アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

天下を統一した豊臣秀吉が将軍になって幕府を開かなかったのは何故でしょうか?
よく言われる理由として、将軍は源氏しかなれないからで、秀吉は源氏どころか百姓足軽の出なのでなれなかったというのがあります。
しかしそんな理由で将軍になれないなら、関白にはなおさらなれないはずです。
関白になれる家柄は明確に決まっています。
一方将軍が源氏のみという根拠はあるのでしょうか?
鎌倉幕府の源氏将軍は三代で絶えて、その後は皇族や藤原氏を将軍に据えています。
信長は平氏と自称しているにもかかわらず、関白・太政大臣と並んで将軍への就任を打診されています。
信長が将軍就任を朝廷の方から持ちかけられているのに、信長の後継者として天下統一した秀吉がダメなのでしょうか?
天下人になった以上家系なんてどうとでもなるんじゃないでしょうか?
もう一つ、将軍より格上の関白になれるのにわざわざ将軍の座を欲しがる理由もない、という意見もあります。
しかこれもどうでしょうか?
確かに律令制の上では征夷大将軍というのはそこまで高位の職ではなく、帝の代理人である関白とは比較になりません。
しかも鎌倉幕府でも室町幕府でも将軍が実権を握っていた時期などわずかであり、ほとんどの時代でお飾りの存在だったのは事実です。
したがって将軍という地位にそれほどの魅力は無かったというのも一理あると思います。
しかしながらそうは言っても、名目的ではあっても何百年かにわたって武家の棟梁を意味する地位として認識されてきたのも事実です。
官位の上下とは違う次元で武家においては特別の意味を持つ地位ではあったのではないでしょうか?
また先にあげた通り、信長は関白・太政大臣・将軍のどれかへの就任を打診されています。
ここでこうやって並べられているという事は、将軍が関白や太政大臣と並ぶ地位という認識があったという事ではないでしょうか?
将軍がさほどの職ではないなら、ではなぜ家康は将軍を選んだのかということにもなりますし。
また仮に将軍が関白より格下の地位だとしても、だからといって将軍を全く顧みない理由にもならないと思います。
まず将軍として幕府を開いて二、三年やってから、将軍の地位は秀次なりに譲って秀吉自身は関白になるというような事も考えられそうです。
まあそう論じても結局秀吉はそう考えなかったし、そういう選択をしなかったという事が結論かもしれませんがw
秀吉が将軍を選んでいたら、豊臣政権が長続きしたわけでもないでしょうしw

A 回答 (5件)

朝廷の官位ってやつはかなりややっこしいところがありまして、それをまともに書けば本が一冊まるまる書けてしまいます。

私もそれについてはあまり詳しくはないのですが、秀吉が関白についたというのは色々な事情が絡んでいるのは事実です。

実質的に天下人になった秀吉はその実力と資金力においては他の追随をまったく許しませんでしたが、唯一足りないのが(血統的な意味も含めての)権威でした。
で、当然しかるべき官位を求める猟官運動をしていたのですが、内大臣の地位までを得ることができました。んで、その一つ上の官位である右大臣はどうかといわれたのですが、これを断ります。理由はちょっと私もよく分かりません。信長が右大臣でしたから縁起が悪いと嫌ったとか色々いわれているようです。
しかしその秀吉の強引なまでの猟官運動が公家の間での内紛を招くことになります。

内大臣より上の官位は、上から太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣と続きますが、太政大臣は非常任官位なんだそうですので、通常は左大臣が最高官位となります。既に秀吉は内大臣であり右大臣を断ったのであとは左大臣にしかなりません。
元々左大臣は二条昭実が就いていて、関白も兼ねていました。しかし、秀吉を内大臣にしたので玉突き人事で二条昭実は関白に専任となり、左大臣は近衛信伊が就きました。ところが秀吉が左大臣となると近衛信伊の官位がなくなります。あとは関白に就くか一時的であれ降格人事となるしかないのですが、降格人事は「前例がない」と近衛信伊は強烈に抵抗し、二条昭実に関白を譲るように迫ります。しかし二条昭実も関白になったばかりなのでこれまた「そんなに早く辞めるのは前例がない」と強烈に抵抗します。そして二条昭実と近衛信伊の間で官位を巡っての争いごととなります。

生き馬の目を抜く戦国時代のサバイバル戦争を勝ち上がった秀吉はもちろん老獪な政治家でもありました。秀吉はこの二条家と近衛家の争いをまんまと利用しようとします。
官位を巡って揺れる公家衆に対し秀吉は、「だったら俺が関白になれば万事解決」とゴリ押しをします。はっきりいってメチャクチャな論理なのですが、当時から見ても800年も前の前例を引っ張り出してきたりして拡大解釈に拡大解釈を重ねてまんまと関白に就いてしまいます。

ですので元から関白にターゲットを絞ってそれを狙い撃ちしたというより、他人の争いごとにつけ込んでタナボタ式に手に入れたというのが真相に近いんじゃないかと思います。そもそも武家なのに関白ってのがおかしいといえばおかしいですからね。
そして本来であれば秀吉一代でしか就けなかった関白を豊臣家に代々継がせるために強引に秀次を関白に就けさせ、そしてそれが結局は豊臣家滅亡の一因ともなったのですから皮肉というしかありません。

家康の征夷大将軍についてはやはりその原動力となったのは謎の怪僧天海の影響が大きいみたいですが(三河武士は宮中のまつりごとに疎い人たちばかりなので)、しかし家康らしくオーソドックスな考え方に基づいているのではないかと思います。
すなわち、江戸(関東)に幕府を開くのであれば征夷大将軍が最も自然であるということです。その他の官位であれば、その政治的中心地は京都もしくはその周辺でなければなりません。政治的首都を関東の地にするのであれば征夷大将軍が最もふさわしいということになろうかと思います。

地位(官位)というものは、今も昔もしち面倒くさい様々なしきたりによって権威づけ(裏付け)がされているケースが多いです。例えば現代でもA銀行とB銀行が合併したAB銀行では頭取を旧A銀行から出したら次はB銀行から出すというようなたすき掛け人事が慣例になっているなんてのが珍しくありません。それで、旧A銀行系で不祥事が発生したので旧B銀行出身の頭取を二代連続で出そうとすると熾烈な権力争いが起きたりします。そういうもんなんですね。
    • good
    • 0

「回答1」の方の書かれている「三職推任」は、織田信長の話ではないでしょうか?


本題の「将軍にならなかった理由」ですが、「なろうと思ったが、足利義昭将軍が在位&存命中であったため、成れなかった」のだと思います。
    • good
    • 0

おまけ



幕府
という用語自体が江戸時代に作られた用語
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E5%BA%9C

まず将軍として幕府を開いて二、三年やってから、将軍の地位は秀次なりに譲って秀吉自身は関白になるというような事も考えられそうです。

豊臣政権の官位政策を考えると
秀吉が関白になり
秀吉が関白を辞職した時点で、秀次を関白、家康を征夷大将軍、毛利輝元を征西将軍とか「官位」の上でのモグラたたきをしておけばよかったかも知れない。
つまり朝廷のトップとして秀次が家康に征夷大将軍に、征西将軍と同レベルの存在として任官し、その秀次を関白に任官したのが、官位体制の局外に立つ、秀吉という構造。
実際には秀吉は、家康を内府とか他の大名を侍従とか朝廷のシステムの中で位置づけを行ったが、「征夷大将軍」という「空室」を作っちゃったのが失敗なのかも知れない。

まぁ これも後知恵で、家康が実力でトップになれば、なんらかの役職を考え出すんだろうけど。
    • good
    • 0

堀新『天下統一から鎖国へ』(吉川弘文館、2010年)が、ご疑問の点そのものを記述しています。



>よく言われる理由として、将軍は源氏しかなれないからで、秀吉は源氏どころか百姓足軽の出なのでなれなかったというのがあります。
>しかしそんな理由で将軍になれないなら、関白にはなおさらなれないはずです。

この点など、まったく同じ趣旨のことが書かれています。
秀吉が将軍になれなかった逸話は林羅山の捏造であり、実際は将軍打診を断っていた事実があるようです。
上記の書は、秀吉の関白就任は近衛家・二条家の関白職をめぐる争いが原因の「たなぼた」的任官としています。
秀吉が将軍にならなかった理由は、武力によって天下人の地位を築いていた秀吉にとって、将軍になるメリットがなかったからではないでしょうか。あえて征夷大将軍の名称にこだわった場合でも、当時(関白就任前)の秀吉の関心は西国にありましたから、征夷大将軍の本来的な意味にも価値がなかったでしょうし。

信長がそうであったように、いかなる官職であっても実質的な天下人にとっては所詮肩書きに過ぎないと思います。
関白にしろ将軍にしろ官職に意味があるのではなく、天下人の実力があってはじめて官職が意味を持ったとするのが妥当だと感じています。
徳川幕府が持ったのも将軍を選んだからではなく、カリスマに依拠しない組織作りが成功したからなのでしょう。
官職が天下人の地位を与えてくれるという形式論からの脱却が今後望まれるところですね。
    • good
    • 1

秀吉


1582年 武田滅亡
1582年 三職推任
1584年 小牧長久手の戦い
1585年 関白
1590年 小田原征伐
1591年 関白辞職 秀次聚楽第へ
1592年 文禄の役

頼朝
1189年 奥羽征伐
1189年 右近衛将軍
1192年 征夷大将軍

尊氏
1333年 鎮守府将軍
1335年 中先代の乱
1335年 征東将軍
1338年 征夷大将軍

任命する朝廷側の論理と、任命される武家側の論理を分けて考えると、(自分は)納得しやすい。
公家というのは、先祖代々日記を書いており、その日記は朝廷運営のマニュアルになっているそうだ。数百年に三回ほどしか行われていない行事、それぞれ100年以上離れていても、正確に朝廷は儀式をやっているらしい。
※ 天皇と中世の武家とかいう本に書いてあった。

三職推任に当たっては、頼朝・尊氏の先例、東国勢力を討伐した実績を背景に、征夷大将軍(尊氏の場合、その近似として征東将軍)が候補になり、秀吉は小牧長久手で東国勢力を倒せなかったので、征夷大将軍にその段階ではなれなかった。そうこうしているうちに関白になったので、将軍にはなる必要がなくなった。
また、関白職は基本的に「京都常駐」(公家の理解)なので、文禄の役が始まる前に、京都常駐職を秀次に渡している。

家康が関白にならなかったのは、一つには京都常駐を選択しなかった事と、豊臣政権が意外と近畿圏内には存在し、その権力を奪取するまでは、公家勢力を包含した豊臣政権があるために、公家の官位体制の中での位である、関白になるのを忌避したのではないかと思う。
家康も三職推任の件は知っていて、「どれか一つなら、OK」くらいに考え、征夷大将軍をチョイスしたのではないかと思う。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!