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西洋近代科学が「主客二元論」に立脚している筈なのに、
どうして第二人称的な自分達の振る舞いを相互認識している様に感じられるのは、どういう錯覚に起因するのでしょうか?

哲学分野では此の問いへの回答が得られませんでいたから、此の分野の方からの御教授を賜りたいです。

A 回答 (1件)

 西洋というよりも一神教徒達の行動基準が、神から見下ろす視点になっているからです。


 神は全知全能の存在として人間世界を見下ろしています。そして人間側の一神教徒はつねに神様を基準とし、神様と会話しています。ですから欧州語に多い「女性名詞・男性名詞」の違いなどは、「はじめに言葉ありき」の神様の専管事項ですので、人間が勝手に決める訳ではありません。あるいは異教徒を皆殺しにするのも、クジラを保護しようとするのも神様の意志ですので、人間ごときが口を挟める訳ではありません。裁判においても神託の形からきています。
 とはいえ人間の動きはいいんですが、心の中までは見えませんので、人間側からは「ちゃんと信じてますよ」ということを動きで示す必要があります。それが十字を切ったり、身を投げ出したりする行動につながります。
 ですから一神教徒達によって書かれた本、ほとんどの翻訳本は、動きを中心に書いてあるので分かりやすい。日本文学のように、見えもしない相手の心情をああだこうだとこねくり回すことはしません。
 質問者の主客二元論に、神様という要素を加えれば万事すっきりすると思います。

この回答への補足

『西洋近代的な視線が「純粋な第二人称」の認識を苦手にしている筈なのに、どうして「囚人のジレンマ」という相即的な考え方が登場し得たのでしょうか?』
 
畏れ入りますが、回答を伺えると幸いですから、
宜しく御願い申し上げます。

補足日時:2011/02/25 06:08
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この回答へのお礼

失礼を致しました。

問題文が可笑しいですね。送信前の推敲を忘れておりました。

此の問題の主眼は、矢張り「囚人のジレンマ」に有ります。

つまり、「主客二元論」に由来しているのに、
『「囚人のジレンマ」が論じられている場合には、
主体と客体との立場が固定化されず、
同時に御互いを認識客体化させている』
という印象が窺われ得ますので、
それを錯覚なのだろう、と申しております。

従いまして、畏れ入りますが、
再度の御教授を賜れませんでしょうか?

宜しく御願い申し上げます。

お礼日時:2011/02/23 20:58

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