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この問いかけにどう答えますか?
ご教授願います。
漠然とした質問で申し訳ないです。

A 回答 (15件中1~10件)

>この問いかけにどう答えますか?



決めることができるどころか、すでに全てはあなたの手中にあります。

自分が全てを取り仕切っておいて自分は決めることができないような錯覚に陥っていませんか。

ありとあらゆる物事は、あなたが決めています。

あなたは、そんなことはないと仰るに違いありませんね。信じがたいことでしょう。
自分は何一つ決められない・・・・と・・・あるいは、決められるものは決められるが決められないものは決められない・・・・

しかし、あなたはあなたにとって存在し、決められるも決められないもそれがあなただということなんです。


と、答えます。
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ヘーゲルの言葉は「運命とは・・」でした。

寝ようとしたら、思い出してしまいました。まあ同じ意味ですが失礼しました。
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高校時代にポン友が


「人生は成功に近い失敗に終わる。と、作家が言っていたぜ」と言うから。
「その作家、結構解っているやん」などと話した事がありましたが。
後に考えたことは。その作家の念頭にあったのは。
「人生とは客観化された自己である」とのへーゲルの言葉ではなかったのか?
と云う事でした。
すべては縁によりて起こる、縁がなければ何事も起こらない。というのが、縁起の理法、
ですが。西洋の、因果律、との違いは。縁は常に二つ、あるいは、表裏、がある。
一つは、外からの縁、としての、環境、遭遇する、出来事、であり。もう一つは自己の能力
方向性、となります。仏教に於ける、仏(導くもの)とは、の答えも、一つは、外からの縁、出来事、
であり、もう一方は、自己の内側にある、仏を見抜く目、知恵、である。ということであり。
縁が二つとは、起、起こる事も二つに分かれ続ける。
人の人生も、、環境、遭遇する出来事、と、それに対する、自己の判断、適応行動によって
次の自己が起こり、分かれ続ける。
生まれ、老い、病み、死ぬ。という人生そのものを自分で変える事は出来ないが。その枠の中で
自分の人生を自分で選択する、あるいは環境から逃れる、事は有る程度は出来る事です。
いずれにせよ、自分の人生を決める、半分は、自己、であり、自己の責任、となるのではないでしょうか。
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漠然とした質問といっていますが、かなり有名な質問です。



神とか、ラプラスの悪魔は、原理的に完全なる未来予測ができるから、はたして、人間は
自由意思を持っているか、自分で決定したつもりが、実は必然の結果だったのではないか
ということですよね?

純粋に哲学的な話は、b****さんはじめとする、いつも何言っているんだかわからないひとに任せて、
 (どういう結論が出ても、どの道何言っているんだかわかんないだろうけど。)
神や悪魔には結果が分かっていても、それを人間に伝える方法が存在しない(伝える意志がないだけなのかも。)ので
結局は、自分で決めたのと見分ける方法が存在しません。
よって、他者に人生を決めてもらっているわけではないので、自分の人生は自分で決めていると考えています。
この考えは必然というわけではないのでツッコミどころがあるのは承知しているけど。。。

※あくまで、自由意志の問題として考えた場合であり、生まれつきの周囲の環境のようなことは関係ないとしています。
 なお、人生は自分で決めるのではない。親が決める。 という意味で書いているのなら、そのときはブン殴るかも。
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morilinさん、こんにちは。



一生懸命働くか、怠けるかは、自分しだいですよね。
人生の 1/3 は、これで決まると思います。
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>人生は自分で決めることができるのか?


なかなかうまくはいかないものですよね。
それはみんなよくわかっていることです。
わかっていながら、なんとかならないかと考え工夫して悩みながら一生を終えるのでしょう。
それがひとの人生です。
大抵の人は十望んだことがひとつふたつ成就したらそれで満足するんじゃあないで将か。
わが国では庶民の高望みはトン欲とされますし。
>人生は自分で決めることができるのか?
答えはノーですが、人生に満足することは可能でしょう。
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そもそも「自分」というのがこの世界の一部であり、確率的であれ決定的であれ、物理法則に従って動いている以上、自分で何かを決めるというのは不可能のように思います。


思考も行動も世界情勢も何もかも、すべては物理法則に従いなすがままに動く。
そもそも意志など存在しないというのが私の立場です。

ちなみに決定的なのか確率的なのかというのは現時点ではわかっていないようです。
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運命論的に考えると、予め自分の人生なんて決められているのではないだろうか。


つまり、どうあがいたって無駄で、個人の努力なんてものに何か価値があるのだろうか。
といったご質問と解釈しました。(違ってたらごめん)

この解釈が間違ってないとすれば、答えは一つで、どちらとも、つまり、決めることができるともできないとも言える、ということになります。
要は視点の問題にすぎないからです。
自分ひとりだけで生きているわけではないので、「自分で決めた」という判断の範囲をどのように拡大するか、という視点です。

たとえば、何かを成し遂げた人がいたとします。
その人は、自分の意志と努力でそれを無しとげたわけですが、よく考えると、そのような「幸福な環境」に恵まれていたということもできます。
つまり、運が良かった、という解釈もできるわけです。
むろん、運だけという意味ではありません。

もっと別の(決して成し遂げることができない)不幸な環境に置かれていた可能性だってあるということです。
この意味では、
「人生は自分で決めることが」できません。

では、仮にそういった【不幸な環境】に置かれていなければ誰でもが成し遂げることができるでしょうか。
これもできませんよね。
意志と努力が必須でしょう。
この視点に立てば、
「人生は自分で決めることが」できることになります。

諺にもありますが「人事を尽くして天命を待つ」というやつです。
「人事」に着目すれば自分で決めることができることになり、
「天命」に着目すれば自分で決めることはできません。
何かが成し遂げられるためには、両方の要因が必要でしょう。
ただ、人事を尽くさずに天命だけ待っていてもおそらく何かを成し遂げることは難しいでしょう。
この意味で、自分で決めることができる、と解釈するほうが個人的趣味には合っていそうです。
さらに言えば、自分で決められないことを考えてもしかたがない、ということになるでしょうか。
    
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不確定性原理に於て、決定論(先験的因果律)は否定されました。


スーパーストリング理論において、全ての存在は量子性にのみ
基づいており、そうした本質を把握せずに、階層現象表面的に
定性化するところに、有限な存在性が派生しているという事が
明らかとなっています。

量子論的な世界像において、有限な性質(=存在性)は、認識
されることで派生しています。
全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に
つめこむと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、
潜在的認識可能性(=仮定断面)の運動(プランク定数hの収束
の時系列化=宇宙膨張)を想定すれば、相対的に無の風は光
になり、認識体はその光の向うに、自我仮説の補完としての
時空仮説=宇宙を認識するのです。

素粒子レベルにおける経路積分において、「素粒子の相互作用
において、Aの状態からBになる確率は、途中の色々な可能性
のそれぞれの確率を足したもの」=素粒子は複数の経路を経る、
というものもあります。
無数の可能性がオーバーラップした、確率波動の干渉の結果が、
有限な存在性なのです。

それは計算上の話だけではなく、たとえば完全に1個、2個と
数えられる電子を、1個ずつ二本のスリットに向けて発射すると、
向こうのスクリーンに残る痕跡の集積は、二本線ではなく、
干渉縞が描かれる=1個の電子が2つのスリットを同時に通り、
自分で干渉し合うのです。
我々を構成している素粒子さえ複数の経路を同時に経ているのに、
何で我々が先入的な一本道しかたどれない訳があろうか。
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21世紀に哲学をしようとするものは、決定論、人間機械論などの古い考えを克服し、未来は確率過程で決定されるという宇宙の真理(=現代の物理学、散逸構造論)を受け入れなくてはいけません。



ですから、21世紀の哲学的回答は、自分で目標や方向を選択し、選択後には確率過程での実現の確率を大きくするよう努力せねばならないことになります。

人生は選択した物事の中で確率過程で決まります。
漫然とした回答で申し訳ないです。
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