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この俳句の意味を教えてください。

  粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に

・どういう状況を詠んだ句なのか
・そもそもこれは実話なのか空想なのか
・作者の言わんとしていることは何なのか
・季語は存在するのか
・粉屋はなぜ哭いていたのか
など、とにかくすべてが謎だらけです。

検索もしてみましたが、句の意味を詳しく解説しているページは見つかりませんでした。

A 回答 (5件)

自由句は、解釈がさまざまになってしまうように思います。


詩の一片のような感じで、句の前にも後にも、見えない文章があるような感じがします。
つまり、言い切っていないところに、多くの解釈が生まれてしまうのではないでしょうか。

句から情景が浮かんでこない、また、つかみどころが無い感じがします。
>とにかくすべてが謎だらけです。
その通りですね。
季語も入っていませんし、どうも分かりませんね。
でも、それが定型句とは違った自由句の味わいなのかもしれません。
私個人的には、あまり好きではないのですが・・・

定型句は、噛めば噛むほど味があるといわれますが
自由句は、空想の味わいなのでしょう。
深い味わいがあるのは、見たままを、さっと言い切ってしまう定型句のように思うのですが・・・

私の考えは古くさいかもしれませんね。
ご参考になさってください。
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この回答へのお礼

みなさん回答ありがとうございます。
しかし、この俳句の意味を直接作者に聞こうという人は現れなかったのでしょうか?
一般人には無理ですが作者の知人なら訊ねることも可能だと思います。
そこが気になります。

お礼日時:2010/10/16 15:55

皆さんはなんでそう回りくどい考え方をするのでしょう。


私にはもっと素直な情景しか浮かびません。

粉屋というと水車が回りその力で小麦を挽いて粉にする
水車小屋で、そのギーコットンの響きが哭くように聞こえた
のだとと思います。
山の頂上を極めた満足感、陶酔感が駆け下りて来て、麓の
小川の水車小屋で現実の生活感に引き戻されます。
あんたは山登りなんかしていいなあ、俺は一日中粉を挽いて
なければいけないんだよ。
理想を追いかけながらも、現実に引き戻される人間の辛さ、
二面性を詠んだ名句とも思います。

当時の情景がどうであったか判りませんが、水車小屋はまだ
残っていた懐かしい時代です。

季語は小麦粉を挽くので、麦秋のあとの初夏~夏です。

傘寿過ぎの翁より。
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>このセメントの山は景観や自然保護のうえから問題視する向きもある。

「哭く粉屋」も、「衰退してゆくセメント業」あるいは「頭蓋をカチ割られ日に日に変形してゆく親父の禿頭」と読めなくもない。

私の近辺にもセメント用の石灰石採取で頭をカチ割られ、山容の半ば以上を喪失した山があります。有名作家の小説にも書かれた山です。それで、上記の解釈に便乗して以下のようなことを考えてみました。

粉屋(セメント採取業者)が、破壊されて哭く山に居たたまれなくなってそこを抜け、駆け下りて作者のもとに愚痴を言いにきた。

ご参考まで。
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 粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に 『金子兜太句集』


 「いつも変わらぬ粉屋の歌は/知ったこっちゃない/知ったこっちゃない/みんなが僕に知らん顔なら/僕もみんなに知らん顔」というのがマザーグースの歌にある(谷川俊太郎訳)。つまりこの粉屋はこんなふうな泣き言を俺に言ってきたのである。山から駈けおりてきた俺の顔付を見て、こいつなら解ってくれると思ったのかもしれない。とにかく「暗い製粉言葉のように鼠湧かせ」『金子兜太句集』のような仕事をしているもんで、と粉屋は言うのである。 http://www.geocities.jp/mominoie/KANEKOTOUTASAKU …

 似たような解釈は下記にもあります
 http://kuuon.fya.jp/TOTA.181.html

 下記では「長崎」での句に入っています。
 http://kanekotohta.jp/to%20kusyu%20kanekotohta.h …
 
 論評には下記のようなものもみられます。
 http://ameblo.jp/yahantei/entry-10088507823.html

 この俳句に似た物には「粉屋の親爺何故か哭(な)いてる」という「不遜」の句があり、「「哭く粉屋」も、「衰退してゆくセメント業」あるいは「頭蓋をカチ割られ日に日に変形してゆく親父の禿頭」と読めなくもない。」

 という意見も下記に見られます。
 http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/60616343.html

 そこでご質問ですが、その道の専門家が分からないとおっしゃっているので僕も安心して分からない組に入ります。分かる分からないと言うのとは別の次元で僕たちが受け取れるので、いい句だと思います。
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作者の金子兜太は、「俳句の本質を五七調の最短定型と捉え、当時、主流を占めていた花鳥諷詠において俳句に不可欠と考えられてきた季語や厳密な五七五三句体に捕われない本来の俳句の在り方を本格的に追求することになる。

」「この句が作られた当時、小西甚一は、「わからなさ」にもいろいろあって、右の句は、良い句にならない種類の「わからなさ」であり、そのわからない理由は、現代詩における「独り合点」の技法が俳句に持ち込まれたからだと批評した。」http://www.geocities.jp/haiku_square/hyoron/tout …

このように、季語は無く、意味も不明です。
それでも「一方、原子公平は、〈粉屋が哭く〉の句の魅力は異質な運動感覚の同化作用にあるとし、他者にも共有可能な詩的感覚の存在を認めている。つまり、小西説における自我とは個別的自我であり、それはあくまで小西氏という個別的自我から見た金子氏の個別的自我に過ぎない。それはまさに主客二元論的見解である。一方、原子説による自我とは間主体的自我であり、それは原子氏という間主体的自我から見た金子氏の間主体的自我なのである。ここに、二つの相交わらない自我論的テクストを垣間みることができる。もっともそれぞれの論説はそれぞれのテクストにおいて間違ってはいない。しかし、あくまで私の独断ではあるが、自我の深化という意味ではどうしても後者の立場を支持しなければならない。
」と五島高資は評価しています(同上)。
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