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九識論をできるだけ簡単に説明してください。

A 回答 (2件)

こんばんは。




九識説は、仏説ではありません。
───これは重要です。試験に出すので、覚えておくように(笑い)───

amala識というのは、真諦という翻訳僧が勝手に作ったもの、捏造したものでございます。
オボちゃんのSTAP細胞と同じ(ニコニコ)。


インドの仏教にあるのは、
 六識 = 前五識(眼~身識) + 第六識(意識)
 七識 = 六識 + アーラヤ識(Alaya-vijnana)
 八識 = 六識 + 末那識(manas) + 阿頼耶識
の三つです。

前五識は感覚ですね、そして、第六識の意識は、あれこれと考える心の働き。
まぁ~、これくらいの意味。

アーラヤ識というのは、深層意識とか潜在意識で、我々が行なった行為の習慣性みたいなもの(専門的には習気・vAsanAといいます。また、実体的にとらえて、種子・bijaと呼ぶこともあります)を蓄え、そして、その蓄えられたものから万物を生み出す根源的存在。
このアーラヤ識は、自身の心だけではなく、この世界を作り、我々の身体も作ります。
世界や身体を含むありとあらゆる物は、神さまや仏さまが世界を作った~わけじゃない。
阿頼耶識がこの世界を作った(と考える)。
 ───ここ重要です。試験に出ます(笑い)───
この世に存在するのは、識(vijnapti・心が作り出した対象で心によって知られるもの)のみであるとする思想なので、阿頼耶識説は《唯識思想》と呼ばれたりします。


阿頼耶識説というのは、心が世界や自身の心身を含むあらゆる存在を作り出したというものなので、
阿頼耶識説を採用しつつ、物や世界が心とは別に存在する、という立場をとることは、矛盾しています。
天台や日蓮系の諸宗教の教えは、ちょっとおかしいんじゃないかい、となってしまいます。


ちなみに、阿頼耶識は『解深密経』というお経に出ていますので、一応(?)、仏説(???)となります。
また、歴史上実在したゴータマ・シッダルタなる人物が本当に説いたとされるパーリ語の仏典にも、アーラヤという言葉は出てきます。


八識説は、『解深密経』以降に作られたお経には出てきますけれども、
末那識(manas)という言葉、末那識というものを作った人もわかっていて、
これを作ったのは無著(asanga)というインドの偉いお坊さん。
だから、八識を説いているお経は、
この無著さんというお坊さんの後に、
誰かによって作られたということが分かってしまう。
その年代も、五世紀以降であるということが特定されてしまう。


で、マナス、末那識ですが、
これはもともと意識の一部、現代の用語でいうと、自我や自我に執著する心の働きを、
無著さんがマナスと呼び、別建てにして、意識と区別した。
これには仏教の教義的な理由があるのですが、
専門的な話になるので、このことについては触れません。

このマナスには、四つの働き(?)があります。
 我慢 ・・・ 己れを誇る気持ち
 我癡 ・・・ おバカであること(縁起の理を理解していないこと)
 我愛 ・・・ 己れを愛する(より根源的な)気持ち
 我見 ・・・ 我(アートマン)は実在するという思い込み
まぁ、エゴです、深層意識のエゴ的な部分。
これは無著さんの弟である世親(ヴァスバンドゥ)の説です。
これも仏説ではありません。


でですね、
阿頼耶識はちょっと違うのですが、
仏教でいうところの○識というのは、心の働き、機能なんですよ。
これは実体的な考え方じゃないんですよ。
例えば、臓器がありますよね。その臓器の働きを○識と呼ぶのであって、識は臓器その物を指し示す言葉ではないです。
臓器に当たる物は心(citta・ちった)と呼ばれます。心の機能で最も重要なのが意識なので、意識≒心ととらえられたりもしますが、このふたつは、一応、別な物です。
また、
七識、八識説では、阿頼耶識を心と呼んだりします。
阿頼耶識は、人間の心のみならず、世界のすべてを作る基体なので、
これを心ととらえることは間違いではない。


で、第九識のアマラ識なんですが、
 a-mala
と分解され、
 a 否定を表す接頭辞
 mala 汚れ
 vijnana 識
なので、a-mala-vijnanaは、汚れのない識、《無垢識》と訳されたりします。
 汚れ(煩悩)がなくなった心
ですね。
そして、
真諦は、阿摩羅識を我々の心に宿る仏、《如来蔵》であると考えた、同一視した。
これは、あくまで、真諦の学説であって、全仏教共通の考え方ではありません。

要するに、九識説は真諦の個人的な見解に過ぎず、日本の数多くの宗派はこの真諦のペテンに引っかかってしまった、というわけです。
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この回答へのお礼

だいたい分かりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/31 15:44

九識論とは、生命がものごとを認識する働きの「識」を、9種類に分類した仏法の生命哲学です。


私たちが、宿命転換、あるいは人間革命と呼ぶ人生変革の原理は、
この九識論で説明することができます。
九識の分類は、以下の通りです。
------------------------------
五識(眼・耳・鼻・舌・身体)
六識(意識)
七識(末那識・まなしき)
八識(阿頼那識・あらやしき)
九識(阿摩羅識・あまらしき)
------------------------------
分類は、各宗派の教義の根本である「経典」の解釈によって異なっています。
倶舎宗では六識、法相宗では八識心王としています。
これに対し、天台宗は九識心王です。
生命活動は、五識(眼・耳・鼻・舌・身体)と六識(意識)の働きで営まれています。
六識(意識)は、五識からの情報に反応し、推量して働くことになりますが、
同じ局面に生きている人間であっても、行動と状態には個々差異が生じます。
その差異(差別)の根源は、個々の心の傾向性から生じてくるもので、
この発生場所を第七識として定義し、「末那識(まなしき)」と呼びます。
末那(manas)とは、「思量するもの」の意味で、「自我意識」のことです。

では、何故、違った個性、認識の相違が生じるのでしょうか。
仏教では、この差別の根本原因を、第八識の阿頼那識(あらやしき)で説明しています。
阿頼那識(あらやしき)とは、「宿業」のことです。
「阿頼那(alaya)」とは「貯蔵する」という意味で、過去のあらゆる行動は、
種子(植物のタネ)として、あるいは「業(karman)」として、生命の深層に蓄えられます。
ちなみに、ヒマラヤ(hima-alaya)とは、雪(hima)の蔵(alaya)の意味で、
「多くの雪を収めた蔵」が原意です。
ヒマラヤが途方もない年月で雪を蓄えたように、私たちも繰り返される生死の中で、
おびただしい数量の業を命に蓄えています。

さて、仏法では、この第八識の業を、善業と悪業に分類しています。
善業の顕在化は慈悲や知恵として働いて、将来の「楽」の境涯をもたらし、
悪業は、三毒などの煩悩となって「苦」の境涯を引き起こします。
これを仏法では、「善因楽果」、「悪因苦果」といいます。
ですから、悪業を善業に変化させれば、幸せになれるのです。

この第八識は、「激しい川の流れ」に例えられるほどの巨大な力を持っています。
「馬鹿は死ななきゃ治らない」と言いますが、実際には
「死んでも治らない」というのが宿業の真相です。
ですから、宿命転換は、大変難しいことなのです。
それでは、具体的に、悪業に汚された命を、どうすれば変化させられるのでしょうか。
その最短の方法とは何でしょうか。
その宿業を変革できる力こそ、第九識に分類されている「阿摩羅識(あまらしき)」であり、
天台が「九は是れ仏識」と定義した「仏の生命」なのです。
阿摩羅(amala)とは、「汚れのない」という意味です。
この第九識の「仏識」を、日蓮大聖人は、「九識心王真如の都」とも
「南無妙法蓮華経」とも呼ばれました。
有難いことに、大聖人は後世の私たちのために、第八識の宿業の闇を打ち破る方法として、
御本尊への唱題行を確立してくださいました。


http://sokanomori.exblog.jp/15765958/
「九識論」の回答画像1
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この回答へのお礼

だいたい分かりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/31 14:40

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