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よろしくお願いします。

テレビを見ていたら、「ビビアン・リー演じるスカーレット・オハラ」というナレーションがありました。
そこで、ふと気づいたのですが、「ビビアン・リーが演じる」と言うよりも「ビビアン・リー演じる」と言う方が自然に感じます。「演じる」という動詞があたかも助詞のように振舞っている感さえあります。

同様の例がないかと考えたところ、「西村監督率いる千葉ロッテマリーンズ」の「率いる」が浮かびました。

このような例は、かなり限られた数しかないと思うのですが、ほかにありますか?


なお、「エース・ダルビッシュ擁する北海道日本ハムファイターズ」の「擁する」も思い浮かびましたが、これは「エース・ダルビッシュを擁する」の方が普通だと思いました。

A 回答 (4件)

度々お邪魔します。

先々回もエラー回答でその上新入りの癖にご無礼いたしました。
新聞の見出しなどはほとんど格助詞抜きですが、そういうことでもないのですね。
つまり人物にポイントと言うかスポットライトが当たって格助詞抜きでぴったりくる動詞でしょうか。
その人物が思い浮かばないのですが、例えばタモリさん推薦する番組じゃちょっと
語感が弱いですね。
「○○氏ノーベル賞受賞する。」「俳優○○と○○婚約発表する」「カラヤン指揮する演奏会」
「○○奮闘し世界ランク2位」「食の安全脅かす問題だ。」「小学生恐竜の骨発掘する」
すいません。なんだか眠くなりました。失礼しました。
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この回答へのお礼

一緒に考えていただき、うれしいです。
「カラヤン指揮する演奏会」がヒントとなり、「カラヤン指揮するベルリンフィル」という好例を思い出しました。ありがとうございます。

>>>先々回もエラー回答で

私もよくやります(笑)

お礼日時:2010/11/17 21:30

これは、主語としてふるまうあとの「音よみ風の訓読み1文字の動詞」であると思います。



・たとえば、「ビビアン・リーが主演する」で、「ビビアン・リー主演する」
ではない、これは2文字の動詞だからダメ。
・「演じる」(えんじる)の「演」は音読みは「えん」で、その訓読みが
「えん」なのでOK。
・「~を擁する」は1文字の動詞で音読み=訓読みですが、「~」が目的語だからどちらかというとだめ。

・他の例ですが、「xx教授講じる授業」はOKだが、「xx教授講義する授業」はだめ。
・「アナウンサー報じる事件」はOKだが、「アナウンサー報道する事件」はだめ。
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この回答へのお礼

素晴らしい理論をご紹介いただき、ありがとうございました。

お礼日時:2010/11/17 22:20

今も旧制高校や旧制中学の流れを引き継い新制高校の校歌などには


歴史と伝統を引き継ぐと言う方針で昔のままの校歌を使っているところ
があると思います。
六甲西にそそり立ち武庫の流れを東してとか
青嵐はゆるさつきやま
とかかすかにおぼえています。高校野球でも文語調の校歌ききますね。
語呂が良くて歌いやすいと思います。
讃美歌も1997年初版21世紀に向けて、讃美歌21が使われていますが、
ほとんどが口語訳に変わり、新しい歌も多くなりました。
新しい時代への新しい息吹とも思いますが、たまに文語の物を歌うと懐かしいです。
言葉の美しさは文語の方が勝ると思うのは古い人間なのかもしれません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。私が出た高校の校歌もそうです。
なお、質問文から察していただきたかったのですが、現代でよく用いられるパターンを探しております。

お礼日時:2010/11/17 09:31

昔は幾らでもありましたね。

と言うよりも、余計な助詞を付けるようになったのは、言文一致運動の起こった明治以降のことなのではないかと思います。私たちの心の中には、千年にも渡って美しいとされた簡潔な文章の表現が多分知らず知らずにしみ込んでいて、何か昔古典で見たことがある表現に共鳴してしまうのではないでしょうか。


次の文章は徒然草第七段の出だしです。

あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。

これをもとの文章に出来るだけ忠実に現代語訳すると、

あだし野の露が消える時がなく、鳥部山の煙が立ち去らないままで住み果てるのが習いならば、いかにもののあはれもないだろう。

となりますね。この部分を現代語訳している本を読むと、もっといろいろ助詞を付けて、文章の長さを1.5倍ぐらいにしている物まであります。話し言葉は書き言葉と違って、喋っている側から音が消えてしまいます。そこで自然な心理として、どうしても余計な飾りを一杯付けてくどくど言わないと、果たしてこちらの言いたいことが相手に確実に伝わっているかどうか話し手は不安になってしまうようです。その証拠に、例えば上の文章を口語で表現すると、

あだし野の露が消える時がなくてね、さらに鳥部山の煙が立ち去らないままでずうっとそここに住み果ているのが普通の状態ならばさあ、どんなにもののあはれなんか無いだろうって思っちゃうよね。

と、「ね」とか「さあ」とか「さらに」とか「ずうっと」とかあらゆる飾り物を付けて、その不安を解消しようとしますね。

言文一致運動のお陰で、この口語の勢いを口語体と言う文章体が引きずってしまい、過去の文語と比べて、必要以上に冗長な文章を現代人は書くようになってしまったのだと思います。しかし、多分質問者さんのDNAの中には先人達の美意識が刷り込まれていて、時々現代文の冗長さに辟易して、その美意識が顔を出すのだと思います。

昔の人は、話し言葉と書き言葉の違いを骨の髄まで認識しいたので、書き言葉にする時には意識して不必要な物を落せていたのですね。しかし、言文一致運動のお陰で、我々現代人は、文章を書く時には何が必要で何が必要ないかの区別が付かなくなって仕舞い、話し言葉のようになんでかでも付けるようになってしまったようです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
質問文から察していただきたかったのですが、現代でよく用いられるパターンを探しております。

お礼日時:2010/11/17 09:29

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