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織田信長が暗殺されずに生き続けていたら今の日本は変わっていたか
どうなのでしょうか?
それとも、余り歴史は変わらなかったでしょうか?

A 回答 (10件)

 大きく変わりますね。


 日本の中央部に、当時としては世界最強(鉄砲の生産量第一位)の中央集権国家が誕生していたでしょう。(当時のスペインの人口は、500万人、日本は2500万人、)

 武田家が滅ぼされている以上、毛利も確実に滅ぼされて、強力な敵がいなくなりますから、これ以後は敵対した大名の降伏は認められないでしょう。また、強力な敵がなくなることで、信長がこの当時までに取っていた政策が、今までに増して、強力に推進されます。

 今までの政策は
1、織田家では、武将の知行地は一時的なもので、部下の武将の移封をどんどん進めている。

→ですから、その後を考えれば、有力武将は、敵が辺境になっていくので、辺境へ移動されることになります。
・秀吉:薩摩・大隅・日向
・丹羽:肥後
・土佐:三好氏
・明智:出雲・石見・隠岐
・柴田:越後・庄内・山形
・滝川:上野・下野
・河尻 秀隆(信忠家老):相模・甲斐

 そして問題の徳川家康は、武蔵・安房・上総・下総・常陸あたりではないでしょうか。

・信長次男、北畠信雄:駿河・遠江
・信長三男、神戸信孝:讃岐・伊予

2、直轄地(中部・近畿・山陽)では、中央集権化・軍事部門の兵農分離を徹底して進める。
→ヨーロッパ人宣教師から、ローマ帝国の統治策を吸収し、直轄地である中部地方・近畿・山陽のインフラ整備を進める。織田軍団は、農業から分離された兵であるとともに、土木工事に慣れた集団で、戦国が終了すれば、道路・港湾などインフラ整備に動員可能です。

3、天下布武による国力増大
 信長の施策から見て、
 宗教であれば、より哲学的で民衆救済に努力し続けるものを良しとする。
 商人であれば、より安く安定した物資供給を目指す者を良しとする。
 農民であれば、開墾・治水に努力し、より多くの収穫を目ざす者を良しとする。

 つまり、信長の言う天下布武とは、武士だけに当てはまるのではなく、常にその分野で革新的・積極的(=戦闘的)であり続けることを良しとする意味になっていったようです。

4、国際貿易拡大:今の自由主義に基づく、貿易・経済活動を目指していたと思われます。 
 本能寺の変前日に、博多の有力商人達を招いて、茶会を催しています。

 経済活動に詳しく、商業重視の政策を取り続けていた信長は、毛利氏滅亡後に大坂から瀬戸内海を通って博多を経由し、中国・朝鮮との貿易路を確立するつもりであったはずです。
 博多は、当時の日本の対中貿易最大の拠点となっていました。

 ここまでは、それまでの信長の政策の延長として、考えることが出来ます。

 以下は、私の個人的な「夢(妄想?)」と言っていいのですが・・・

1、この当時、既にフィリピンやベトナム・タイなどでは、既に日本人町が成立しています。
 既に、世界最大の鉄砲生産国となっていた日本を、中央集権体制で支配し始めた信長は、日本人町のネットワーク化=国際貿易ネットワークとして利用し、戦国が終わって余剰となった武士を、東南アジアの植民軍事都市建設・海外の拠点拡大に使い、東南アジアを勢力圏としていく。

2、更に、荒唐無稽に近いですが・・・
 宣教師からアメリカ大陸の存在を知らされていたので、船団を派遣して調査をした結果、植民可能と判断して、カリフォルニア北部=サンフランシスコ周辺から植民開始。
 二百年後、ロッキー山脈を超えて日本人とネイティブアメリカンの混血人が支配する国家が成立し、ミシシッピー川を国境として、ヨーロッパ系植民地と対峙し、後に東アメリカ連邦と西アメリカ連邦が出来る。

 実際の史実としては、
→1525年、アステカ王国がスペインに併合される。
→1580年、フランシス・ドレーク、世界一周(マゼラン艦隊:1522年)
→1582年、本能寺の変
→1620年、メイフラワー号でアメリカに渡った人々がプリマス植民地を開く。
 ヨーロッパ人から外洋船の造船技術を入手し、太平洋を越えるリスクに耐えれば、少なくとも、現在のカリフォルニア中部・北部、オレゴン、ワシントン州あたりに、日本の植民地建設は可能であったでしょう。 
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はい、変わってました。



織田信長が寵愛した森武蔵守長可様が暴れまくって日本は世紀末です。

159X年。戦国世紀末救世主伝説の幕開けですね。

http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E6%A3%AE%E9%95 …
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短期的には、大きく変わっていたと思います。



他の方も回答しているように信長は外向的な政策なので、主に経済策を中心に海外に積極的に出て行った可能性は充分あると思います。西洋に限らず海外との交易は盛んになって当時フィリピンやタイなどにあったといわれる日本人街が大いに賑わったことと思います。
また、本能寺直前に官位を返上していることからも、天皇家に対して手をつける可能性もそれなりにあったと思います。近年の調査から、安土城には本丸のすぐ横に壮麗な建物があったことが判明しています。信長本人は安土城本丸に住んでいたので、その建物に住むにふさわしい人物といえば天皇以外には考えづらく、もしそうなれば天皇は臣下に近い形で安土に住むことを強要された可能性があると思います。

しかし信長の政策と性格はあまりに独創的かつ天才的といわざるをえず、日本人のメンタリティにおいては現代であってもついていけないところが多々あります。ゆえに、どのような形であれ信長が死去すれば、徳川幕府のような保守政権に収れんしていくのは間違いないと思います。
朝鮮民族ほどじゃないですが、日本人は本質的に引きこもり体質なので、いずれ鎖国政策に傾いていくものと思われます。

つまり長期的に見れば結局変わらないということになるのではないかな、と思います。もし天皇を殺すなりなんなりして廃しても、織田政権が崩壊する過程でどっかから「○×皇子」みたいのが出てきて天皇制が復活するんじゃないかと思います。そもそも天皇家って南北朝で充分血統的にはあやしくなっていますからね。それでもなんだかんだで家としては存続しているわけですから、公家を含めて根絶やしにでもしない限り何らかの形で復活するでしょうし、仮に根絶やしにしても「我こそは天皇の落とし種」と名乗る人物によって復活するんじゃないかと思います。

現代日本においても、細川政権以来「日本の政治体制は変わった」といわれ続けていながら、結局変わっていないわけです。民主党政権になっていよいよ二大政党政治になるかと思われたら、民主党は急速に自民党化して、自民党は急速に社会党化(万年野党化)しているわけです。そして与党の議員の周囲には利益誘導を望む各種団体が存在することに変わりはなく、二大政党になると思われたら民主党も自民党も似たり寄ったりの政策で宰相が「ヨソの政党が消費税10%っていってるからウチも10%にする」なんて言い出すわけですよ。「一大与党と万年中小野党による政治体制」を55年体制というそうですが、何度も「終わった」といわれた55年体制は、今も看板だけを変えて続いているのです。
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天皇家が滅び、日本もその他大勢の国の一つになったと思います・

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常識的に考えれば、四国遠征軍はそのまま四国に渡り、長宗我部を滅ぼして四国が織田領になり、毛利も時間の問題で滅ぶ。


関東の北条氏も滅んで、上杉も風前の灯火。
さて「天下布武」が実現した後どうなるか?
跡目は織田信忠ですんなりいくと思うし、信忠自身も信長などに比べれば劣るものの、愚昧というほどではない。
本能寺の変の時、築城という常識的な策をとったことを考えると、非常識な発想は出来ないので、おそらく信長よりは保守的で手堅い政策に転じると思うが、これがどの時点か、織田政権が覇権を握った後ならむしろ非常識人の信長より安定する可能性がある。
信長が生き延びるより、信忠が生き残った方が歴史は大きく変わったのではないかと思う。
信長では政権が安定した後、狂気が内部に向かい、血なまぐさいことになるか、海外に目が向いて、ポルトガルのような国になるか、どちらかだろう。
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>織田信長が暗殺されずに生き続けていたら今の日本は変わっていたか


どうなのでしょうか?
それとも、余り歴史は変わらなかったでしょうか?

        ↓
異説・逆説等を含め、歴史の変化や飛躍や脚色を行うキーワードが、if・・・だと思いますが。
それは、私たちに想像力を膨らませ、夢を希望を拡げてくれます。

信長生存その場合には、史実や時代考証の制約を外す訳ですから、奇想天外や誇張変化を伴い信長生存説や義経ジンギスカン説等であり、色んな仮説や英雄伝に成って大活躍をします。

そこで、本能寺の変が無かったり、影武者の死であり脱出に成功、近郊に居た諸将の救援で存命していたら、当然、歴史の主役が変わり、国の有り様、推移や勢力関係に歴史は異なり、今の日本は変わっていたと思います。
そして、日本人の価値観・DNA・大衆の願いが基本的に同じならば、早い遅い、大きい小さいの違いはあっても、数十年の経過は大きく乖離するだろうが、数百年の長きトレンド、国際化を経ては酷似した国体に帰結収斂して行くと思います。


<私見>
それは、天下不布武が信長の手で実現する事を意味する。
その後、跡目(後見人の代理戦争)を巡る争いで、柴田+前田vs羽柴+丹羽の争い、明智や徳川の日和見状態が内乱となり、全国での群雄割拠が再度始まる。
第2次戦国時代の終焉、覇者は秀吉を省いて家康に落ち着くのではないでしょうか・・・
少なくとも、朝鮮出兵や大阪城の戦乱は起こらず、江戸(将軍)と大坂(関白)の姻戚関係の強化を図りながらの均衡:2強分担時代が続く
。以降の歴史は家康の秀忠へのバトンタッチが遅れたり、秀頼と千姫の子供系と秀忠系の両建て掌握にて実権を持っての施政が長く行われる。
<南北朝時代のような東西時代>が京都(天皇と公家)を含めて、不安定でありながらの安定が実現して大衆の勃興・商人・学者の異才・天才・有識者が世に輩出し、鎖国を行わず、国力増大して西洋列強との競合時代が前倒しで起きる。
やがて、幕末~明治維新の頃に道と歩みが近づき、日清・日露の戦いの国難の克服過程を経て、歴史の歯車は史実とほぼ同じ軌道に合致して行くのでは・・・
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何とも言えません。



信長の家系が何代か続くうちには、愚か者が現れる可能性もあり、その場合徳川幕府と同じ歴史をたどることになるかもしれないからです。
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貿易がさかんになり、西洋の文化が取り込まれましたので、かなり発展したかもしれないです。



ただ、信長の後継ぎ(信忠以降~)がどこまで、秀吉や家康の勢力を抑えることができたかということですね。

家康は明智光秀(=天海説)とつながっていた説がありますので、どうなっていたやら。

キーマンは家康かもしれません。
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生きたとしても、いつかは死にます。

死ねばやはり秀吉が政権を奪取するでしょう。
で、同じことよ。変わらないね。
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変ったと思います。



少なくとも「鎖国」はしなかったから、もっと日本が外国と交流していたでしょうね。
明治以降の外国との戦争もなかったかも知れません。
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