1つだけ過去を変えられるとしたら?

先日、幸福な人とはどんな人を指しますか?と言う質問を見かけました。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7099980.html

いろいろな意見があるのですが、
私の中では幸福な人とは「幸福を意識していない人」
と定義し、結論付けているのですが、そのような回答を述べた人がいませんでした。


何故そう思うのかと言うと、健康な人間が健康を「意識」する事はありません。
「風邪を引いた」「最近、歳のせいか疲れやすくなった」「体力が落ちているのを感じる」・・・。
そうなった時、初めて健康を「意識」するのだと思います。
(↑「健康マニア」は例外 これは幸福とは何なのか?などを哲学的に考えにふけってしまう「幸福マニア」も含む)




幸福も同じです。幸福な人間は幸福を「意識」しません。
決定的な不幸が襲わなくとも、平凡で安全な何不自由ない生活を送っているが、
なんとなく満ち足りない。物足りない。

そう感じると、幸福を「意識」するようになります。
つまり、そう言う人は幸福では無いと言う事です(比較の問題でその程度なら、劣悪な環境で生活している人たちからすれば、幸福度は決して低いものではないでしょう)


幸福を「意識」すると言う事は、大なり小なり不幸の要素がある人のみ起きると思います。
健康と同じように。


と言う考えでいたのですが、そのような回答を述べている人がいませんでした。
もしかしてこの考えは誤りなのでしょうか?




*因みに私の幸福な人の定義「幸福を意識していない人」と言う「意識」という言葉がポイントです。
これを「幸福を求めていない人」と言う言葉だとニュアンスが変わります。

A 回答 (11件中1~10件)

>幸福を「意識」すると言う事は、大なり小なり不幸の要素がある人のみ起きる



というのはおっしゃるとおりでしょう。
冬を知らない人に春の暖かさが実感できないのと同様です。
ただ、冬を経験することが不幸だと認識する必要はないということも同じく言えるように思います。
なぜなら、春を幸福の比喩とした場合、冬から春へと変わる節目にこそ幸福の要素が凝縮されているからです。
乗り越え超越するその過程にこそ幸福があるような気がします。
この意味で落差が必要で、そのためにはある程度の不幸は必須でしょうが、それも幸福を構成する一因子であるという構造になるのでしょう。
むろん、乗り越え可能な程度の不幸であることが最低条件にはなります。
    
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この回答へのお礼

なるほど。
不幸は幸福のスパイス、と言う考え方は非常に前向きで多くの人から共感を得られるでしょう。
それ頂きます。


回答有難う御座います。

お礼日時:2011/11/01 10:59

 仏教では絶対的幸福という境涯 生きてるだけで幸せ 「仏」「成仏」死んでからなる話ではありませんし、生きてる中にあります。

人はみな、その生命状態に至るため生きて修行を重ねているんですね。
 つまり、幸福な生命状態、、、生命の話として捉える必要がありますね。
 幸福といっても、恋愛感情などの自分では作り出せなくわきあがり、、やがて消えてしまうというのもではありません。これは天にも昇る気持ちといいますが、生命状態では天界ともいいますね。そういう生命状態が、心となり、表情を作り、言葉になったりするわけです。
 ですから根本は生命。またその状態。天界は六道輪廻したりしますから、やがて消えてしまいます。
 絶対と対にたいして影響されない幸福境涯、生命状態と聞きます。
 人は何万回と五感などのの刺激から縁をして生命状態が変わると聞きます
 何万回も1日で生命状態が変わるそうです。
 一念三千という仏教用語がありますが、3千の状態が説明されてますね。
 生命の幸福 それがあらゆる探求の目的地と認識してます。

 あなたのいう状態は、心をすりかえていけばいいという戦後の裁判でも言われてる結論に近い捕らえ方ですね。
 心が変われば幸せで、それを意識しない。では意識より深い生命の幸福まで探求しましょう。
 それが仏教哲学でしょうが。
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この回答へのお礼

回答有難う御座います。

>あなたのいう状態は、心をすりかえていけばいいという
それはありますね。

「自分が変われば世界が変わる」という言葉はそれを示していると勝手に思っていました。
↑本人はそう言う意味で言ったんじゃないとは思うが・・・。

お礼日時:2011/11/01 11:04

児童虐待を行った親を除いて、全ての子を育てる動物は子の幸福を願うものです。


方法が正しい、間違ってるは別として、生まれた時から本能的に幸福になるよう教育されているものです。
人間においては、すべからく意識しない者はおりません。
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この回答へのお礼

回答有難う御座いました。

「意識」と言う言葉が誤りでありました。
no1さんやno2さんの返答で私の言わんとする「意識」が分かると思います。

お礼日時:2011/11/01 10:54

鼓腹撃壌の幸福バージョンですか。



不幸があるから、幸福があるんですよね。

不幸を経験したことが無い人は、幸福が
何であるか、おそらく解らないのでは、と思います。

そういう人は、果たして幸福なんでしょうか。
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この回答へのお礼

回答有難う御座います。

悪い道を走らないと本当に良い道が何なのか分からない。
みたいな事を言った人がいたような気がしますが、
誰だったか忘れてしまいました。

お礼日時:2011/11/01 10:51

貴方のどぐまの弱いところは


たとえばあるまんねん青年が鼻をこすって「ぼかーしあわせだなー」といったとき、その男は幸せではない、ということになりますが、それでいいのでしょうか。

幸せを意識しない状態の人間は様々ありますが、それはかなりの割合に及びます。赤貧のなかで懸命に働いて日銭を得ている多くのひとたちも幸せなのでしょうか?そうではありますまい。

>幸福な人間は幸福を「意識」しません。

>幸福を「意識」すると言う事は、大なり小なり不幸の要素がある人のみ起きると思います。
健康と同じように。

これはある種の真実を含むと私も思いますが、「幸福」を定義するには物足りないと思います。

私は鼻をこすって「ぼかー…」といった男のほうが幸せの定義の近いと思います。

またB・A から遠ざかりました(不幸;)。

この回答への補足

>私は鼻をこすって「ぼかー…」といった男のほうが幸せの定義の近いと思います。

それは植物人間の例に近いですが、彼らは幸福か不幸か、その判断すら出来ない状況です。
客観的に見れば彼らは不幸であると考えるのが普通ですが、彼らからすればその判断そのものが出来ないので不幸でも幸福でもありません。

なのでこう言うケースは対象外です。

補足日時:2011/11/01 10:46
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この回答へのお礼

回答有難う御座います。

お礼日時:2011/11/01 10:46

純粋に


 定義の不備ということだけ に 注意してみると


植物人間 ボケ老人が 幸せである ということになってしまうので

 もう少し細かく規定する必要があると思います。

禁治産者はある程度 幸せであるということもできますが

 他人をだます偽装民主主義が ぜんであるという 考え

 くに を食いつぶす思想が理想である という 思想につながります。

どちらの側につくのか 立場をはっきりさせるべきでしょう。
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この回答へのお礼

回答有難う御座います。

考えてみたいと思います。

お礼日時:2011/11/01 10:32

「幸福」そのものは、“意志の達成”であり、具体的な実体を持ちません。


おっしゃるように、不幸な時にこそ『幸福でありたい』と思いこそすれ、
実際に幸福の最中にある時には、それを発生させている具体的対象に
専念している事が、最も幸福である状態でしょう。

生きる目的が、そのような「幸福=意志の達成」である時、それは
人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを
「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを
把握する認識力)に収束します。

「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するの
ではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね
備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが
最大充足でないのはご存知の通り)。

           存在すること
              ↓
生きること(肉体)   +    認識を深めること(心)
   ↓                 ↓
組織化(分業=助け合い)の追求:精神的充足量の追及
   ↓                 ↓
自律的社会行動(生産)× 社会生命的自覚化(愛)
=エントロピー増大の反力としての反エントロピー
(最大認識における最大意志の最大達成の最大感受)
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この回答へのお礼

回答有難う御座います。
大学の講義を受けているような気持ちになりました。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/11/01 10:29

怪我をしたり、病気になったりしてはじめて「健康」のありがたみを知るというのは確かです。


歯が痛いとき、この歯が痛くなかったらどんなにいいだろう、と思わけですが、そのさい、
「歯の痛みが少しでも和らぐ」と「幸福」な感じにならないでしょうか。
「葉はまだ痛い」つまり「歯痛を意識している」のだけど「幸福」だともいえるのでは?

「幸福を意識しない=幸福」説は「定義」としてはちょっと不十分なように思えます。

これは、あれやこれやの不幸の要素がない状態(これはいわば理想形で、実際はありえない)を「幸福」とみています。
かんたんにいえば「ふつうが一番しわあせ」といた感じに近いように思えます。
そういう人はたしかに「幸福」なのかもしれません。

ですが、日本の未来のために被爆覚悟で仕事に行く人、民族自立のため焼身自殺する僧侶なども、「幸福を意識しつつも」幸福な人なのではないでしょうか。

定義は一般に「~でないモノ」と否定形で述べたのでは「意味」がないようです。
たとえば「犬」を定義するとき、
「猫でないモノ」とか「2で割り切れないモノ」とか、
はたしかに「真」ですが、いっこうに「犬」が明らかになません。
やはり「犬」の定義は「ワンと吠えるモノ」でなくてはね。

人間にとって「幸福」とは何かが問題です。

「幸福な人」の定義で、幸福な(幸福を意識しない)「人」というふうに、
「幸福」を定義される括弧内表現のそとに出してしまっているようにも見えます。

質問者さまの趣意はよくわかるのですが、それではカバーしきれない、そこから漏れてしまうものもまたある(そういう存在に盲目になるというのが「幸福」になる条件といってしまえば身も蓋もありませんが)という感想をもちました。

宮澤賢治ではないですが「この世に不幸な人があるかぎり本当の幸福なんてない」かもしれません。

この回答への補足

前半の回答のご指摘はまさにその通り。
これはno1さんやno2さんと同じで、「意識」と言うものの意味の範囲が広すぎて、
幸福な人とは「幸福を意識しない人」と言う言葉に穴があることを気づかせてくれるものでした。


私の言わんとしている意味の「意識」に、相応しい言葉を現在模索中です。

補足日時:2011/11/01 10:22
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この回答へのお礼

回答有難う御座います。

お礼日時:2011/11/01 10:23

人それぞれ考え方があるので、誤りだとは思いませんが、私の考えも違います。



たとえ幸福マニアでなくとも、自分は幸福だと感じられる人はいると思います。
普段は意識することがなくても、本当にうれしいことがあった時、自分の人生を振り返る時、または何でもないふとした瞬間に、などです。
幸福だからこそ、自分の幸福に感謝することもあるのではないでしょうか?


ちなみにリンクのある質問に関しては、
そもそも質問内容が、「現代で最も幸福な人とは」という、どちらかというと「客観的に見た幸福」だと思いますので、幸福を感じるかどうかとはまた別の問題だと思います。

この回答への補足

>ちなみにリンクのある質問に関しては
>そもそも質問内容が、「現代で最も幸福な人とは」という、どちらかというと「客観的に見た幸福」だと思いますので、幸福を感じるかどうかとはまた別の問題だと思います。


ぶっちゃげ、リンク先の質問者の意図はどうでもいいのです。

少なくとも回答者の多くは、「客観的に見た幸福」の回答ではなく、抽象的で内面的な「幸福とは」に関しての回答でした。

その回答を見て私が疑問に思った事を、今回質問させて頂きました。

補足日時:2011/10/31 13:04
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この回答へのお礼

回答有難う御座います。

お礼日時:2011/10/31 13:05

専門家ではないので誤りかどうかはわかりませんが



家族や友人、知人が
>「風邪を引いた」「最近、歳のせいか疲れやすくなった」「体力が落ちているのを感じる」
これを口に出した時に、自分の健康を意識しませんか?

ドラマで借金でヤのつく職業の人においかけられる人を見て、自分は(そんな事もないし)幸せだなあと思ったりしませんか?
それは幸福かつ「幸福を意識している」人になるのではないかと思います。

この回答への補足

これも、その通り、意識しているけど幸福な例ですね。やはり「意識」と言うのは意味の範囲が広すぎるのですね。
でも私の言わんとしている事ではないですよ・・・。



>ドラマで借金でヤのつく職業の人においかけられる人を見て、自分は(そんな事もないし)幸せだなあと思ったりしませんか?

その通り。意識していますね。でもこれはNo1さんと同じ補足回答で、ニュアンスとしては私の言いたい「意識」と言うよりは、「自覚」に近い。いや日本語としては「意識」で間違っていません。


>これを口に出した時に、自分の健康を意識しませんか?
このパターンも意識していますね。意識って範囲が広すぎる言葉なんですね。

私の言わんとする「意識」は願望の要素が加わっています。
この場合は、健康に気付かされるとか、気を使う切欠のような「意識」、言ってみれば「気付き」の要素の意識ですね。


風邪を引いて健康体になりたいと言う、「意識」は「願望」の要素ですので若干意味が違いますが、それは貴方が間違っているので出はなく、私の表現力のなさが問題です。

「意識」より適切な言葉を捜さなければ・・・。

補足日時:2011/10/31 12:52
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この回答へのお礼

回答有難う御座います。

お礼日時:2011/10/31 12:52

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