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信長の姪のお江は沢山子供を産みましたが その中に豊臣に置いてきた第一子【さだ】と 江の姉 初(京極家)に養子として出した 何番目かの子供は 後にどうなりましたか‥?

A 回答 (1件)

さだ については信用できる史書に記載ない




・豊臣完子    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


豊臣 完子・・豊臣(羽柴)秀勝の娘で、九条幸家の正室。従三位。

豊臣(羽柴)秀吉の養子・羽柴秀勝(秀吉の姉・日秀の次男、三好小吉)、浅井長政と市の娘・江(崇源院)の間に生まれる。徳川家光には異父姉にあたる。

誕生前に文禄の役で父・秀勝が病死し、江は姉・淀殿のもとで完子を産んだ。なお、初名は不明。

文禄4年(1595年)、江が徳川秀忠と再々婚したことで、伯母の淀殿に引き取られ養われる。淀殿は彼女を実の子として大切に養育したというが、おそらく相続の問題で『慶長日件録』では養子ではなく猶子と記録されている(猶子は相続の権利が発生しないので普通は名前のみの養子と捉えられる)。

慶長9年(1604年)6月、九条忠栄(後の幸家)に嫁ぐ。この婚儀の直前に完子の乳母が亡くなっていることが記録されている。婚儀に際しては淀殿が万事整え、京の人々を驚かせている。また義弟・豊臣秀頼名義で豪華な九条新邸を造営している。婚儀の4年後、慶長13年(1608年)に秀頼の左大臣任官の動きが朝廷にあったことが明らかにされている。

慶長13年(1608年)12月26日、忠栄が関白に任官し、完子は従三位北政所となる。なお「完子(さだこ)」という諱はこのとき選定されたものと考えられる。

慶長20年(1615年)に豊臣家が滅亡して以降は、母の嫁ぎ先である徳川秀忠の養女となっている。徳川家に対しても忠栄は完子の母の江が徳川家に縁づいていることから、公家と武家の貴重な仲介役になった。

万治元年(1658年)、67歳で死去した。

※秀吉の猶子、秀忠の養女と、生涯 優遇され、子孫は藤原五摂家の筆頭九条家、そして昭和天皇以後の皇室として栄えています\(^^;)...
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この回答へのお礼

誠にありがとうございました。

豊臣家が滅亡して以降は、母の嫁ぎ先である徳川秀忠の養女となっている。

秀忠の養女になったんですね?

これは家康が考えた事なのだろうか‥?

子孫は藤原五摂家の筆頭九条家、そして昭和天皇以後の皇室として栄えています

>なるほど‥これは凄い!

回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/09/14 20:42

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