ハマっている「お菓子」を教えて!

障害を理解してほしいといった訴えをよく目にします。
しかし、そもそもどういう見解を示せば『理解した』ことになるのでしょうか?

症状やメカニズム、協力を必要としている、といった状況ならば、説明されれば理解できます。
しかし理解されないという発言は、(自閉症を躾の問題とみなすような偏見は別として)就学や就労などで先方から受け入れられなかったり、協力を得られなかったり、迷惑といった批判に対して、という印象があります。
実際はどうなのでしょう?

受け入れや協力を断る側にだってそれだけの事情があるし、迷惑だという人も負担や苦痛が耐えがたいものだったりする。
それは病状やメカニズムといった障害の特性を理解しても変わらないと思うのですが…。

A 回答 (8件)

多くの場合は『偏見の目で見ないでほしい』という意味での『理解』です。



一方で、何事も金がかかりますし、
学校などでの受け入れについては、断らざるを得ないこともある。

でも、障害を持つ方やその親御さんからすれば、
これも差別と思えてしまうことは悲しいながらあると思います。

障害のあるなしに関わらず、お互いの立場を理解しあうこと、これが大事なのでは思います。


知人の奥さんに障害をもち、車椅子をお使いの方がいます。
彼女はとても『ありがとう上手』です。
本人が求めなくても、自然と力を貸してあげたくなります。


なにかをしてあげて当然、してもらって当然という考え方ではうまくいきません。

「こんなことしかできないけれどごめんね」
「こんなにしてもらってありがとうございます」

お互いの「これぐらいは力になりたい」と「ここまでしてもらった申し訳ない」が重なった部分だけ、
そこに心を暖かくするものがあるのではないかと思います。

理解というのは何かをわかった気になることではなく、
わかろうとすること、自分がわからない部分があることを自覚すること、
ではないでしょうか?

この回答への補足

『偏見の目で見ないでほしい』

これは、例で挙げた自閉症を躾の問題とみなすようなものでしょうか?

しつけが悪い、といった非難はしないが、それでも保護者として問題行動を止めてくれといった要望を出す。
要求されたサポートに応じられないから受け入れを断る。
これはOKなのでしょうか?


てんかんを患っている人がクレーン車を運転中に発作を起こし死者を出す事故がありました。
彼が持病を隠した経緯を考えると、他の人も重大な問題を隠している可能性を疑ってしまいます。
自分自身、そうしたい誘惑に駆られたことを否定しません。
もし私が雇用者だとしたら、あのような事故を起こすわけにはいかないので持病や業務への影響を深く問いただした上で受け入れの可否を決めることになりますが、これは偏見になるでしょうか?

補足日時:2011/05/08 09:32
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この回答へのお礼

>自分がわからない部分があることを自覚すること、
この点を忘れないようにすることが相互理解の上で大事なことだと実感しました。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/21 19:55

>受け入れや協力を断る側にだってそれだけの事情がある



主観だけならあるでしょう。
例えば電話も受けなければならない事務職なら、聾唖者には就労困難です。でも、一人だけしか雇えないならともかく、複数雇用できるなら役割を分担すればいい事です。
しかし一方で、そのような障害を持たない健常者としては、障害者が特別扱いされているように感じたり、相手の分まで働いているような気持ちになったりすることがあります。
このような不公平感や不満を覚える前に、障害や疾患を含めた個人の特性を見て欲しいです。

就労に関して、現在はジョブコーチがついて実際に仕事ができるよう指導する活動も行われています。
発達障害、広汎性発達障害といった脳障害の場合、健常者と違った受け取り方をしてしまう『感覚』『刺激』があります。大声で怒鳴っても届かないのに、小声で囁くと反応することもあります。いきなり大パニックを起こして収拾がつかなくなることも。
突然暴れる人を雇用することは出来ないでしょうが、殆どの場合は原因がわかっています。人によって違いますが、そのトリガーが何かさえわかっていれば、パニックを起こして暴れることを予防できるのです。


一つの価値観に基づいた評価、肩書きやプロフィールだけで「その人」の可能性まで見定めたとは思わないで欲しいのです。社会がその気になって受け皿を用意すれば、働ける人はもっと沢山います。
ただ、今は様々な事情があって、障害や疾患など持っている人のハンデまでは受け入れられません。

車椅子で出勤しなければならなくなった人がいて、でもその会社は入り口が階段の上にしかない……。建物に入ることさえ出来れば彼は働けるのに、歩けるようになったらまたおいで、と言われても仕方のない社会なのです。
(そもそも建物に入れたとして、そんな状況ならトイレ問題でアウトです)

雑踏の人の声が苦手(黒板を爪で引っ掻く音をエンドレスで聴くのと同じ感覚)な自閉症の人がいます。その人はヘッドホンで音楽を流して周囲の音を聞こえなくして漸く社会参加しています。
でもヘッドホンからの音漏れは社会問題にもなってますね。
その人に音楽を聴かないでくれと注意するのは、松葉杖や白い杖を奪うのと同じ行為です。が、殆どの健常者はそれを知りません。
昼間はサングラスをしなければ外出できない人もいますが、職場でサングラスは勿論ヒンシュクを買います。


そのように、障害を持ちながらある程度正常な社会生活を送るためには補助具などが必要な人もいます。それが社会通念または常識に反していることもあるため、健常者には納得しにくいでしょうが……。

実際に「何らかの工夫をすれば」「何某かの制限はあっても」社会参加できる人が沢山います。そのような人たちを社会全体で受け入れるための理解をして欲しい、と思います。

第一、ハンデは必ずしも先天的なものばかりではありません。
『明日は我が身』
人は皆、障害者と呼ばれる状況になる可能性を持っています。
こういった問題に関心があるのであれば、掘り下げて考えてみるのもいいと思います。


>頭から否定するのではなく、できないことを考慮に入れた上で受け入れを拒否する

出来ないことを考慮している時点で、「障害者=能力がない」と思い込んでいるのではないでしょうか。

繰り返しになりますが……
今は足がなくても陸上選手としてトラックを疾走することが出来る時代です。義足でパラリンピックに出場している人は多いですよね。車椅子でスポーツを楽しむことも出来ます。
障害者の持つ可能性を否定しているのは、多く場合健常者の側なのです。

健常者と同じ方法では出来ないかも知れませんが、別の方法なら同じ結果を出せる人が沢山います。
そして今の社会は、その人たちの能力を活かすスキルを殆ど持っていません。
だけれども、健常者の社会にその能力を活かすスキルがないからと言って、障害者と呼ばれる人たちに能力がない訳ではありません。

そのことを何よりも正しく理解して欲しいです。




ところで……
私の長男(中3)は最重度の知的障害を持つ自閉症で、将来、親の贔屓目で見ても在宅確定(就労不能)かと危惧するほどです。
息子は、確かにこの社会からは障害者と呼ばれます。それゆえの手当ても受けています。成人すれば障害年金を受給することになるでしょう。

でも、もしも息子にも働ける場所があって、経済的に自立できれば……年金を受けることはありません。逆に納税も可能になります。
現実には息子の就労はとても厳しいのですけれど。

この回答への補足

すみません、受け入れについて危惧するに至った経緯を簡単にでも説明しておけばよかったですね。

『明日は我が身』と仰いましたが、私も障害を持つ一方で、怪我をした同僚と仕事するにあたり色々と頭を悩ませています。

>役割を分担すればいい事です。
そう簡単にはいきません。
そのための割り振りだけでも仕事の進め方や引継ぎが非常に複雑になったり、その作業をできるようにするための下準備が負担になってきます。
その影響、職場や関連する企業の都合も考えると甚大なものになりかねません。
不公平感や不満といった感情の問題じゃないんです。

怪我をした同僚の名誉のために言うと、その負担に見合うだけの活躍ができています。
しかし、そううまくいかないケースだっていくらでもあり、それを企業の問題だと言われたら堪りません。


>トリガーが何かさえわかっていれば
わかっていても、そのトリガーを除去することができないとしたら?
雑踏の人の声が苦手という事例を挙げられましたが、職場がそういった場所に近いならどうにもなりません。
遮音のための設備投資も甚大な額になります。
それは誰が負担するのですか?

ヘッドホンやサングラスという対策が挙げられましたが、客商売だと事情を知らないお客様の反発も尊重しなくてはなりません。
客商売でなくても外部の人と接する機会はいくらでもあります。企業はそのつど理解を得てはいられません。

>「何らかの工夫をすれば」
とありますが、その工夫がその場にとっては現実的ではなく、容認できない事情もあるんです。

たとえば私の職場(客商売ではないですが)で上記の補助具はまず認められません。
それは警報や機材の異音など、安全のために必要とされる感覚まで遮断してしまう恐れがあるからです。
決して、障害者を締め出すために社内の規定があるわけではないんです。


>「障害者=能力がない」
総合的に能力がないというつもりはありません。
しかし、
>「何某かの制限はあっても」社会参加できる人が沢山います
と仰いましたが、その制限が仕事において致命的な問題に繋がるものが多々あります。

障害や疾患を含めた個人の特性を見て、私が挙げたような受け入れ側の事情を照らし合わせた結果、断るということです。


>社会全体で受け入れるための理解をして欲しい、
とありますが、社会全体での受け入れと、個人や企業や学校といった限定された範囲での受け入れは別個に考えて欲しいです。


>ジョブコーチがついて実際に仕事ができるよう指導
私が挙げた問題をクリアできるのでしょうか?


>その人たちの能力を活かすスキルを殆ど持っていません。
そのスキル習得自体がとてつもない負担だったりします。

それに、その能力を先方が必要としていなかったら?
サヴァンといった人たちがいてその能力が色々語られますが、私がこれまでに経験した仕事にソレが役立つかといわれると、微妙です。
ウチでソレを活かす機会はない、という事情は尊重してもらえるのでしょうか?

補足日時:2011/05/15 09:32
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質問の意味が、今ひとつ私、受け取れてなかったですね。



症状や障害の内容を理解している ⇒ それなりの勉強・体験で理解できます。
「障害者は人一倍苦労している」 ⇒ そこは、書いたように「なって見ない限り、
                  想像しきれるものではない」


>受け入れられなかったり、協力を得られなかったり、迷惑といった批判に対して、という印象

語彙の問題が、ひとつありますよね。
それは、私たちが思うように行かないすべての場面で、
「わかってくれてない」―――彼が、親が、クラスメートが …

障害者だけでなく「わかってもらえない」という言葉を使う人みんなが、
自分の不満、またはモヤモヤ、スッキリしない気分を
伝える努力や技術の問題なんだと思います。
決して「障害者を」に限らず、健常者でも病人でも恋人でも、誰でも。


私は、良くも悪くも健常者です。医療の仕事をしています。
障害は、見えるものも、見えないものもあり、その重さはどちらも同じです。
仕事をしていてつくづく思うのは、単なるトシのせいで歩けないのであっても、

  痛くて歩けないという辛さは、決して私にはわかりきらないんだ、ということ。


私は歩くのが早く、両親と出かけた時に、急いでいたので早足で歩いて、
父が怒り出したことがありました。
なぜ怒るのか、何を怒っているのか、わからないのです。
「速すぎる」って…?
私は、人が歩く速度に、苦しみが加わるなんて、考えてもみませんでした。
老人がゆっくり歩いていても、「のんびり、ゆったり」したいからしてる、くらいにしか。
考えればわかったはずです。
でも、考える拠り所をもってないんですよね、「足が痛い」とか「素早く動けない」
ということが、実感でわかってないんです。
だから、「どのくらいタイヘンか」わからない。
「ついていけないことが、どれほどナサケナイか」に至っては、思いつくべくもない。
父との一件がなかったら、
私は多分、医療者として毎日患者と接し、治療を行なっていても、
本質的にわからないまま、日々患者と接していたでしょう。


障害者でない者が「障害を理解する」ということの本質は、

「私は絶対に障害者の苦労、障害者の心を、自分のことのようにはわからないんだ」ということを、
完全に自覚し続けていられることだと思います。


長くなってしまいますが、ごめんなさい。
私は、「障害」を悪いイメージだから、と「障がい」に書き換えるような、
薄っぺらな正義感が大嫌いです。人間性だなんて、思いません。
字は単なる字に過ぎず、そんなことで障害者の苦しみが救われるとも思えません。
(私の思い違いなら、お詫びします)

たとえば車椅子でのバスの乗り降りは時間がかかりますが、
首都圏のサラリーマンばかりのようなバスで、じっと皆が待ちます。
降りる時に「お待たせしました」という方も、黙ってそのまま行ってしまう方も
どちらも同じような障害を持っていた場合、
「待たせてごめんなさい」という、健常者でも言うべき言葉をいう人は、
おそらく、「理解してもらえない場」が少ないと思います。
もちろんこれは、一般論で、あなたのことではありません。

私は、私自身を「育ちそこない」だと自覚しているので、
自分も無形の障害者だと思って疑っていません。
私がお礼や挨拶はもとより、普通に会話もできない病的な性格の大人になったとき、
それによって冷たい仕打ちを受けたら、「だって、親のせいだもの」!
だから他人の気分を壊しても私のせいじゃない、私は壊れているの!
って…理解してくれる方がおかしいと思う。


長くなってしまったので、もう終わりにしますね。
前の私の回答が、的外れ または 気分を害されるようならごめんなさい。
言葉が足りなくて、理解も足りなかったと反省しています。

この回答への補足

私が持つ障害に関する掲示板を覗くと、同じ障害を持つものの間ですら様々な局面で見解の違いがありました。
まして、健常者との間でどれほどのギャップがあるかは想像し切れないものがあります。


だから、立場が同じようでも理解しきれないところはある、という点は忘れないようにしなくてはなりませんね。


障害に関する要素を個別に考えても、それがどんな苦しみに繋がるかはそう簡単にわかるものではないという点もあるわけですね。
ただ、その溝を埋めるための補足をしようとせずいきなり怒り出すのはどうかと思いますが。
上記の掲示板でも、いきなり怒り出している節が伺える人が多々いました。


>「障害」を悪いイメージだから、と「障がい」に書き換える
害だけではなく障という字だっていいイメージの字ではないですよね…。
言葉をただ弄り回すだけってのは、差別したり排除しようとする人についての理解が足りないような。

補足日時:2011/05/15 07:51
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この回答へのお礼

苦しみそのものを知って欲しいという点は気づきませんでした。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/15 07:53

権利の過剰な主張だと思います。



誰にでもある権利を、ことさらに主張するのでしょう。
弱者は保護されて当然である、ということと、
弱者の主張は認められて当然である、とは別ですよね。

ちょっとした視力障害で、生活保護受けて遊んでる人がいます。
だって、自分は障害者だから!ってよく言ってます。
完全な全盲で、マッサージ師の資格もって、大学で教えてる人もいます。
自分は見えないから不便だとか、一度も聞いたことありません。
喋る腕時計して、いつも奥さんが介助について、でも自分で働いてます。


節電の当初、駅前の不可欠でないエレベーターが止められました。
でも、2週間すると、電力事情変わらないのに、動いてました。
きっと、苦情が来たのだろうと思いました。

バリアフリーとは、障害のある人も健常者と同等に、という努力です。
しかしそれは、健常者が支える社会経済が、
ある程度安定した上で初めて成り立つオプションですよね。
健常者が支えるのが困難になっている電力不足の経済危機の中では、
「あった方が便利」なだけのエレベーターは、止めざるを得ない。

でも、「身障者が困ることをなぜ考えない?」という不満を見たとき、
わかってないな、と思いました。
何でも権利を主張する特権がある、ということではないですよね。
電気が復旧して、経済生活にバリアフリーを提供する余裕ができて、
「がまんしてもらってた人たちの利便を考える」余裕ができるので、

それは「理解していない」のじゃなく、「やむを得ない」のだと思うし、
それを「理解していない、排除している」というのは間違いだと思います。

ただ、障害はなってみないと、健常者には想像しきれない、というのも事実です。

この回答への補足

サポートを提供できない事情を理解できない、または健常者の能力に過剰な期待をしていたため、要求が叶わないことを
「理解していない、排除している」
と解釈してしまうのでしょうか?

だとしたら、サポートする側も理解してもらう努力をしていかないとなりませんね。

補足日時:2011/05/08 08:57
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この回答へのお礼

色々と参考になる事例を紹介していただきありがとうございました。

お礼日時:2011/05/08 09:58

健常者の問題点:


知人以外の障害者を見下す。
例:私が就職活動をしていた時、(私は、右足が少し短く、見る人が見たら、不自然な歩行だと思いますが)
とある会社に面接に行ったのですが、後日、その会社の社員が「何であんなのが(差別用語)来るんだ」って
言っていたとか。
電車などに乗った時、優先席に座っていても、障害者に譲らない。

障害者の問題点:
子供が障害で、一般の小学校に入学させようと、実力者を巻き込んで、入学させようとする。
専門的な知識のある、教育機関でなぜ、いけないのか?
親のエゴだと思う。

最近では、バリアフリーなど、公共施設では、障害者を受け入れる体制が整ってきています。
あとは、健常者個人の問題。障害者個人の問題である
と思います。
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おっしゃることは非常によくわかります。



障害者といってもいろんな障害があり、何ができて何ができない
のかも個人によって異なります。また、障害のシステムを理解して
何が理由であるのか、どういうことをしてはいけないのかを
理解することも重要です。
しかし、これを学ぶこと自体が受け入れ側とって負担であることも
事実ですし、学んだところで対応するのも負担であることも事実です。

障害者は「基本的人権」という大義名分によって生きる糧を与えられている
ような「生ける屍」や「健常者のお荷物」ではないのです。
働ける部分は社会に参画して、障害の無い部分以外は健常者と同じ生活が
できるようになるのが理想的な社会です。
しかし、今の社会システムでは大企業以外にそんな余裕はありません。
ですから、障害者に対応して雇用している会社には国がなにがしかの
利益を与えるようにしなければなりません。

今の障害者の雇用状況を見ていると大企業に就職し、少ない労働で
一般人と同じ以上の給与を得ている人と、過酷な労働環境で安価な機械と
同じ扱いを受けている人の2つに分かれるように思います。
私は過酷な労働で身体が変形したり、指が切断されたりした障害者の方を
何人も見ました。逆に、少ない労働で多くの収入を得ている障害者も見ました。

厚生省の指針による生食ようの牛肉の出荷が0であるのと同様で、
国の指針がまったく実際の生活を捉えていないのです。

この回答への補足

今の障害者の雇用状況

これは手帳あり、福祉の対象になる人のみでしょうか?
軽度の持病や障害など、手帳はないレベルの人も含めての話でしょうか?


実を言うと質問者である私も軽度ながら障害者であり、手帳はないものの就労には若干不自由しております。
その中途半端さゆえに説明がややこしくなるので学ぶ側の負担もよくわかります。

私の場合、こちらの事情を理解してもらった上で事故のリスクが否定できないという先方の見解を尊重し、退職することになりました。
ところが、手帳があるなら正社員として採用したいとも言われていたので、

>障害者に対応して雇用している会社には国がなにがしかの
利益を与えるようにしなければなりません。

ここは釈然としないところがあります。
私の人材としての価値は手帳の有無とは関係ないのに、国からの利益といった点で評価が変わってしまうのですから。

本当に自分はその職場で必要とされている、そういう自負を持てる環境も整えていってほしいですね。

補足日時:2011/05/08 09:16
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障碍そのものを理解して欲しいのでは無く、障碍者の社会参画に理解を示して欲しいという事です



障碍があるからと、普通校への通学を拒んだり、採用を見送ったり

確かにできないこともあるけど、障碍の状況では、できる事も多いんです
それを「障碍者だから」と、頭から可能性を否定するのを辞めて欲しいんです

この回答への補足

頭から否定するのではなく、できないことを考慮に入れた上で受け入れを拒否するのはOKなのでしょうか?

フィクション、ノンフィクションを問わず、障害者を扱った作品では障害を理由に受け入れを拒む人が悪役として登場する傾向を感じます。
私には、頭から否定してるのではなく、拒むのも仕方のない事情があると感じるのですが。

これまで障害者サイドからああいった作品を批判する意見を公の場で目にしたことがないので、頭から否定していることと考慮に入れた上での拒否は区別されてるのかといった疑問を抱きました。

他にも色々疑問があって、どのような見解を求めているのかと質問した次第です。

補足日時:2011/05/08 09:55
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想像力を働かすことのできるのは人間だけと言われています。


しかし、その人間が、
雪道を走るのが初めてで事故ってしまったという類の話はよく聞きます。
若い人が、老人の緩慢な動作を笑っている場合も見かけます。

有限な地球空間で人間が共生するためには、想像力を働かせて
ベターな道を模索していくしかないと思います。

そのために全ての人間が参加した想像力を働かせた議論が必要になります。

「障害に対する理解」はその時、必要です。
私は正常だから関係無いでは済まされません。
あなたも、地球という家の住人の一人なのですから。
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