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昨日の私と今日の私では何が同じで何が違いますか?

A 回答 (17件中1~10件)

自分の思考による投稿をしたいので、皆さんの回答はまだ読んでいませんが、後でゆっくり読ませていただこうと思います。


ですから、もしかするとこの回答は他の方達と似たようなことを書いているかもしれませんが、その点は御了承下さい。

*  *  *  *  *

同じものは過去の記憶、過去の経験。
違うものは新しい記憶、そして新しい経験です。

良くも悪くも「経験値」が違います。
積み重ねられた経験値は良い方に転がると自信になり、悪い方に転がると自信喪失に繋がります。

年月の積み重ねと共に経験値がアップして自信が付き、勘も冴え、思わぬ成功を引き寄せることが出来たと気力が漲っていたところ、失敗してそれまでの自信を喪失してしまったり…。
経験とは、成功と失敗と背中合わせで成り立っていると思います。
けれども心身のバランスが良いと、大抵のことは上手く行きます。
それも経験値によるものだと思います。

失敗も成功も経験値として、私に取り込まれて行きます。
同じ川でありながら、その流れが少しずつ変わっていく様に。
その様に私は感じています。
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9,10にいただいた素直な応答が削除されてしまい、つまらない。



回答者の専門性にたいする質問者さんの疑義は、質問を成立させた質問環境に属する、つまり質問者さん自身の限界や可能性の中にある重要な問題だと思う。

たとえば学生がこの質問の哲学的テーマを携えて、どんな専門の道に進むかを決めることは、どんな解を求めているかをすでに選択することであって、
どんな研究の道の途上でも、条件下で一応与えられる解であるということに満足しなければならないことに気付けば、学際的にクロスオーバーする統一的な解など存在しないからこそ面白いのだと考えられるようになるだろう。

そしてまた、学問と知識への過度の期待が薄まって、
「日の私」が同じで「昨」と「今」が違うというそのことを、どんなにややこしく一つの世界像と結びつけながら論じるか、それだけなのだとわかったうえで、質問者さんがそれを楽しめるようになったらいいなと思う。
(わたしは回答内容に即して、どんな人かチェックを入れるから、これは経験者)
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僕の思うところを書いてみますね^^




すべての現象は変化消滅していると考えてます。
なので「一切同じものはない」というのが僕の考えです。

参考になれば幸いです。
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 sannbaka さん


 ご質問は継続して不変の貴方と変化する貴方があるのだという、ご前提であるかの文章表現ですね。
 昨日の貴方と今日の貴方では、貴方の過去になっていない、つまり意識が反省(reflect照射の)内容とできないでいる、主格たる意識が実は変わっていなく、その意識がずぅっと反省(reflect照射の)してきている貴方を含めた走行中の車窓景色がかわっています。
 変わっていない貴方の確認は経験しかありません。座禅もその方法の一つでしょうが、つまり意識だけあって、一切の内容のない状態、無の状態です。
 私は(ハイパーリンクは削除して、)Self-Realization Fellowshipという団体の技法で今はこの無の経験をしています。
 これはコピー、貼り付けで訪問できます。ご研究をお勧めします。いわゆるラージャのヨガです。
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違うところ。



1.昨日勉強した知識
2.昨日忘れてしまった厭な思い出

あと、「給料日までの残りの日数」ってものあるけど、これは給料生活者だけだから哲学の一般化はできないかなあ。

同じところ。
1.生きている。
2.死に向かっている。

あと、「前向きな性格」ってのもあるけど、これは人によって「後ろ向きな性格」ってのもあるから、もうすこし抽象化しないといけないのかな、、、。
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よくある「間違い探し」のふたつの絵を見比べるように、「昨日の私」と「今日の私」の同一性と差異性を知ろうと思えば、両者から等距離にある外部の視点が必要ですし、仮に「今日の私」が現前していたとしても、「昨日の私」がどこかに保存されていて、改めてそれを現前させてやらなければなりません。



ですから、このご質問に答えようとするならば、「ふたつのものを比べる」という方法がそもそも成り立ちようがない、ということがふまえられていなければならないでしょう。

そうではなくて、誰もが「私」という言葉でばくぜんと理解している、生まれてからこの方、昨日も今日も「私」であり続けるという意識、すなわち「自我意識」が、果たして真に行為の主体であるか、として問いを立て直すことが必要であると思います。

質問者さんは
>普遍的自我と個別的自我の綜合
としてまとめていらっしゃいますが、カントがやろうとしたのは、自我のうちに「超越的」と「経験的」というふたつの地平を導入することで、「自我意識」と「行為主体」との関係を明らかにしようとしたのです。「自分が自分である」という意識と、「自分が自分であると意識している行為者としての自分」が等号で結ばれるかどうか。そこで統覚という概念が導入されたのでした。

日々わたしたちが経験するさまざまな行為を媒介にして、「私」という意識は否応なく立ち上ってきます。特定の時間と空間の中に身体を有する「私」が、「自分が自分である」という「内容」として浮かび上がってくる。

一方、わたしたちはよく「人は」とか「人間は」という言い方でものごとを考えることをします。小さい頃から「人のいやがることをしちゃいけません」と言われ、「男ってものは」「女は」と考える。ここでは、自分について考えることは人間について考えることになっています。

なぜそんなことが可能なのか。それは、人間はすべて「自分」という仕組みを持っているからです。誰もが「私」である。わたしたちはそのことを知っています。だからこそ人に向かって話ができるのであり、本を書いたり読んだり、歌を歌ったり音楽を聴いたりすることができるのです。「私」の向こうにも「私」がいることをわたしたちは知っている。それは「私」の内容を知っているのではなく、「私」という形式が同じであることを知っているからです。

カントにとっての「自我」というのは、この「形式」と「内容」の統合作用が切り開く領域です。この統合作用によって、「昨日の私」と「今日の私」は連続していると考えることが可能です。『吾輩は猫である』を書いた漱石と『明暗』を書いた漱石は、その内容において大きな隔たりがあるにもかかわらず、同一人物として「同じ点」と「ちがう点」を論評することができる。あるいは、数十年前に犯した罪であっても、その責任を問うことができるのです。

さて、ここで問題が出てきます。
まったく同じDNAを備えている双子のきょうだいがいるとします。ふたりは外見も性格も同じで育った環境も同一、経験も同じで、他人からはとても区別ができません。けれどもふたりは互いに自分を取り違えることはありません。つまり、それぞれにとって「私」が「私」であり、世の中にたったひとりしかいない「私」です。たとえ寝ていても、夢の中でも、記憶喪失になったとしても、いかなる状態であっても「私」という意識が揺らぐことはありません。経験的主体の個体性に還元されることのない、「自分はたったひとりしかいない」という「唯一性」が、果たして統覚から説明できるものなのでしょうか。この「唯一性」という意識は、あらゆる説明からこぼれおちてしまうものの中にあるのではないか。現代思想というのは、この「なにものか」をめぐるもの、といってもいい。

さて、いいかげん長くなったのでまとめます。

少なくとも、わたしたちは自分が「同一のものである」「唯一のものである」という意識を持っています。そうして、記憶によって、自分の経験した出来事や行為を自らのうちに蓄え、統一している主体であるといえるでしょう。だから、

> 昨日の私と今日の私では何が同じで何が違いますか?

という問いにも、それぞれに思うところを述べることができるのです。昨日までのわたしは逆上がりができなかったんだけど、今日、できるようになった、というふうに。

そうして、人はおびただしい経験世界の中から何をとらえ、どう語るかによって、「自分がどんな人間であるか」を明らかにしていく。言葉を変えれば、その人が生きている「物語」を明らかにしていると言えるかと思います。

こんなところでどうでしょう。
回答になっているでしょうか。
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はは、研究者なんてこんなもんだって。

定義を明確にしながらつまんないあたりまえのことを言うだけ。
宗教家じゃないんだから、ガツーンとくる真理を言うわけではないの。
100年早いどころか、100年後だってつまんない人間が研究者をやっている。

昼と夜がない極北では昨日と今日とは何なのか、
また、一週間も寝ないで起き続けた「私」の昨日と今日とは何なのか、
そんなことでも、わたしは、不思議な問題だな、面白い問いだな、と思うけどねぇ。。。
質問者さんは思わないのかなあ。
精神障害、認知障害からしか照射できない「健全な私」とはどのように「私自身」を再認するか、
こういうことは、昼と夜を時間の正体ととらえたギリシャ哲学に不思議と親近性があるな、と思う。
結局、時間や持続の哲学とは無関係にしか描かれない構図がご質問には内在していて、
それは「私」が「私」をどう認知しうるかということなのだけれど、
そこで「変化」を認識しているのか、「同一性」を認識しているのか、というのがご質問の問題です。
9に書いたように、昼と夜の循環、そして睡眠による生物的機能の「変化」が心身にもたらされなければ、
自己同一性(これは仮象とはいわない)の解釈を連続的に、自己焦点的に維持することができないのですね。
変化があるべきようにあるのでなければ、同一性があるべきようにもたらされないということ、つまり、
「同じあなたが、違うあなたの模様(生体の組織)を、そのつど、
同じあなたであることを再認しながら(アイデンティフィケーションプロセス)、創造している」
というわけですが、質問者さんにご興味のない話でも、数いる閲覧者のなかには、このタイトルから
こうした方向性に興味のある方もいることを想定し、こうして投稿しています。ご了承をば。
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精神医学、現象学、認知科学から見た回答はいらないということらしいですね。


「昨日の私と今日の私が違う」と病気で苦しむ方たちがいますので、
閲覧者の役に立つこともあるかと思い回答したまでです。
カント批判のベルグソンといった立場にはないですね。
フッサール以後しか範疇に入っていないです。

> 個別的に体験される時間の成立する意識はいわば性質的な綜合のようなものであって、空間的運動いおいて連続的に通過されるような中間点を持ちません。そこに現れる意識の並列的諸作用はむしろ非連続的契機を示しているというべきです。

体験される時間とは?
意識は性質的な綜合、そのとおりです。わたしもそのように答えております。
時間の成立に限らず、意識はおしなべて機能的な綜合です。
空間的運動の連続性と比較する意味はここにはありません。
意識の並列的諸作用とおっしゃるものは、
空間的な配置に転換された自己再認について表現しているにすぎないようです。
非連続的契機を示している、とみなされるからこそ、
再認の運動でしかなく、自己同一性の連続する物語であるということをわたしは答えたのです。
「連続する自己の客観的把握による自己」などではない、と書いたのですよ。
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この回答へのお礼

どのような内容の回答が付くかなんで質問時に予想できるわけがないじゃないか。

お礼日時:2010/04/11 01:37

昨日と今日をどのように区切りますか。



メラトニンの血中濃度が高くなる 夜 に、
生物学的なあなたは、眠くなり、体温をさげ、脈を減らし、細胞を保護し、
酵素が微細な組織のなかで秩序正しく働き、体の点検をおこない、
神経細胞の感受性をととのえ、脳と心が照らし合わされ、
日中に活動できる状態に、あなたをメンテナンスします。
分泌されたセロトニンは、日中の活動によって、感受性のよい神経細胞のあいだでよく働き、
日が暮れると働きを弱めて、メラトニンの血中濃度を高めてくれます。

これは、概日リズムといって、あなたに一日をもたらすあなたの中のはたらきです。

万華鏡は、
パーツたちの受ける時間の微かな浸食は観察できませんが、
それらの構成の二度と同じにならない変化を眺めて楽しむものです。
この万華鏡のように、あなたは、二度と同じあなたではない模様を創りつづけています。
あなたが触れた情報は、パソコンのデフラグのように、夜ごと構成しなおされ、
それは 捏造的 に 物語 を紡いでいくあなたの記憶の重要な仕事です。
健全な自己とは、連続する物語をもった自己であって、
連続する自己の客観的把握による自己ではありません。
昨日と今日の、同じあなたが、違うあなたの模様を、
そのつど、同じあなたであることを再認しながら、創造しているのです。

この回答への補足

個別的に体験される時間の成立する意識はいわば性質的な綜合のようなものであって、空間的運動いおいて連続的に通過されるような中間点を持ちません。そこに現れる意識の並列的諸作用はむしろ非連続的契機を示しているというべきです。

補足日時:2010/04/10 10:48
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この回答へのお礼

お礼日時:2010/04/10 11:18

#NO3


 申し訳ありません。【普遍的自我と個別的自我の綜合】ということば表現でのお問いかけにはどう答えていいかわかりません。また更に私の拙答を再度細述ための側面が見出せません。
 #NO3においては、【普遍的自我と個別的自我】ということも、【両者の綜合】ということも頭にはありませんでした。
 先験的統覚というカテ言語はいわゆる古いカント先生が使っていたようですね。それは認識批判いっぱんにおける前提された自己性記憶とでも言うのか、一人でも、一般でも、どちらかというと広がりの問題ではなく、奥の根っこに向かうもののようですね。
 私は55年も前の読書での借り物で、カント先生とは必ずしも同じ概念ではなく(カントは今、ある意味において根本的に否定しています)、ヒンドゥ的主格たる意識存在をいい、個人でもあり普遍でもあります。doerとperformerとの違いを認識します。

この回答への補足

>普遍的自我と個別的自我の綜合

これはカントがやれなかったことですが、そのような意味にとれました。
再度ありがとうございます。

補足日時:2010/04/09 23:01
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