッヒの心の中は、勝利の喜びでいっぱいだったでしょう。
グレゴリウス7世は、その瞬間、敗北感と絶望しかありませんでした。
そのため、グレゴリウス7世は、死んでもハインリッヒ4世を許すつもりはありませんでしたが、カノッサ城の城主であるマチルダ女伯爵と、同行していたクリュニー修道院長らにより、ハインリッヒを許すように説得され、仕方なくハインリッヒを許します。
そもそもグレゴリウス7世は、ハインリッヒの破門による神聖ローマ皇帝位の無効を宣言するために、ドイツに向かう途中でした。
ハインリッヒは、それを知り、イタリアへ先回りします。
その時スイス経由でイタリアに向かうと思っていた反皇帝派の諸侯の裏をかき、フランス経由でイタリアに向かいます。
皇帝がイタリアに現れると、皇帝の支持者たちが軍勢を率いて皇帝を向かえ、グレゴリウスのドイツ行きの一行の前に現れます。
グレゴリウス一行は、驚きカノッサ城に逃げ込みます。
カノッサ城は、普段は使われていない城のため、城を守る軍勢はなく、ハインリッヒの軍勢に包囲されてしまいます。
そうしてハインリッヒは、修道衣に着替え、家族を伴って許しを請うのです。
教皇が絶対に許さなければ、カノッサ城を攻め落とし、教皇一行を皆殺しにして、ローマで別の教皇を擁立することができる状況でした。
グレゴリウス7世は、自分が殺されても許すつもりはありませんでしたが、同行している人達は、教皇の名誉のために死ぬのは真っ平ごめんだったので、教皇を必死に説得し、ハインリッヒを許すことになります。

許されたハインリッヒは、ドイツに戻ると、反皇帝派の諸侯を、皇帝に対する反逆罪で討伐します。
ハインリッヒに敗れた諸侯は、再び教皇になきつき、再度ハインリッヒを破門にしてもらいます。
しかし一度許された罪状での再度の破門は、中立の諸侯の賛同を得られず、ハインリッヒは、軍勢を率いてローマに攻め込みます。
驚いたグレゴリウスは、南イタリアの覇者であるロベール・ギスカールをローマに呼び、ハインリッヒと戦わせようとします。
ハインリッヒは、ロベール・ギスカールとの対決を避け、軍を引きますが、残されたギスカールの軍が、ローマ市内を略奪してあるいたため、ローマ市民がギスカールを呼び寄せた教皇の責任だとして蜂起し、グレゴリウス7世は、ナポリ近郊のサレルノに逃げ出すことになってしまい、そこで教皇は、憤死してしまいます。
怒りと屈辱で、夜も寝ることができなかったそうです。
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