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と言いますね。

しかし、それでは他に何が?と問うと、明確な回答は自分の中で得られません。

娯楽。勤労。恋愛。思索、etc・・・どれもピンと来ず・・・。

今日もせっかくの休日を寝て過ごしてしまいました・・・。

充実した日々を過ごすにはパンの他に何があれば・・・。

マーガリンを塗りなさい、という答えも面白いですが、そのマーガリンは何の比喩なのか?

ご意見頂けると助かります。

A 回答 (12件中1~10件)

そうですね。


小学生のころ、よく「パンのみにて生きるにあらず、米もまた」
とか、「パンのみにて生きるにあらず、おかずが必須だ」
とか、そんなことを言い合って楽しんでいたことを思い出します。


この言葉はほかの回答者にもあるとおり、
聖書に記載で、「神の口から出る一つ一つの言葉によって生かされている」
のであって、食欲や自我欲だけで、人の痛みも感じられないなら・・
というようなくだりでキリストが話した名言です。

パンさえあれば、肉体としては生きていますが、心はどうでしょう。

>今日もせっかくの休日を寝て過ごしてしまいました・・・。
あなたはいまはそれなりに充実し、問題もないのです。
しかし、何か充実するためのヒントにとこの句を思い出したのは幸いです。
自己啓発のいいきっかけになったと思います。

この聖書の言葉の意味は、私の解釈でひとつの説ですが
簡単いえば、「愛」があってはじめて人間になるものだ、
愛は、心地よい環境と置き換えてもいいでしょう
その環境、社会をよりよく発展させていますか
そういう人間になっていますか
そういうことを問うたキリストの格言だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

ずいぶんと昔の言葉ながら、含蓄ある言葉ですね。

少し聖書に興味が出てきました。

お礼日時:2011/05/29 12:55

聖書も仏典も究極の心理学です、或は脳の機能の説明書と言う言い方でも良いと思います。

人間の究極の心の在り方を『幼子』と聖書では書いています。

仏典でも人間の目指す究極のものは『大人の嬰児』です。是は脳の機能から説明すると分かり易いと思います。人間の苦しみとは『心の矛盾や対立や分裂』と云う事が伺われるからです。

脳の機能が完成に近くなる頃、すなわち思春期頃から、人間は悩みが大きくなる事実です。或は精神疾患や神経症や自律神経失調症が始まる事を意味します。

つまり心の矛盾を感じ始める年齢が、脳の機能の完成と事を同じくすると言う意味になります。失楽園と言う意味は、『脳の機能の分化が完成する事』によって、心が二つになってお互いに争いが始まると言う意味になります。

自我意識は言葉を学ぶ事によって、ますます『分別心が強くなってきます』処が人間の働きは生まれたままの姿をますます、分かり難くしています。

つまり人間の感情を沸かせる『働き』は、『無意識の中に封印されてしまう事』を意味します。

かくして、人間の悩みが始まっています。二つの意識の争い、或は主導権争いです。この場合自我意識が勝ってしまう時、心の問題として現れる現象が、『心を病む事』になっています。

身体の問題として現れる場合を『自律神経失調症』と呼んでいます。

行動の問題として現れる現象を『神経症』と呼んでいると思います。

こうして人間は知恵のりんごを食べた事を実感として感じます。つまり心の矛盾を『心』は感じている事を意味します。

人間の苦しみを『心は』身体と心に映し出すと言う意味になります。この意味するところは、検査をした場合何処にも異常が無い事です。つまり『頭の中だけで』症状(妄想)を創っている事を意味します。

この妄想(症状)の解消を宗教が過去においては受け持っていた事を意味します。つまり『心の矛盾の解消』が宗教の目的と云う事になります。

その『心の矛盾が解消された』姿をキリスト教では、神に会って和解すると表現しています、仏教では、他力宗では、阿弥陀様に救われたと表現しています。自力本願では『苦しみの元を知る事によって、全ての苦しみから解放された、と言う意味で『生死の問題を解決する』と表現しています。

脳の機能から説明するなら、感情を湧かせられていた側の『自我意識』が感情を沸かせる側としてのもう一つの意識との出会いで、もう二度と『心は争う事が無くなる事』を意味します。

左脳に存在する意識『自我意識』と右脳に存在する意識『仏性或は神』との間にホットラインが通じた事を意味します。是が『悟り』と云う事になります。

もう一つの表現方法を取るなら、『意識する自分』と『無意識の時の自分』が『意識の根底での出会いで』交替制を取っていることを認め合って、二度と出番を取り違える事がなくなるという意味になります。

人間の障害とは、二つの意識の、出番を取り違えている事を意味します。メンタル面が弱いと言う意味は『無意識に任せられなくなって、出来もしない自我意識がでしゃばってしまう事』を意味します。

どちらにしても、自我意識が『自分の無意識』を信頼出来ない事がその発端です。神経質という意味は、『自分の無意識』に疑いを差し挟む事を意味します。

心の矛盾の解消とは、自分の無意識の信頼を取り戻すことで完了します。それが悟りです。全ての障害が取り払われる事を意味します。是が完治です。


『人はパンのみにて生きるにあらず 』と言う回答としては筋違いと言う感が否めないですので、この線に沿って回答しますが、今書いた事を踏まえて(伏線として)頂ければ、これから書く事が分かり易いと思います。

パンと言う表現は『目に見える世界』と言う意味です。それ以外のものとは『目には見えないけれども真実という意味です』症状に苦しんでいる人達は『目に見えない何かに怯えていて』身体心も、見えない何かに『反応している事を意味します』

この意味は『眼の前の世界を二つにして』見ている事を意味します。一つは『現実としての世界』です。もう一つは『妄想としての世界』です。この二つにして見ている世界が『人間苦』=罪の意識の世界です。仏教では『業』と表現しています。

この開放を宗教が受け持っています。その意味するところは『第三の目が開ける事』を意味します。目に見えない何かに怯えていた世界が、その怯えさせていたものの正体を『意識の根底から了解する』世界です。

今までは、見える世界しか認識出来なかったものが、見えないものまでも見える世界です。言い替えるなら『真実の中の嘘も、嘘の中の真実も』見分ける事を言います。

真実を見通す目が開ける事によって、眼の前の世界が又『一つの真実の世界となって』展開します。世の中の見方の変更です。二つの意識が友に一つになって働き出す世界です。この見方になる事によって『妄想=症状』が消えてゆきます。症状は『分別が作り出していた幻の世界』だった事が分かります。

神や仏とは『自分自身の感情を湧き上がらせる働きをしていた者』と知ります。その働きを心から追い出そうとしている事が『心の矛盾』の正体と分かります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
目に見えない、言葉にできない世界というのもありますね。
それをなんとかしよう、というのも人の性にあると思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/29 13:36

しかし、それでは他に何が?と問うと、明確な回答は自分の中で得られません。



○ そりゃ一般人がたどり着けるような簡単な答えではないからですよ。
「人はパンのみにて生きるにあらず」を解く鍵の一つは「あなたは私の肉体の母であっても魂の母ではない」という言葉ですね。
よけいに判らないかもしれませんが、簡単に答えると、人は朝起きて寝るまでになにかを食べ生きていますが寝ている間は何も食べていませんね。でもそう思ったり信じているだけなんですよ。寝ている間にあなたの肉体でなく、中身の魂が食べている物があるのですね。人として生きるためにはそれを食べないと生きていけないのですね。人だけではなく全ての生き物がそのような二重構造になっているのですね。
それを一言で答えると「人はパンのみにて生きるにあらず」になっているだけなのですね。
トップの宗教家や哲学者の言葉を尊宅(理解)するためには並みの勉強程度では到底無理な話なのです。
まあ、「それでは他に何が?」の正しい答え(食べ物)は「光」ですね。魂が食べる目には見えない光という意味です。その光を誰にも判りやすく、言葉「愛、真、善、美などなど」で表現しているだけです。
理解できるかどうかですが真っ当な答えなんですよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
聖書の言葉・・・含蓄深いのですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/29 13:31

人の生きる目的が、肉体の増殖=物質的繁栄(~歯車としてのアリ型進化)であるか、認識的深まり=精神的充足(~自律的生によるヒト型進化)であるかの択一ですね。



宇宙(認識)とは、無の潜在としての認識可能性の“断面”の移動=自我仮説に対する、相補的な時空仮説として生じている。
そこにおいて、宇宙の膨張=不確定性(h)の収束という、異なる本質=異なる認識可能性を一つの軸(時系列化)にするところに時間性は依拠しており、過去の自分も、空間的広がりにおける他人も同じ。
宇宙は、別の認識可能性を自己同一視するという、ある種の精神異常として発生し、実は他人も共通であるという愛に向かって進むと言える。

宇宙が認識に於いて生じるならば、生きるのは楽しむためである。
その「楽しみ」の原因をつくる欲求は、遺伝子によって発生し、また我々の生きた結果が、淘汰として遺伝子に刻まれていく。
もし、楽しくなくてイヤイヤ生きるならば、その個体は活性が落ちて淘汰され、その状況でもイヤじゃない個体が増殖するだけ。

それは短絡的な快楽主義を意味するのではなく、生きるのに反したり、認識を低下させる欲求は、人生を通算した充足量の総和の最大化に反する。
人の「生き方」には、認識性の発達(より深い認識的な目標の達成による充実感)や社会生命性の発達(社会的行動=助け合いによる喜びor社会的価値(お金や出世)の取得による喜び)といった、二次的な要因があり、人生を通算した“喜びの最大化”には、愛(認識の深まり×社会的自覚化)が必須なのだ(短絡的な快楽主義には帰結しない)。

宇宙の発生に、異なる認識可能性(h)の時系列化が必要であったように、その補完(時空仮説に対する無の射影)としての存在性に於ける認識可能性の他我化=愛こそが、生理的な認識性の最大化とその充足の最大化を両立させるのだ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
ちょっとすぐには理解できませんでしたが、参考にさせていただきます。

お礼日時:2011/05/29 13:32

バターでなく、あえてマーガリン。



マーガリンは当初、人類が発明した代用食品の中で、最も成功したものといわれていました(現在でこそ健康への影響が云々されていますが)。
然るに、人が人として生きるためには、幸福を求める強い意志と、新たなものを生み出すための知恵が必要なのではないか、などとこじつけてみたり……。


冗談に冗談を重ねるのはさておき、真面目に考えるなら、それは人それぞれであると言えるのではないでしょうか。
その答えを聖書に求めるのも良いのですが、愛、他者への奉仕、正義、知恵の探求、芸術の発露、テオーリア、勤労、信念、プライド等々、別のものに求めても、敬虔なクリスチャン以外にはそれほど不都合なさそうです。
ちなみに私にはまだ見つかりません。見つかるのかどうかさえおぼろです。

あるいは、それを探し求めるという過程そのものが、生くるに必要なパン以外の何かなのかも知れません。
であれば、「それ」が見つかった時は天に召される時ということになりましょうか(まるでファウスト博士のようです)。
とはいえ、案外これは私にとって、しっくりくる考え方なのですが。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
見つかるかどうか仰るように疑問ですが、参考になりました。

お礼日時:2011/05/29 13:14

この言葉の最初の出所は聖書の以下の個所です。



「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることを、あなたに知らせるためであった。」 申命記8章3節

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。マタイ4章4節

マタイの福音書ではイエスが「と書いてある」と述べたもので、イエスは申命記の8章3節を念頭に発言していることが分かります。この個所はいろいろなことを人に考えさせるに十分な含蓄があると思いますが、この言葉が語られた背景はさらに興味深いものがあります。

つまりイエスは丁度40日間にわたる断食のあと、非常な空腹を覚えているときに悪魔が耳元でそこらへんに転がっている石ころをパンに変えて食べたらどうかと囁いたことに対して、イエスが答えているという状況です。もし私どもが40日間も断食をしておなかがすいているときに、目の前にパンがあったらどうするか考えてみると、イエスが空腹の中でパンが人生で最も大事なことではないよと述べた時、人間的な意味ではなかなか言えない状況で言っていることが分かります。

つまりこれ以上断食を続けると肉体の死亡を招くような環境の中で述べられています。イエスは私どもがあたかも死ぬかもしれない選択を私どもに提案しているとも読める個所です。さらにマタイの福音書を読んでいきますと、以下のような個所にぶつかります。つまりイエスキリストに属するもの、すなわちクリスチャンとなりたいのであれば、自分を捨てなさいと述べております。

「イエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。・・・・』」(マタイ16:24~25)

残念ながらマーガリンを塗りなさいというのは確かにおもしろい発想ですが、比喩とは言えないとおもいます。ただ聖書を読み続けましたら、娯楽。勤労。恋愛。思索などを超えた充実した毎日がお過ごしになれると思います。
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この回答へのお礼

奥の深い言葉であるのですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/29 13:12

人の手で捏ね上げたものというぐらいの意味かしらん。

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この回答へのお礼

人が作り上げるもの、ということでしょうか。
ありがとうございます。

お礼日時:2011/05/29 13:10

パンってのは、食べ物のことじゃなくて肉体のこと。



だから、お腹 つまり 肉体が欲するものを満たしさえすれば、人間は満足だってわけじゃーない ってことですね。

精神を満たさないと、人間に生まれたのに、半分しか満足していないってことじゃないかと。
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この回答へのお礼

ご解説ありがとうございました。

>精神を満たさないと、人間に生まれたのに、半分しか満足していないってことじゃないかと。

納得しました。

お礼日時:2011/05/28 23:08

愛ではないでしょうか。


人間は愛のエネルギーが枯渇してしまうと正常ではなくなるようです。
肉体は食べ物を摂取すればある程度は維持できるでしょうが、私たち人間は肉体だけの存在ではないようです。要するに”魂”的なものが私たちの本質なようです。
しかし時間をただ無為に過ごすという経験も、長い長い目で見ると意味のある大事な経験かもしれません。
マーガリンを塗りなさいとは初めて聞きましたが面白いですね。何の比喩なのでしょうね? 彩りとかでしょうか?
ただのパンだけでなくマーガリンを塗ったりジャムを塗ったり野菜を挟んでサンドイッチにしたりするように、人生も様々アレンジしたりして色々と豊かな経験をしましょうということでしょうかね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
誤解を招くつもりはありませんでしたが、マーガリン云々の発言元は私です。
(だから)深みがあるようでいて、浅い・・・。

愛・・・。
以前、心理テストを受けた結果によると私は愛他心が低いらしく。

お礼日時:2011/05/28 23:06

宗教とか哲学とか思想j信条を持てば解決ですねえ



でも価値観が多様化して 余程の宗教でないと表立っては言えませんねえ

人間としてパンのみではなく 存在し 存続し 未来に存在を実現し そして永遠への存在の実現を目指しましょう

永久機関も必要 PCや頭脳も開発しなければ行けません。

未来には宇宙に向かって旅立つのです 寝てる場合ではないです。

出来る事はあると思います どうぞ探してください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご明察の通り、宗教その他には縁のない生活を送っております・・・。

思想、信条・・・確固たる己でしょうか?
探してみます。

お礼日時:2011/05/28 22:46

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