プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

ご存知の方、宜しくお願いします。

「心」「意識」「精神」の類似点、差異点を教えてください。

A 回答 (7件)

こんにちは。


「意識」とは「状態」
「心」とは「構造」
「精神」とは「心の構造によって形作られるもの」
ということになると思います。

この三つの共通点といいますと、それはこれらが全て「神経系の働き」を指すものだということですね。この内、「意識」といいますのは神経系、厳密には大脳皮質での情報処理過程で発生する「現象」であり、他の二つとはその定義が全く異なります。それは「有意識」という「特定の状態」を指すものであり、これによってどのような情報や結果が扱われるかということは一切の関係がありません。大脳皮質の意識に上る対象がなければそれは発生しませんし、大脳皮質を介さない情報処理や、自覚の成されない結果選択は「無意識行動」と分類されることになります。
このように「意識」といいますのは「状態」です。そして、これは神経系の情報処理過程やその結果を示すものではありませんので、他の二つとは全くの別物です。

では、「心」と「精神」の違いとは何かということになるわけですが、「精神」といいますのは元々心理現象や生理構造を科学的に分類したものではありませんので、その定義は極めてあいまいです。これに対しまして近年では、長い間謎とされていた我々の「心の構造」に就いてたいへん多くのことが解明されるようになりましたので、この辺りはもはや哲学の力を借りる必要がそれ程ありません。
心理現象とは「知覚入力―結果出力」という神経系の情報処理によって発生するものです。そして、我々の脳内では知覚入力に対して価値判断を下し、結果を出力するための中枢系が以下のように三系統に分かれています。
「生命中枢:無条件反射(本能行動)」
「大脳辺縁系:情動反応(情動行動)」
「大脳皮質:認知・思考(理性行動)」
この内、本能行動を司る「生命中枢の無条件反射」といいますのは、それは遺伝子にプログラムされた全人類に共通の反応規準であり、幾ら学習体験を積み重ねてもこれが変更されるということは生涯に渡って絶対にありません。ですから、如何なる場合であろうとも結果は予め定められているわけですから、これを「心の動き」とすることはできません。
これに対しまして、与えられた状況に応じて我々の脳内に様々な「心の動き」を発生させているのは「大脳辺縁系の情動反応」であります。大脳辺縁系には身体内外のあらゆる知覚情報が入力されており、ここではそれに対する「利益・不利益の価値判断」が行われることによって「情動反応」が発生します。この知覚入力に対する価値判断を行うための反応規準を「情動記憶」といい、これは生後体験に基づいて大脳辺縁系に獲得された「学習記憶」です。大脳辺縁系では何の入力に対してどのような反応を発生させたのかという結果が随時記録されますので、それは我々の「価値観」として成長してゆくことになります。そして、この価値観によって形作られるものが、そのひとに宿った「精神」です。

通常、我々が「学習記憶」と呼んでいるのは大脳辺縁系の情動記憶ではありませんよね。それは大脳辺縁系の「YES・NO」のように単純な結果ではなく、何時何処で何をしたといった具体的なものであり、個人の思い出から数学計算の技術、成功・失敗の結果からその社会の法律・道徳に至るまで、生後の実体験や教育によって大脳皮質に獲得されたありとあらゆる情報であります。大脳皮質はこの記憶情報を駆使し、知覚情報からは得ることのできない「未来の結果」を予測します。従いまして、大脳皮質の司る理性行動といいますのは、その全てが未来予測による「計画行動」であり、原因と結果の自覚された「意識行動」ということになります。
ところが、大脳皮質の導き出した結果が如何に高度で理性的であろうとも、実際に心が動かなければそれが実行に移されることはありません。つまり、大脳皮質の役割とは未来の結果を予測してより価値の高い計画行動を立案することであり、それに対して最終的な決定を行うのは「心の動き」を司る大脳辺縁系であります。ですから、大脳辺縁系に何の情動反応も発生しなければ、我々は一切の行動を選択することができません。
「ここは理性的な行動を執るべきだ」、与えられた状況に対して大脳皮質が判断を下し、それに対して大脳辺縁系が「賛成・YES」と反応することによって、それは初めて実行に移されます。

上記の中枢・三系統における機能分類を「脳の三位一体説」といい、現在では我々の「心の構造」というものがここまで判明しています。
ならばこれに基づき、
「大脳辺縁系の情動反応=心」
「大脳皮質の理性行動=精神」
とできるならば、生理学的にも解剖学的にもたいへん明解なのですが、基本的に「精神の定義」というのが元々あいまいであるため、これでは一般に扱われている概念とはどうしても一致しません。
このため、
「心とは構造」
「精神とはその構造によって形作られるもの」
ということになります。
我々の「心の動き」といいますのは、喜怒哀楽などの直接的な情動表出から高度に論理的な意思決定まで、その全てが大脳辺縁系の情動反応を中核として行われています。これが「心の構造」です。そして、大脳辺縁系にどのような価値観が獲得され、大脳皮質にどれだけの知識を持っているかによってその結果が異なります。従いまして、「道徳な精神」や「ひとを愛する気持ち」あるいは「目的に対する不屈の精神」などといったものは、みなそのひとの「心の構造」によって形作られているということになります。
また、価値判断を行う中枢系も、そのときの覚醒状態によっては反応の結果が異なります。ですから、精神といいますのはあれやこれやと極めて広範囲な概念ではありますが、これまでのような解釈を行うならば、このようなものを「精神状態」と呼ぶこともまた可能となります。
    • good
    • 13
この回答へのお礼

大変参考になりました。有り難うございます。

お礼日時:2007/05/04 10:11

現代哲学や心理学での回答をお望みの場合は参考として。


インド哲学の翻訳語としての仏教用語ならば、

心…citta 感情・想念・意思など心作用全般
意…manas 思考・思量・思惟など思考作用について
識…vijn~aana 認知・認識などの器官として

と精神活動は大まかに三側面から語られます。
三者を同一物の異名と考える僧侶もいたようです。
時代と派閥によって解釈が違いますが、
「意識」mano-vijn~aanaという熟語になった場合は、
唯識説や因明で問題とされるような知覚の意味合いが強くなります。
この場合、現代語の意識のように活動の場や状態としての意味は排除され、
より系統立てて説明可能な現象として用いられます。

「精神」の語を輪廻転生の主体と考えた派閥もあるので、
精神は実体論的な側面からのイメージでしょう。

仏教用語の「意識」は現代用語のそれとは別物ですが、
思考活動に、その他の心作用とは別の価値を見ている点では同じです。

明治時代の翻訳語は多く仏典や漢籍を参考にしているので、
漢字としての意味も捉えておくと良いと思います。
ANo.6さんとの比較参考までに。
    • good
    • 0

辞書で調べたところ


意識=無意識ではない領域
精神=意識+無意識
心=精神
こんな感じでした。
なので答えは
心=精神=意識+無意識
な感じだと思います。
    • good
    • 0

心とは大和言葉です。

情緒的な意味合いが強いです。(ハート)
精神とは翻訳語です。知的な意味合いが強いです。(マインド)
ただ、この二つは同義語といってよく、心=精神と同じ意味で使われることもあります。
その場合、心は分かり易い柔らかな表現となり、精神は難しく固い表現となります。

意識とは、自分の今ある状態や、周囲の状況などが正確に認識できている状態のことを指します。
医学においては、意識のレベルを簡単な質問をして確認します。
精神分析学では、人間の心を意識、前意識、無意識の三つに分けます。
    • good
    • 1

「意識」「精神」というのは、「心」を総体表現とする機能表現ですね。


「心」には構造があるのですね。たまねぎのような構造ですね。一番外側を「表面意識」次を「潜在意識」・・「心としての中核部分」のようになっています。「表面意識=一般的な意識」というのは人間の肉体を通しての「思考=心」ですね。例えば、寒い・熱いと感じるなどは意識の作用でしょう。また、高いところが怖いなどは潜在意識の作用といえますね。何故かわからないけど感動するなどは「心としての中核」の部分が感じてるんでしょうね。表面意識や潜在意識は各人個別のものですが「心としての中核部分」はすべての人間共通の部分なんですね。「精神」という言葉は機能表現として使ってますね。例えば共通部分が感じることを共通という意味で「・・の精神」といいますね。逆に共通性から外れると「精神病」となるわけですね。これは表面意識の個性が社会規範から外れても同じですね。
一方、あなたの「心」と言う場合の「心」は個人全体、総体表現の場合ですね。私の心が泣いているという場合は、私の表面意識が私の中核の心を表現しているといえますね。
このように「心」は構造を持っているのでその概念を踏まえて心の作用を表現するとおのずと言葉が違ってくるのですね。
心は難しいですね。
    • good
    • 0

どれも複数を指していて、「これ限定」というものじゃないと思います。




が、分野によって使い分けているように思います。


文学作品でよくあるテーマが<心>。
表に出ていない状態を作品を通して形にしていく。
感情を指すときも<心>と書きますが、意識とは書かないし、精神とも置き換えることはできない。



意識は、哲学や脳科学の分野でよく見かける語彙。
有意識のことだと思います。
ですが、哲学や脳科学分野では、その有意識がどこから来るのかを掘り下げて研究しています。


精神は、例を挙げると「わが社の精神は。」
言い換えると「わが社のモットー」つまり「目指すものは。」

他には「人間の精神は、自分だけではなく万人にも良いものを求めるものだ」という場合。
これは性善説に添った考え。
人間の根源は良いもので、それが核になっているという考えで、この核が<精神>という語彙を指すように思います。
妨げがなければ、自然といい方向に人は向かうって信じている。


性悪説の人からはこういう言葉は生まれて来ない。
人間の根源は悪であり、自然のままだと人間は悪に向かうので、全くの善なるものを神として、この神をあがめて救っていただく以外に人間に救いは無い、とするのが性悪説をとる宗教。

上のような場合、心 とするより、精神 と書いたほうがマッチするように思います。
人間の核に迫ろうとする内容なので。
    • good
    • 0

私の捕らえ方になってしまいますが




想い(好き・嫌いetc)

意識
我々が認識している範囲(認識できていない範囲は無意識)

精神
感情(喜怒哀楽)

だと思います。

心と精神は相互していると思いますが、反発することもあると思います。好きな人に怒ることもあるし、嫌いな人からされたことでも楽しいこともある。
意識とは、上の二つとは違い、たとえば前から歩いてくる人は認識できます。これは言い方を変えれば、前から歩いてきた人を意識しているということでです。でも、いくら前にあっても石ころをいちいち認識してはいません。これは意識していません。見えていても無視している。無意識に押しやっている。ということです。

以上。私見ですが、参考になりましたら
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A