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シニフィアン・シニフィエの関係とノエシス・ノエマの関係における両者の根本的な違いについて教えてください。

前者が記号における構造を問題にし、後者が対象意識を問題にしていることはわかったのですが、シニフィアン・シニフィエの関係とノエシス・ノエマの関係はそれぞれが固定化されていないという点では構造上大差が無いように感じられてしまいます。

もし両者における構造上の決定的な差異があれば教えてください。宜しくお願いします。

A 回答 (4件)

 


 No.1です。補足説明をありがとうございました。

 何だか込み入っているようでもあります。
 ひととおりのわたしの反応です。

 ★ (No.1補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (α) シニフィアンとシニフィエの結合と分離の繰り返しが新たなシーニュを生産していく運動のようなものなのではないか

 (β) ノエシスの働きによってヒュレーへの意味付与が繰り返し行われていくことによってノエマもまた非固定的に生産されていくのではないか

 (γ) 両者とも「意味」を連続的に生産し、そしてそこにおいて発生する「差異」を連続的に生み出す同一の構造を持っているのではないか
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《生産 / 意味付与》という言葉を聞いて単純にまづ クリステワ゛でしょうか 《意味生成の過程》のことを思い浮かべました。《差異》を問題にするなら特には デリダでしょうか。《差延化の作用をつづけていく過程》をです。

 ただ率直な反応ですが(α)での《分離》という捉え方がどうもはっきりしなかったのですが。
 ★ (α)・・・シニフィアンとシニフィエの結合と分離の繰り返し
 ☆ どうなのでしょうか これらはいちど一つの語(シ―ニュ)として結合したなら もうそのまま一体であって 分離はしないのではないでしょうか? それとも
 ★ (α) ・・・新たなシーニュを生産していく
 ☆ というのは 解釈の変更を経て新たな意味が付与されるといったところなのでしょうか?
 たとえば やまと――すなわち 《 yamato =奈良の大和地方》――が 拡大した領域の国としての《 yamato =日本国としての大和》という新しいシ―ニュとなって生産されるということでしょうか?
 ということは どうも《分離》ではないが シニフィエに新たな内容が付与されるといった点を取り上げておられるのでしょうか? 重層的になり 多義性を帯びると。

 《やまと》の意味の変遷といったことは 一般に現代においていわゆる読者による読み替えのようなことにも触れようとしておられるのでしょうか?

 たしかにそのような読み替えがおこなわれる過程は 次の(β)に関係してきますね。
 ★ (β) ノエマもまた非固定的に生産されていくのではないか
 ☆ たぶん 《やまと》の場合は すでに現実に情況などなどの変化が生じていて それにつれてその変化して現われてきた概念が シニフィエとして立てられたとき どういうシニフィアンをそれに当てようかとなるのでしょう。この場合は いままであったシニフィアンだけれど あたかもその外延としてのように元の《やまと》が引き続き用いられた。といったところでしょうか。
 問題はこの場合 このシニフィエをノエマと言うか? ですが どうでしょうか? おそらくシニフィエの以前の概念から始まっていますね。それを ノエマと言おうと思えば言えるでしょうか。
 となると 
 ★ (β) ノエシスの働きによってヒュレーへの意味付与が繰り返し行われていく
 ☆ 《ヒュレーおよびエイドス》なる現実そのものに ノエシスがはたらく。といったところでしょうか。その成果としての概念が たしかにノエマでしょうから そこから あらたな《シ―ニュ》の生産に向かうとは言えるようですね。

 これらの作業を (γ)は言おうとしているようですが どうなんでしょう? わたしとしては 人間がおこなっていると言いたいのですけれど。
 あるいはまた 《意味を生産する》のは これも人間の社会的な営為のほうでしょうし ことば(シ―ニュ)に旧い新しいの《差異》が現われるのも 現実の動きのほうにでしょうし ノエシス・ノエマの主題として取り立てるという感覚は もうひとつピンと来ません。

 けれども構造は おっしゃるようなかたちで どちらも相似形のようになっているのかどうか?
 ★ (δ)~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そう考えると、シニフィアン・シニフィエの関係とノエシス・ノエマの関係における両者の違いは、単に「記号の構造」と「意識の構造」の違いということだけになるのでしょう
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《シニフィアン》と《ノエシス》とをそれぞれそのものとして比べると 性質の違うものなのでしょうね。あまりよい評価者ではなかったようですが お届けいたします。 
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わたしも、空いた時間の楽しみにちょこっと書き込むだけですが、


(時間を割いているのではなく埋めているというわけ)
同時成立的な構造であるという共通点を気にされているのではないかと思います。
どうなんでしょうか。
桜の季節ですから桜について話しましょう。

記号の王国における桜、桜のシニフィアンが入口です。
わたしたちが、そのシニフィアンによって、そのシニフィエを措定しようとするとき、
ノエシスとは、意識のこのような志向性のなかで、現実の桜に関わりなく、
意識が像を結ぶに至る過程としてあります。
志向的であるノエシスが契機となって、ノエマは統合的意味をもって獲得される意識となり、
わたしたちにとっての桜の純粋な認知となります。物質の認知ではなくて意味の認知です。
シニフィエは、依然として、掴みがたい現実の側にあります。どのようにもそのままを意識することができません。

ノエシスとノエマは、思惟の志向性のうえでの契機と獲得の関係に
あり、体験の成立を説明します。この破綻は認知障害となります。
シニフィアンとシニフィエは、契機と獲得の関係になく、
状況依存的で恣意的な結びつきを象徴と現実に与えることによる
言語活動の成立を説明します。
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この回答へのお礼

amaguappaさんご回答ありがとうございます!

すごくわかりやすく解説して頂きありがとうございました。
頭のもやもやがだいぶ晴れた気がします(笑)
私の質問も後で読み返して、あまり明瞭ではないと反省しました。bragelonneさんへの補足のところに、
私がこの質問を投稿するにあたって疑問に思っていたことを、もう少し詳しく書いてみましたので
宜しければそちらの方も見ていただけるとありがたいです。

ありがとうございました!

お礼日時:2010/03/30 05:46

一寸時間が有りませんので、



簡単にいうと、前者は意味の文脈で用いられて、後者は関係の文脈で用いられるようです。
一般的には、前者の二つ間は無関係で、後者の二つは因果性を帯びている、と理解していますが。

構造的には、一つの事柄を、二つに分析していますから、その点に似ていますが、厳密には違う点もあるようです。
なかなか難しい問題ですが、昔はもっと上手に説明される方が見えましたが、最近役立たずばかりで、アット、皆様失礼、私自身のことです、謙譲語でもないです。
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございます!
fishbowl66さんお忙しい中ありがとうございました。大変勉強になりました。ご質問したいことがあるのですが、ちょっといま酷い風邪をひいておりまして頭が回らない状態です。また、体調が戻りましたら質問させて頂こうかと思います。

ありがとうございました!

お礼日時:2010/03/30 05:33

 こんにちは。



 ★ シニフィアン・シニフィエの関係
 ☆ は 記号(シ―ニュ)における両要素のつながり具合いを言うわけですから
 ★ 記号における構造を問題にし
 ☆ ているはずです。

 ★ ノエシス・ノエマの関係
 ☆ は ひとが対象を知覚するあるいは認識するとき その行為を《ノエシス》と言い その結果 認識されたものを《ノエマ》というのだと思いますが ですからそういう意味で
 ★ 対象意識を問題にしていることはわかったのですが
 ☆ とおっしゃっているのだろうと採ってよろしいでしょうか?

 だとしますと ところで これら二つの《関係》という事項が互いにどう違うか? という問いになるのでしょうか?

 扱っている主題が互いに違うと思うのですが どうなんでしょう? だから両者の差異と言っても どういう観点から おっしゃっているのかが分かりかねています。その点 よろしければ おしえてくださいませんか。

この回答への補足

こんにちは

ご回答いただきありがとうございます。
ご返信遅れてしまい申し訳ございません。(ちょっと風邪をこじらせてしまいまして…)

私の「シニフィアン・シニフィエの関係とノエシス・ノエマの関係における両者の根本的な違いについて教えてください。」という質問ですが、少し抽象的で、いまいち質問の意図が正確に伝わりにくい書き方でした。申し訳ございません。

シニフィアン・シニフィエの関係については、bragelonneさんがおっしゃるように「★ シニフィアン・シニフィエの関係☆は記号(シ―ニュ)における両要素のつながり具合いを言うわけですから★記号における構造を問題にし☆ているはずです。」と、私も理解しています。また、シニフィアン・シニフィエの結合によってシーニュが成り立たちますが、一方で両者の結合は、自然的な必然性を欠いた不安定で恣意性を持っていると訊きました。そしてそこから、私はシニフィアンとシニフィエの結合と分離の繰り返しが新たなシーニュを生産していく運動のようなものなのではないかと思いました。

一方、ノエシス・ノエマの関係についてですが、こちらもbragelonneさんがおっしゃるように「★ノエシス・ノエマの関係☆はひとが対象を知覚するあるいは認識するときその行為を《ノエシス》と言いその結果認識されたものを《ノエマ》というのだと思いますが…」と、私も理解しています。すると、ノエシス・ノエマの関係もシニフィアン・シニフィエと同様に、ノエシスの働きによってヒュレーへの意味付与が繰り返し行われていくことによってノエマもまた非固定的に生産されていくのではないかと思いました。

以上のようにみてみると、両者はそれぞれの関係性(シニフィアン・シニフィエの関係とノエシス・ノエマの関係)において非常に似通った構造を有しているのではないかと思えたのです。つまり、両者とも「意味」を連続的に生産し、そしてそこにおいて発生する「差異」を連続的に生み出す同一の構造を持っているのではないかと思ったのです。

そう考えると、シニフィアン・シニフィエの関係とノエシス・ノエマの関係における両者の違いは、単に「記号の構造」と「意識の構造」の違いということだけになるのでしょうか?

私も最近勉強し始めたばかりでして、もうしかしたらトンチンカンなことを質問しているのかもしれません(汗)もしよろしかったらお暇なときで結構ですので教えてください。

補足日時:2010/03/30 05:26
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