A 回答 (6件)
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No.6
- 回答日時:
初代皇帝オットー1世は窮地に陥っていた教皇を救出し自らの意思で帝位に就きましたが
親族を含め諸候の反乱に悩まされました
オットーが対応策として皇帝を絶対的支持する人物を聖俗諸候として任命しました
聖俗諸候は聖職者であるがために世襲は許されないこともあり皇帝に都合が良かったのです
これが聖職叙任権です
グレゴリウス7世はその皇帝による聖職叙任権を否定しました
ハインリヒ4世は強大な父帝死後幼く帝位に就きましたが
諸候の勢力が拡大、ハインリヒは親政後、苦労しながらも自らの力でザクセン人などの反乱を抑えましたが
まだ足元が覚束ない状態ですから教皇の叙任権の否定は
叙任権のみならず反対勢力に力を与えました
特に教皇の振りかざす破門はキリスト教徒は破門された主君の命に従わなくても良い
破門された商人は商売ができなくなるに等しいものでした
ドイツ国内で破門された皇帝に従う諸候はボヘミア王などごく僅かになっていた内情もあり憤慨する心を抑え
わざわざグレゴリウスの事実上の愛人であるマティルダの居城カノッサに赴くのです
(彼女の夫は妻が教皇と愛人関係にあることを暴露して教皇の刺客に暗殺される)
破門が解けたハインリヒはすぐにドイツへ帰国すると反対勢力を打ち破り
怒り狂ったハインリヒは軍勢を率い直ちにローマへ向かいグレゴリウスを攻撃するとともに
対立教皇を擁立してその教皇によりローマで戴冠しました
グレゴリウスは辛うじてノルマン人のロベール・ギスカールに救出されますが、間もなく憤死します
破門は十字軍の時代まで威力ある教皇の武器でした
後に教皇と激しく対立した皇帝フリードリヒ2世の傍らには
エッツェリーノ・ダ・ロマーノなど狂信的皇帝崇拝者を除くと
破門なぞ関係のない皇帝が保護した南イタリアのルチェーラのイスラム教徒植民市の兵や
同盟国のチュニジアのハフス朝からのイスラム教徒の兵士らでかためて教皇に対抗していたのです
長文失礼致しました
No.5
- 回答日時:
NO.4です。
補足の質問があったようなので・・・教皇がハインリヒ4世を赦したのは宗教上の良心からです。
キリスト教は「赦しの宗教」とも言われ、罪を赦す事が教義の中でも大きな教えとなっています。
新約聖書の「使徒言行録」(使徒行伝などとも呼ばれます)の第10章には次のような言葉が載っています。
「イエスを信じる者は誰でも、その名によって罪の赦しが受けられる」
同じく新約聖書の「エペソ書」(エフェソの信徒への手紙などとも呼ばれます)の第4章には次のような言葉が載っています。
「互いに情深く哀れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦して下さったように互いに赦し合いなさい」
このように、聖書では罪を赦す事を教えています。
罪を悔い改め謝罪に訪れたハインリヒ4世を赦す事は、教皇にとって教義の上からは当然の事であり、赦さない事は逆に神の教えに背く事になります。
だからこそハインリヒ4世を赦しました。ただ、教皇も赦す決断をするまではかなり悩んだそうですが。
また、教皇にしてみればハインリヒ4世に赦しを与えたからと言って、彼が不利な形勢を逆転できるかどうかは分かりません。
大公達の軍勢がアルプス峠を封鎖しているのですから国に辿り着く事ができるかどうかも分かりません。
赦しは与えたものの、ハインリヒ4世が大公達の軍勢に捕まって亡き者にされるという可能性は決して低くありませんし、国に辿り着いても、そこで大公達に勝てるかどうかは、未だ不明というか、ハインリヒ4世の勝利の可能性が低いと考えても全くおかしくない状況でした。
実際、2度目の破門をした時は、ハインリヒ4世が戦いに敗れ不利な状況になったのを見てからの事です。
そうした状況を踏まえた上で、宗教上の良心から赦しが与えられています。
ちなみに、余談ですが、この罪の赦しの教えが、後に行き過ぎ、また悪用され免罪符が乱発されてマルティン・ルターがこれに疑問を呈してプロテスタントが生まれ宗教戦争にまでなっています。
No.4
- 回答日時:
教皇に誤る必要については敵を切り崩すため。
軍事力については、カノッサで謝罪していた時点と諸侯を討伐していた時点では軍事力が違いました。つまり恐れる必要がありました。
ハインリヒ4世が皇帝となった後、その力を増大させてゆき、それに対して諸侯は皇帝への不満を増大させていきます。
ハインリヒ4世が破門された時、これをチャンスと捉えた大公達が結束し、皇帝に対抗します。
もともと破門される前には、ハインリヒ4世はザクセン戦争という戦争をしており、ザクセン大公とザクセン貴族達とは敵対していました。
このザクセンに、バイエルン大公、ケルンテン大公、シュヴァーベン大公という有力な大公達が手を結び、皇帝に対抗します。
しかも、ザクセン戦争では味方した他の貴族達もハインリヒ4世とは距離を置き始めます。
皇帝に味方する貴族や司教もいましたが、皇帝側は圧倒的に不利な状況でした。
もし相応の軍事力があったなら迷わず皇帝は諸侯をすぐに討伐していたでしょう。しかし、この時点でその力はありませんでした。
そこでカノッサでの謝罪になります。
ハインリヒ4世が教皇のもとに行く途中、皇帝派の貴族がそれなりに集まり、ハインリヒ4世もある程度は教皇の制圧も考えたようですが、結局そうはせず軍勢は連れていかずに教皇のもとへ謝罪に行きました。
なぜならこの頃、既にバイエルン大公、ケルンテン大公、シュヴァーベン大公らの軍勢が、ハインリヒ4世を捕らえようとアルプス峠に展開し始めていたのです。
例え教皇を殺害し新たな教皇を擁立したとしても、状況は変わらなかったかもしれませんし、諸侯の軍勢が雪崩れ込んできたら敗北は必死だったでしょう。
ハインリヒ4世は謝罪して破門を解いてもらい、それにより破門の事で皇帝側につく事を躊躇う貴族達を味方につける事を可能としました。
ハインリヒ4世は教皇に謝罪した後、帰路に着きますが、皇帝に味方する貴族の手を借り、アルプス東部の道を通り大公達の軍勢から逃れています。
その後、ハインリヒ4世の本格的な巻き返しが始まります。破門された事を憂慮していた者達を味方に付けた他、ハインリヒ4世は大公達の足元を切り崩します。彼らの領地の下級・中級貴族達を味方に付ける作戦に出たのです。味方した貴族の中には皇帝からかなりの恩賞を約束された者もいました。
この作戦がある程度成功し大公達の戦力は低下していき、皇帝側の戦力は増大しました。
こうしてハインリヒ4世は形勢を逆転し状況を有利に持っていきました。
ハインリヒ4世は、後には再び破門もされましたが、その時には逆に教皇を追い落とす事が可能なほど、勢力を増大、確固たるものとしていました。
ありがとうございます。
とても分かり易かったです。
そこで更に質問なのですが、なぜ教皇は皇帝を許したのでしょうか?
そのまま破門を解かなければ、諸侯たちに首を取られていたのではと思います。
教皇は、なぜわざわざ自分に不利になるようなことをしたのか疑問です。
ただの同情なのでしょうか?
No.3
- 回答日時:
まずは、「カノッサの屈辱」の背景から。
ヨーロッパでは、二重支配が続いた歴史があります。(現在も続いてますが)
一つは、物質面での支配。
つまりは、政府です。
それを代表していたのが、神聖ローマ帝国皇帝であったハインリヒ4世です。
もう一つは、精神面での支配。
言い換えれば、宗教です。
で、当時の宗教といえばほぼキリスト教カトリック派でした。
そのトップに立っていたのが「ローマ教皇」です。
「ローマ教皇」はすべての教会の頂点に立つ人物です。
で、この2者の間である政治闘争がありました。
それが、「叙任権闘争」といわれるものです。
カトリック教圏では、各地区を教区に分け、そこの頂点に立つのが司祭といわれる人々です。
この「司祭」を任命する権利が皇帝側にあるのか教皇側にあるのかを争ったのが「叙任権闘争」です。
で、この「叙任権闘争」のもう一つの側面が「イタリア半島支配」を巡る争いでもありました。
当時のイタリア半島はいくつもの都市国家に分かれて争ったりくっついたりとバラバラでした。
しかし、「ローマ帝国」発祥の地であるローマがあることから、政治的に重要な土地でもありました。(神聖ローマ帝国皇帝は名目上ローマ帝国の皇帝)。
そのため、歴代皇帝と教皇はなんども衝突を繰り返していました。
その争いの頂点ともいえる時期になるのが「ハインリヒ4世」の時代だったのです。
>なぜ一度目の破門はそれほどの重大事だったのに、二度目の破門はものともしなかったのでしょうか?
一回目については、他の方の回答にもあるとおり、反皇帝派の諸侯が多数いました。
そのため「破門」されるとこれを好機とばかりに反旗を翻すことは明白でした。
そこで、ハインリヒ4世は「名を捨てて実をと」りにいった分けです。
そうして、自分が皇帝であることを教皇に証明させ、その権威を背景に反対派の諸侯を討伐したり骨抜きにしたりしていったわけです。
しかし、ここで注目しなければならないのは、「カノッサの屈辱」では「叙任権闘争」の決着がついていないという事実です。
そのため、再び破門されることになるのですが、今度は足下をしっかりと固めてあったので、イタリアに攻め込んでローマを包囲することが可能となりました。
ここでは、教皇を取り逃がしてしまいここでも決着がつかなかったのですが、逃亡先で教皇が死んだことで一応下火になります。
しかし、根本的なことはここでも決着はついてません。
結局、この争いに終止符が打たれるのは1122年「ヴォルムス協約」によってでした。
>それだけの軍事力があったなら、初めから恐れる必要はなかったのではないでしょうか。
軍事力といっても、当時の軍事というのは、今のような「国の軍隊」なんかではないんですね。
あくまでも、皇帝や諸侯が抱える「私軍」な分けです。
そして、レーエン制(封建制)でなりたっていました。
一言で「神聖ローマ帝国」といっても、いくつもの諸侯領が集まった寄り集め国家なんですね。
で、そうした諸侯の中の諸侯が皇帝として頂点に立つことができる。
しかし、諸侯が一枚岩ではないし、必ずしも皇帝に忠誠を誓わなく立ってよかった。
なんで、皇帝についても、諸侯が虎視眈々と自分の地位を狙ってるわけですね。
そんな状態で破門されたら、一気に襲いかかられて自分の運命が終わってしまう。
これが「カノッサの屈辱期」のハインリヒ4世です。
しかし、その屈辱によって教皇から「あなたは皇帝です」という確約をもらうことで日和見派や反皇帝であっても信仰心から教皇に逆らえない人とかを懐柔することができました。
そして、その勢いをかって反対派を討伐したり滅亡させたりして、政治基盤を確固たるものとしていったんですよ。
その結果、二度目の教皇との対決ではローマに遠征しても本国で反乱が起きる心配がなかったわけです。
雑文で失礼しました。
参考になれば幸いです。
No.2
- 回答日時:
とんでもない。
軍など率いていない。破門されたハインリヒ4世に付き従う兵士などいません。当時はキリスト教万能の時代なのです。ローマ教皇に破門されたということはもはや皇帝でも何でもない。只のカスです。そのカスに付き従う馬鹿は何人もいないのです。カノッサ城を包囲などしていない。やっとこさっとこ城門の前にたどり着いただけ。教皇一行ではない。カノッサ城主であるトスカーナ女伯マティルデに匿われているのです。城兵がわんさといます。皆殺しどころではない。誰もそんな命令には従わないし、逆に皆殺しにされます。ハインリヒ4世が破門されると教会会議を招集しても誰も集まらなかったのです。反ハインリヒ4世の諸侯は勢いづき、ハインリヒ4世は王権剥奪寸前だった。だからなんとしても破門を解いてもらう必要があったのです。そのためにはなりふりかまっていられない。カノッサの屈辱はそういうことです。必死の謝罪が受け入れられてハインリヒ4世は破門を解かれた。だからこそ、ハインリヒ4世はその後の巻き返しが可能になったのです。破門を解かれたからこそ、離反していた人心を取り戻すことができた。破門というのは社会的生存権剥奪と同じです。物凄い重い事実なのです。怖いもの知らずの現代日本人にどういえば分かってもらえるのか。ローマ教皇は絶対です。ローマ教皇を殺せという命令を発しようものなら、神をも恐れぬ狂人と周囲からみなされるだけです。そうなれば自分が牢屋につながれることになるのです。ありがとうございます。
そこまでは私も納得なのですが、その後、教皇は再度皇帝を破門していますよね。
なぜ一度目の破門はそれほどの重大事だったのに、二度目の破門はものともしなかったのでしょうか?
No.1
- 回答日時:
2つのことがらを混同しています。
互いに相手追放しようとしたとき、ハインリヒ4世が不利だったんです(もちろん対教皇で軍事的には優勢だったが、篭城した相手倒すほどの力ない)ハインリヒ4世は自分の配下の人間を司祭に任命し勢力拡大はかった。ローマ教皇は任命権は君主でなく教皇にあるとして中止もとめた。いわゆる叙任権闘争です。
ところがハインリヒ4世は任命やめず、教皇は破門と王位剥奪におわせる。4世も教皇追放ねらう。
破門、王位剥奪派と教皇退位派の対立です。
ところがドイツの諸侯(各地の領主)の一部はこれ幸いとハインリヒ4世の廃位追放に動く。そこで4世はカノッサに教皇訪ねるが、殺されるとびびった教皇は門閉ざす。
頭下げて許しこう(破門の撤回) 結局4世は位保ち、破門撤回、以後の任命は教皇と妥協案でまとまる。
地位保全できた4世は反対派追放きめ、実行する。のちにローマ包囲し教皇は孤立、やっと逃げ出すがまもなく死ぬ。
ドイツのトリック的には「カノッサの屈辱」だが、ドイツ人のプライド的には(プロテスタントには)意に反して頭下げも将来の反抗(勝利)目指す政策とする。
はじめから包囲し粘れば教皇は餓死したと思うが、それには数年の時間かかる。反4世派への対応のこともある(破門され廃位されそうだった) 反対派の意気あがってしまう。
屈辱でも破門撤回されたから権力基盤残り、反対派を全滅させることが出来たわけです。
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