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徳川秀忠の征夷大将軍就任の日付についてお尋ねします。

ネット上では情報が複数得られます。

(1)慶長10年4月16日(1605年6月2日) 秀忠 征夷大将軍に就任

(2)慶長10年5月1日(1605年6月17日) 秀忠 征夷大将軍に就任

件数の上では(1)が多いのですが、ウィキペディアでは(2)の説を取っています。しかも、慶長10年4月16日には、

「源秀忠として正二位に昇叙し、内大臣に転任。右近衛大将兼任如元。」と説明した上で、

「5月1日、征夷大将軍宣下」と記述しています。

質問です。

質問1. 徳川秀忠が征夷大将軍に就任したのは、上記の(1)、(2)のどちらでしょうか。

日本史は素人です。よろしくお願いします。関連情報・説明がありましたらお願いします。

A 回答 (3件)

(1)正(2)誤



根拠は以下のとおりです。

◆『国史大系[第10冊]第10巻 公卿補任中編/経済雑誌社編/経済雑誌社/明治32.7』
「後陽成院・治二十五年(天正十五年―慶長十六年)」(707頁下段)<357/529>
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991100/357
「慶長十年乙巳
内大臣 正二位 源秀忠 二十七
四月十六日任。同日征夷大將軍。爲淳和奬學院等別當。
牛車隋身兵仗及大將如元等宣下。叙正二位。(越階)」

◆『徳川実紀[第1冊]第1編/経済雑誌社校/経済雑誌社/明37.2』
「台徳院殿御実紀/巻一(慶長十年四月―六月)慶長十年四月」
(372頁上段13行目~)<192/522>
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772965/192
「<秀忠任征夷大將軍内大臣叙正二位>
慶長十年四月十六日。この日天氣快晴。二條の城に勅使廣橋權大納言兼勝卿。
勸修寺權中納言光豊卿。宣明使西洞院少納言時直參向あり。
參仕辨は小河坊城右中辨俊昌。告使は康總幷押小路大外記師生。壬生官務孝亮宣旨を持參し。
公征夷大將軍に補せられ。正二位内大臣にのぼせられ。淳和奬學兩院別當氏の長者として。
牛車をゆり隋身兵仗をたまはらせ給ふ。御齢二十七にぞならせ給ふ。
この日御父君も伏見より二條の城にわたり給ふ。
<家康稱大御所>
けふより御父君をば。大御所と稱し奉る。…」
(375頁下段2行目~)<193/522>
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772965/193
「五月朔日將軍宣下の賀儀として。諸大名二條城へ…」

あと、上記「公卿補任」などを典拠として編纂されたものの中には、
東京都公文書館>刊行物>東京市史稿
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives …

◇『東京市史稿/市街篇第2』
(頁数1017/収録年月日1457(康正3)年4月8日~1605(慶長10)年頃/大正3年11月28日発行)
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives …
「家康将軍辞退/市街02巻-1014頁/1605(慶長10)年4月16日/皇城1巻P348参照」

◇『東京市史稿/市街篇第3』
(頁数1165/収録年月日1605(慶長10)年4月16日~1618(元和4)年/昭和3年2月20日発行)
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives …
「秀忠将軍襲職/市街03巻-0001頁/1605(慶長10)年4月16日/皇城1巻P349参照」

◇『東京市史稿/皇城篇第1』
(頁数1354/収録年月日768(神護景雲2)年3月朔日~1651(慶安4)年4月20日/明治44年12月18日発行)
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives …
「家康ノ退隠・徳川秀忠新ニ江戸城ニ主タリ/皇城1巻-0349頁/1605(慶長10)年4月16日/
<出典>公卿補任,慶長日件録,慶長日記,孝亮宿称日-記,創業記考異,図版(徳川家康肖像,徳川家康手蹟)」

などがあり、上記は何れも目次題目等に過ぎませんが、本文には下記のような記述があります。

◇『東京市史稿 市街篇第二』
(1014頁)家康將軍辭退
十六日庚申。○慶長十年(紀元二二六五年)四月。○庚申、三正綜覽。
家康○徳川。征夷大將軍ヲ罷ム。○皇城篇參照。
(1015頁)家康將軍辭退事蹟
家康將軍辭退 徳川家康慶長八年○紀元二二六三年。
二月一二日ヲ以テ征夷大將軍ニ拜シ、
十年○慶長○紀元二二六五年。四月十六日之ヲ辭ス。在職三年。事具記シテ皇城篇ニアリ。

◇『東京市史稿 市街篇第三』
(1頁)秀忠將軍襲職
慶長十年乙巳○紀元二二六五年。四月十六日庚申○庚申、三世綜覽。
徳川秀忠・家康○徳川。ニ代テ征夷大將軍ニ拜ス。○皇城篇參照。
(1頁)秀忠將軍襲職事蹟
秀忠將軍襲職 慶長十年四月七日徳川家康奏シテ將軍職ヲ辭シ、
子秀忠ヲ以テ之ニ代ヘムコトヲ請フヤ、十六日朝廷家康ノ辭職ヲ許シ、
秀忠ヲ以テ征夷大將軍ニ補ス。是ヨリ秀忠江戸ニ主人タリ。
事皇城篇具錄スル所ノ如シ。

◇『東京市史稿 皇城篇第一』
(349頁)家康ノ退隠
…十年乙巳○慶長○紀元二二六五年。四月十六日庚申○三世綜覽。
家康○徳川。征夷大將軍ヲ辭シ、…
(349頁)徳川秀忠新ニ江戸城ニ主タリ
…世子秀忠○徳川。之ニ代ル。○公卿補任。慶長日件錄。
家康○徳川。江戸城ニ主タル者玆ニ十六年也。
◆『東京市史稿 皇城篇 第一/東京市役所/明治44.12』(349頁)<214/743>
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764117/214

以上
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

「江戸時代年表」によりますと、

*慶長10年4月16日(1605年6月2日) 秀忠 征夷大将軍に就任

が正しいようです。

Wikiは、必ずしも「専門家」が書いているわけではありません。

私は、あくまでも「参考」程度に考えています。

自分で納得のいく史料が見つかるまで、調べることは大切なことです。

参考URL:

http://homepage2.nifty.com/gojireomogu/rekishi/e …
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 図書館に行き、吉川弘文館から刊行されている史料の「徳川実紀」及び「公卿補任」を調べてみて下さい。

全て記載されています。ネットでは根拠の薄い情報も多いので、出所・典拠が明確に記されていない情報以外は信頼性に疑問が残ることもあります。
 歴史を知るには「原典に戻る」これが大原則です。
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