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産業革命以降、テクノロジーは大量消費社会と二人三脚で発展してきたように思います。テクノロジーの発展とともに、個々の人間の技能は不必要とされ、もういくつも失われてきました。例えば農業においてすら、作業の手間を省くために「種とり」は行われなくなっています。農家にとって作物は植物という連環的存在ではなく、種から出荷までの切り取られた工業製品的存在なのです。

まず、なぜテクノロジーはこうした大量消費社会を必要とし、また必要とされるのでしょう?
そして、この先の未来、テクノロジーとともに発展していく社会は、機械の星の疑似空間社会(例えばマトリックス)以外に、描ける物があるのでしょうか?

A 回答 (21件中1~10件)

水掛け論がしたいのだったらそういうつもりはないのでやめたいと


思います。

>要するに「今、現実にあって便利ならそれでイイじゃん。
>問題があってもそれはごく一部のことでしょ」と回避して
>しまう。その一方で「福祉ロボット」なるおよそ愚にも付
>かない代物を作り出すことは許せない、これではまるで幼児
>が「あれが欲しい、買ってくれ」と手足をばたつかせて泣き
>わめいている光景と変わらないと思われます

こんな風に挑発的な文章とか

>私の受けた印象はheartmind様が歴史の過程を安易な
>積み木細工の様に理解されているとの印象でした。
>都合の良い部分だけを取り出してそれを未来への
>座標軸にすえることは残念ながら不可能と言わざる
>を得ません。前提が異なる問題に同一の原則を適用
>することに意味がありますか?

こういう印象はどこからくるのですか。

もし議論の余地があるとすれば、
>「便利さの裏にある犠牲となったモノ」に目を向ける。

こういう切り口で近代を批判する意見はメディアの中にも
たくさんいらっしゃいます。そこにはどういう本意がある
のか検証する必要があるといっているのです。
現実に「原発問題」で犠牲となった犠牲者や破壊された自然環境
を、「技術の暴走」という「SF映画の主題」にもなりそうな、
常套句のような言葉で片付けようとしていることに何の疑いも
持たないというのはちょっとわたしには理解できません。

周りの住人がどこまで危険性と安全性について理解していた
のかとか、自然災害の危険性についてどれだけかんがえられていた
か、作業員の安全性は確保されていたのかと様々なことを検証し
なければならないはずなのに。

歴史についてもきっと比較にならないほどたくさん勉強されて、
いらっしゃるとお見受けしましたが、現代の問題として「硬直化」
と聞いてピンとこないのでしたら、歴史物語の世界から戻ってきて
今の現実を見てくださいませんでしょうか。
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この回答へのお礼

すみません。
heartmindさんのお話を楽しく聞いていたのにこんなことになってしまって。
なかなか難しいものですね。
また宜しくお願いします

お礼日時:2011/08/14 21:11

 どうやらバトルの様相を呈し、質問者様をはじめ他の回答者様の方々に迷惑をお掛けしてしまいましたので、私からはこれを最後とさせていただきます。


 結論から申し上げさせていただくならば、heartmind様はご自身の言葉に酔いしれているとしか私の目には映りません。

 >>「自分にとって都合の良くない部分には目を閉ざす」
>>「両刃の剣としての性質を持つテクノロジー」

>わたしもこれとほぼ同じこと言ってるって気づいてくれないんでしょうか。
もし自分なりにつけくわえるとすれば、つまり、「福祉ロボット」も「原発」も「自律だけを目指す芸術」も表面的な伝統を踏襲するだけの工芸品」も「自己完結的過ぎる映像作品」も全て「硬直化」という同じ問題を抱えているといいたいのです。

と私の言説を引用していますがその際に「硬直化」との言葉が突然出てきます。私なりにこの「硬直化」の意味を考えてみましたが、その内容が今一つよく判りません。「自己完結性」とのことでしょうか。でしたらそれは誤解としか申し上げようがありません。その後に続く「あれが欲しい」という外側のマーケットの要望にこたえられなければその技術はではなんの為のものなのでしょうかとの関連でいえば、全てをマーケットが支配する形が果たして正常なモノであるのかとの根源的な問題に立ち返る形とならざるを得ないでしょう。「必要だから作り出された」のがテクノロジーの側面であることは既にお話もしました。そしてその裏面にあるもう一つの側面に光にも注目すべきとの点でも異なる問題点はない、ともお話ししました。それすらも「理解してもらえない」とはどの様な点に関してでしょう。少なくとも「テクノロジー」の抱える問題点として「便利さの裏にある犠牲となったモノ」に目を向ける、この事は繰り返し話をさせていただいたはずです。

>「近代の良いところを抽出しそれを生かせれば………」の真意をその言葉を発した本人に確認もせずに、なぜ勝手に、中国高速鉄道につなげるのかが私には理解できかねますが、
この点に関しても同様です。ご自身の言葉がご自身の意図と異なって理解されたことに大層心外のご様子ですがそれはhertmind様ご自身が私に浴びせかけている言葉と全く変わりありません。私の受けた印象はheartmind様が歴史の過程を安易な積み木細工の様に理解されているとの印象でした。都合の良い部分だけを取り出してそれを未来への座標軸にすえることは残念ながら不可能と言わざるを得ません。前提が異なる問題に同一の原則を適用することに意味がありますか?。こうした点(傍から見て、都合の良い部分だけを抜き出して組み合わせているスタイル)を「中国高速鉄道の問題」と類似すると指摘させていただきました。

>私はあくまでリアルな現代の問題として歴史をかんがえたいのです。
これは表だって表明する性質の問題でも何でもありません。歴史学ではとっくの昔から提起されている歴史学の平均的なスタンスであり、その典型はB.クローチェの「歴史は全て現代史である」との言葉に象徴されています。とはいえその言葉の本意も「現代を批判的に未来へと継承する」との意味であり、決してリアルタイムを手放しで礼賛するとの意味ではないことも確かです。
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この回答へのお礼

バトルは嫌いじゃありません。
むしろ棋士志望としての生育環境から、慣れ親しんだ、懐かしい立ち位置です。
ただ、言葉のやりとりは難しいですね。長い文章になればなるほど、枝葉が絡んでお互いに身動きが取れなくなるようにも思えます。
囲碁は黒と白、それも一手一手の積み重ねなので、流れはとてもシンプルです。それでも顕れる戦場模様は千変万化。

「これを最後に」
なんて言わないで、寛容の精神で、じっくりと対話をしていただきたいと思います。

うーん…
TANUHACHIさんが熱くなっている理由が、実はいまいち解りません。heartmindさんとは、元々の立ち位置が違うのですから、もっと寛容な議論の進め方もあるだろうと思うのです。
さしでがましいですが。

お礼日時:2011/08/08 03:59

>「自分にとって都合の良くない部分には目を閉ざす」


>「両刃の剣としての性質を持つテクノロジー」

わたしもこれとほぼ同じこと言ってるって気づいてくれないんでしょうか。

もし自分なりにつけくわえるとすれば、
つまり、「福祉ロボット」も「原発」も「自律だけを目指す芸術」も
「表面的な伝統を踏襲するだけの工芸品」も「自己完結的過ぎる映像作品」
も全て

「硬直化」という同じ問題を抱えているといいたいのです。

「あれが欲しい」という外側のマーケットの要望にこたえられなければ
その技術はではなんの為のものなのでしょうか。

社会のシステムとして考えられなくなっているといいたいのです。
「原発」という内部にとざされた大きな立派な箱ではなく、あの惨状を見て
分かるように必然と「外部」とつながっているシステムでなければならない
といいたいのです。

「近代の良いところを抽出しそれを生かせれば………」の真意を
その言葉を発した本人に確認もせずに、なぜ勝手に、中国高速鉄道に
つなげるのかが私には理解できかねますが、

「中国高速鉄道」の問題はエムアンドエーで全てが解決できると安易に
考える現代の日本の企業にも通じるところがあります。
もはやこうなると、技術といういう言葉から遠ざかってしまいます。

私はあくまでリアルな現代の問題として歴史をかんがえたいのです。

現代ではメディアの情報も政策的な意図の顔色をうかがう時代になって
きましたから。
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 ようやくheartmind様の仕掛けが判ってきました。

要するに「今、現実にあって便利ならそれでイイじゃん。問題があってもそれはごく一部のことでしょ」と回避してしまう。その一方で「福祉ロボット」なるおよそ愚にも付かない代物を作り出すことは許せない、これではまるで幼児が「あれが欲しい、買ってくれ」と手足をばたつかせて泣きわめいている光景と変わらないと思われます。
 私が話してきたことはただ単に「両刃の剣としての性質を持つテクノロジー」は活かすも殺すも人間次第、との単純な一言です。そのために18世紀イギリスに始まる大量生産・大量消費を中心とする「近代化」の話を引用させていただきました。当時のイギリス社会を象徴する「工場法」は近年の中国と全く変わらない側面を見せています。労働によって賃金を得る。その賃金で生活をより豊かなモノにする。人間が賃金を求めて労働する目的は幸せになることであり、賃金はとの手段でしかあり得ない。これが本来の形です。これとは逆になってしまったのが近代の副産物である「疎外」とよばれる現象。端的に言えば「モノに人間が使われる状態」。
 こうした分析を的確に行ったのがアダム・スミスやらマルクスやらヴェーバーだった。ただその後を次いだ人間達はそれが「実験室の中でのデータ」であることを端折って理解しそのまま実際に適用させようとした。少なくともこれは誤りという以外にはありません。前提が違うのだからそこに公理を的要させることも、そこから公理を導くこともできません。
 「近代の良いところを抽出しそれを生かせれば………」とも仰っていますが、それは今般の中国高速鉄道の事故に象徴的に示されている「ご都合主義」の最たるモノでしょう。78年当時、鄧小平によって示された「4つの近代化」の一環として示された工業の近代化とそれを支える1国2制度のシステム(頭は共産党独裁でありながら身体は資本主義経済の継ぎ接ぎ構造)の下で推進されてきた数々の国家的プロジェクトの姿はまるで明治維新あるいは戦後日本の歩みそのものに重なるとも言われている。しかし一つだけ異なるのは中国が既存のモノに新規の技術を無理矢理はめ込んで使うことに終始していることに対し、日本はそれにアレンジを加えて焼き直す形で導入した点にある。この「アレンジ」こそが「現代の特性」ともいえる。実際に中国の高速鉄道網を走る車両はカナダ・フランス・ドイツ・日本製の車両が導入され、それを一つの信号システムで統合的に制御することは不可能に近いとすら言われてきた。にも関わらず強引に導入した結果が何をもたらしたか。
 少なくとも「自分にとって都合の良くない部分には目を閉ざす」ことだけは僕はしたくない。そうでなければ「テクノロジー自体がよって立つべきポリシー」にあらぬ疑念を持たれかねなくなり、やがてはテクノロジー自体が社会から乖離し見放される存在となることを最も懸念するからでもある。「なぜ」「何のために」と常に反問することが最低限必要と考えられる。手放しでテクノロジーを礼賛すならば「E=mc²」は文字どおり悪魔の方程式となりかねない。
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ご講義はありがたく拝読させていただきましたが、誤解を与えたの


かもしれませが、時間的スパンとは思っているわけではなく、近代
そもそも的なことがいいたかったのです。「疎外」という言葉も、
よく読んでいただけば分かると思いますが、本当に私の話は本質と
ずれているのでしょうか。

主張したいことが違うことはわかりますが。

まず、現代の問題を「マッドサイエンティスト」の「テクノロジーの暴走」
という理由づけだけで終わらせるのは、少し異論があります。

現代問題の「予想外」、「想定外」とは、果たして、近代の合理的
な立場からでてくる言葉でしょうか。私にはもっと「社会的な合意」
のような言葉に思えます。
具体的にいえば、水蒸気圧力に耐えうる内部設計をしているから、
外部の環境の変化による内部への影響は、きりがないから設計に
あまり盛り込むのはやめましょうということです。
そもそも何のための素晴らしい技術なのかを忘れてしまったのが原因
ではないでしょうか。
今回のことでいえば技術そのものが暴走を起こしたわけではなく、
まったく日本人らしからぬミスなのだと思います。

近代は西洋の産物ですが、戦後の民主主義を好意的に受け入れた日本の
大衆的な近代はリスペクトすべき要素が少なからずあると思います。

なので「近代を相克したところに現代が成り立っている」この意見にも
同意できかねます。

むしろ、現代の近代否定にはグローバル化による誤った政策的意図が含
まれていることを疑うべきだと思います。正しいところに設備投資して
いたら、ゆるやかな成長のもとに健全に成熟することが出来たのではな
いでしょうか。

なぜ、作業員が鉛の服をきないでカッパを着ているのか。
カッパを着る作業の正当性は根性論でしか導き出せません。

リクライニングベットから体をおこして車いすにのるまで実際に、
どのような補助が必要なのかをなぜか分析もせずに、へのへのも
へじの書かれたおもちゃのような機械を「人との絆が大事」の
ねじまげられた情緒を大義名分のもとで作られるというリアリズム
の失われたテクノロジーはおそれおおくて批判されないという現実
を問題にしなければならないはずなのに。
少子高齢化問題をまたグローバル化の時のように介護奴隷の創出で
解決しようとしているのだったら、未来に待っているのは悲劇とし
かいいようがありません。
創造的生産へのインセンティブの低下を再度まねいてしまうことは
は、人間という尊厳をもった生命の誇リの根幹にかかわるほどの
問題なのです。

安くておいしい大衆的なたまには食べてみたくなるカップラーメン
や、殆ど人が働いていない工場で作られる安全でおいしい子供の
チョコレート菓子への設備投資の実績は賞賛すべきであるのに。

無店舗時代を目指した社会構造の変化に人間が追い付くために
技能を見直すという方向であれば賛成ですが。

近代を本当に越えようとするのならば、ただ批判しているだけでは
だめで、それは近代をリスペクトすることからしかはじまらないの
ではないかと思います。

いつの時代もそうやって社会をより全体的に未来的に考えて進んで
きたはずだと思うのですが。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまって申し訳ありません。
私にとっては難しい回答をいただいて、いろいろ考えてるうちに、疲労に打ち勝てず、うたた寝してしまう毎日でした。

TANUHACHIさんとのやりとりの様ですが、一つ前の回答より、こちらの回答の方が具体的な文言が多いように理解しましたので、お礼欄は一つ とばさせていただきます。

>近代を本当に越えようとするのならば、ただ批判しているだけではだめで、それは近代をリスペクトすることからしかはじまらないのではないかと思います。

おそらくこのあたりが価値観をたがえる出発点なのかなと思いました。
私は、カップラーメンやチョコレート菓子の工場こそ、近代の過ちの一つだと思っているのです。どこから説明して良いのか解りませんが、まずそうした工場の前提には社会基盤が必要であり、その社会基盤のあり方は、やはり近代そのものなのだと思わざるを得ません。「資本」なる虚構を糧として、虚構の上に虚構を積み上げているように思えるのです。

具体的な話題から少し離れますが、
「近代をリスペクトすることからしかはじまらない」
というheartmindさんの思いは、どこからやってきたものなのですか?
自己否定の矛盾に対する御指摘かとも思いますが、
近代を批判する時、私は私なりに自己否定の覚悟をしているつもりです。

まとまりませんが。

お礼日時:2011/08/08 01:48

 heartmind様のお答えに少し疑問を感じました。

「クラフトマンとエンジニアの融合はバウハウスの時代からですから、その設立はヒットラーより前ですから、近代のそもそもの目的は、かならずしも人間を阻害することではないとおわかりになるかと思います」として『近代』を単なる時間軸として理解しているかのように感じられます。『近代』と強調する理由がわかりますか?。『近代』は単なる時間的スパンを指す概念ではなく、それ以前の中世と異なる「構造的特殊性」を有する概念です。
 少なくとも中世での思想的背景及び社会構造の根幹を構築する最も大きな要素は「キリスト教的支配」であり、ルネサンスを境にこれは逆転を始めます。ここに登場するのがダ・ヴィンチやガリレオそしてケプラーやニュートンといった近代科学の祖と呼ばれる人物達とそれにヒントを与えた例の言葉です。曰く「我、思う。ゆえに我、在り」。不可知論的な思考のあり方に疑義を投げかけ、自らが納得する答を自ら見つける。
 その産物として生み出されてきたモノがテクノロジーであるとするなら、人間が制御できるモノがテクノロジーだったはずです。にもかかわらず『構造としての近代』ではその位置関係が転倒している。この位置関係の転倒を「疎外」と呼びます。簡単にいえば「機械は人間が使うモノ」であるはずが「人間が機械に使われる状態」となったのが典型的な近代の形といえましょう。ここで生じる最大の問題が時に「予想外」「想定外」として表現される「テクノロジーの暴走」であり、それを生み出すマッドサイエンティストの問題です。この点に私は懸念を抱かざるを得ないのです。
 失敗からしか人間は学ぶ事が出来ない、過去幾多の類例がこうした悲劇を裏付けていることでしょう。少なくとも中世社会の根幹をなした「全知全能の神」と近代に見られる「機械万能」「効率万能」を至上の価値据えることの間にさほどの大きな違いがあるでしょうか。共に「信じて疑わない」楽観主義的姿勢には違いはない、と私には思えるのですが。
 無論、私は近代を全否定するものではありません、何となれば近代を相克したところに現代が成り立っていることも少なからぬ事実ですから。ただしそこには「テクノロジーの暴走にストップを掛けることのできる人間の思索」が求められる事が前提でもありますが。 
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまって申し訳ありません。
私の理解の浅さに、あきれているのだろうと思います。

>にもかかわらず『構造としての近代』ではその位置関係が転倒している。この位置関係の転倒を「疎外」と呼びます。簡単にいえば「機械は人間が使うモノ」であるはずが「人間が機械に使われる状態」となったのが典型的な近代の形といえましょう。

ユートピアのスレッドで、どなたかがボードレールの引用とともに語られたことを思い出します。
このスレッドの動機に立ち返ると、
なぜ「位置関係の転倒」が起こってしまったのだろうか?それを戻していく「具体的」な策はあり得るのだろうか?
という疑問が解決されていないと思うのです。

>「テクノロジーの暴走にストップを掛けることのできる人間の思索」

が未だ大きな潮流にはなりえず、市場原理主義の大波に飲み込まれてしまうのは、
何が原因で、
どこをどうしていけば闘えるようになるのでしょうか。

お礼日時:2011/08/08 00:57

クラフトマンとエンジニアの融合はバウハウスの時代からですから、


その設立はヒットラーより前ですから、近代のそもそもの目的は、
かならずしも人間を阻害することではないとおわかりになるかと
思います。

つまり積極的な意味で技能が生かされるべきだといいたいのです。
機械は機械でつくれますが、機械を作る機械も機械でつくれる
として、しかしその機械を作る機械を作る機械とたどると、そこ
にたどりつくのは技能をもったエンジニアでありクラフトマンで
す。

もちろん、人間の暮らしには、彩りが必要ですが、そもそも多く
の人を幸せにするという発想は大衆的なのです。
富裕層の客を満足させる職人ばかりが増えるという道を選ぶこと
は、硬直化をまねくことにもつながります。
そもそも日本の職人のよさは、きめ細やかな配慮が特徴ですから
ブルジョアを喜ばせるという目的とは拮抗してるんじゃないで
しょうか。

それよりその高度な人間が本能的に必要とする彩りの部分、つまり
人の手がすべきことを、合理的に突き詰めようとしたり、逆に合理的
に発展させるべきところをなぜか、期間工の生産調整弁という近代
の悪いところをもってきていることが、現状の日本の社会問題を考
えた場合、今はそのバランスを失っているのではと私は思いますが。
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つまり、マエストロであろうと、エンジニアであろうと、目的


が重要であって、守りに入ったら自然に淘汰の道をいくのでは
ないかということです。両者にそれほどの違いがあるわけでは
なく、むしろ両者が近づいていくことが、進むべき方向ではな
いかということです。

名前ですか?構造を気にするなんてモダンなパン屋さんだなあ。
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この回答へのお礼

お手を煩わせました。

クラフトマンのスキルと、
エンジニアのテクノロジー、
想像力貧困で、両者が近づくということが、具体的にピンときません。
例えば、
フェラーリを量産ラインにのせるとか、
木造百年を完全マニュアル化するとか(一条工務店はどの程度なんでしょう?)、
まっとうなフランスパンをオートメーションで焼くとか、
農業がオートメーション化するとか、

そういったことなんでしょうか?

お礼日時:2011/08/04 03:31

 ♯7.9.12様、度々の折り返しありがとうございます。


あなた様と私の間では基本的に大きな相違はないものと、考えています。ただ一つだけ違うとすれば「順番」であると思われます。
 回答者様が「何よりも現場で行動を起こせ」と言われることも現実的な対処の仕方であることに違いはありません。一方私の理解には「現状をより多くの人に知らせることでより多くの物資や人手そして何よりも有用な技術を現場に投入することができる」との考え方です。最終目的として「地球上から貧困と飢餓を撲滅する」ためにそれこそ多くの人の手が関わっていることも事実であり同感です。
 アフガンで「国境なき医師団」のメンバーとして尽力する日本の医師がいます。その医師は戦火に見舞われたアフガンの地で治療を続けるうちに現場での医療活動と「同時に」、感染症や栄養失調の発生となる水資源の不足に着目し、水らが井戸を掘削し、その方法を現地の人に伝授することで現地に農業を蘇らせつつあります。
 現地の状況を改善するには何が必要か→「水資源の確保」とそれによる「農作物の収穫」を自らの手でつかみ取らせること、と考えて彼は「知恵を投資」する手だてを選びました。その背景には「何時までも人に頼っていては自立は叶わない」との物の考え方もあったと思われます。こうした考えはグラミン銀行の様な組織とも相通ずる考え方ではなかろうか、と僕は考えました。東日本大震災に際してもこうした日本版グラミン銀行のような形で自立と復興を支援するファンドなどが芽生えてきています。「今、目の前で命の灯火が消えようとしている人」を救う行為も正しい。けれど「そうした光景をより多くの人に知らせる」行為も等しく正しい。そこに優劣や優先順位があるのかと問われたならば、この問題に対する決定的に答があるだろうか、と逆に逡巡してしまい、最終的に僕は「伝える」方を選んでしまう。その理由としては「一人で(物事や世論などを)動かすことには限界がある」としか言いようがない。けれど「知らせることで多くの人に現実を知ってもらうことができるならば、変えることの原動力にはなりうる」。
 したがって質問者様からの問い掛けに対する僕の答は「テクノロジーは両刃の剣であり、時にはダモクレスの剣ともなる自らを滅ぼしうる最終兵器でもある。従って、テクノロジーが大きく変貌を遂げる時には同時にその素顔を暴き出すこととデメリットに耐えうるだけの相当の覚悟が必要である」との凡庸なモノでしかありません。
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この回答へのお礼

おやおや。身分が違うということなんですかね。失礼しました。
回答ありがとうございました。

私からはデイヴィッド・ヒュームの言葉をお贈りします。
「一巻の書物を手にとって欲しい。神学の本でも、スコラ哲学の本でも。そこで尋ねてみよう。それは量や数についての抽象的な推論を含むか。否。それは事実と存在についての実験的な推論を含むか。否。それならその本を火に投げ込んでしまえ。そこには詭弁と幻想の他には何も書かれていないのだから」(『人間知性研究』)

お礼日時:2011/08/01 22:54

質問者様をご不快かつ疲れさせるためにご回答申し上げているわけでは御座いませんので、お詫びすると共に回答はもう止します。


以降の内容は、またご不快にさせる可能性大と思いますので、目を通して頂かなくて結構です。

プラントの場所:アフリカ プラント:海水淡水化プラント 共に違います。(一部は含まれていますかねえ・・・・)

>国際的に重要なプロジェクトの責任ある立場の方
ゼネコンのしがない下請けですよ。大した決定権もありません。
まあ信用していただけないようですし、どうでも良い事でしょう。(少なくとも飢餓と食糧危機の問題は認識されているようですので)

>プラント建設の経験とは、何の論理関係もありません
テクノロジー進歩の必要性と貧困・飢餓の解決には行動が必要との説明にはなりませんでしたか?

現状を書いた方が信用して貰えると思ったから記入しました。
いくら理路整然とプレゼンを行っても、実現までの時間が長いため、相手側に一人でも経験を共有した人間がいないと、実物や実証や実働に立ち会った者しか知りえない情報の開示がなければ信用されない世界で仕事しているものですから。
うざいと感じたんでしょ。

>テクノロジーの進歩と人口増加はいたちごっこではありませんか?そしてまた、アフリカ問題を含め、食糧難は政治や文化などの複合的で根深い問題が関わっており、単に供給を増やせば解決できるという問題ではないでしょう。
この貴重なご意見を、死んだわが子を抱き、出ない乳を与えようとしている母親の周りの人達に言ってあげてください通訳位紹介できますから。
(チンパンジーや猿山の猿じゃないんですよ)

10番さんに、誤解をされているようですので、(誤解は発信した側の責任だとの常識はあります)
最新の技術とは新しく作られたものであり、その理論とか概念の発見・発表の時期を指しているのではありません。
その理論を実践・実用が可能となった時に初めて、新しいテクノロジーと解釈しています。
技術は常に進歩しているとは限りませんが、長期的には進歩し性能・機能・成熟度は上がってきています。

>批判するのも疲れるくらい独善的で感情過多の御意見です
批判するのも疲れる・・・→ お詫び致します。お付き合い有難うございました。
独善的・・・→ 誉めて頂いたと解釈します。
感情過多・・・→ 見解の相違でしょう。実際現場を見てない人には想像できない(しない)人が多いのは仕方ないでしょう。それと事あるごとに論理的矛盾とか破綻とのご指摘をされていますが、主張は終始一貫していますよ。表現方法や考え方の強要はお互い不快ですので、まあ相容れないとの解釈の方がいいでしょう。

4秒に1人の割合で飢餓が原因で死亡している人の周りの人に何て声を掛けます?
「テクノロジーが大量消費社会を作って人類を増やしすぎたからさ」とでも言いますか

まあバトルの様相ですので、
「兵は拙速を尊ぶ」の教えを守ります。
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この回答へのお礼

>テクノロジー進歩の必要性と貧困・飢餓の解決には行動が必要との説明にはなりませんでしたか?

なってないでしょう。
「貧困・飢餓の解決には何が必要か?」なんて議論はしていないですものね。
ましてや
「貧困・飢餓の解決には行動が必要であり、ゆえにテクノロジーの進歩は必要である」
は明らかに不当でしょう。近代テクノロジーと大量消費社会が一方で貧困と飢餓を生み出していると認めるのであれば、ただのマッチポンプです。

>この貴重なご意見を、死んだわが子を抱き、出ない乳を与えようとしている母親の周りの人達に言ってあげてください通訳位紹介できますから。

話になりません。ヤクザもビックリな詭弁です。詭弁名では「感情に訴える議論」(Wikipediaでもひいといて下さい)。
多いんですよね。
あまりにも多いんです。この類の回路の人。
テクノロジーについての基礎的な議論をすることと、
飢餓当事者にそれを明言する事と、
まったく別の文脈でしょう。単なる言葉狩りの発想です。

主張は一貫していても、
「筋違い」
だと申し上げているのです。

お礼日時:2011/08/02 00:03

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