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私は小さなころから死が怖いです。
死について考えると、世界が何の根拠もないものに思えて、
日常生活というのは全て無意味な勘違いで、私にわかることなんて世界にひとつもなく
私に与えられる意味や価値なんてなにもなく、ただいつか消えてしまうのだと思うと恐ろしくてなりません。

そのような思いがあり、哲学は何かその恐怖を克服するヒントになるのではないかと考えて
大学では哲学をしようかと思ったのですが、一回生次の授業で教授が何をいってるのか全くわからず
(ギリシャの人達は魂をどうの、というような話をしていたとおぼろげに覚えています)
諦めてしまいました。

しかし、このまま生きていって「社会人としての充実した生活」のようなものを送っても
その先に死の恐怖の克服がある気が全くせず、やはり自分は何かをしなければならないとおもい、
再び哲学に関心をもっています。

そこで質問なのですが、
(1)哲学と死の恐怖はどのような関係にあるのでしょうか。
大学での授業はギリシャからはじまったのですが、ギリシャ人の思考は私が死の恐怖を克服するために役にたつのでしょうか。どのように役にたつのでしょうか。
もしそれが死の恐怖の克服に役に立つのであれば、今度はちゃんと取り組んでみたいと思います。
はじめから死の恐怖を克服するという目的をもって取り組むことは真実を探求する学問とは相いれないような気もして
それなら潔く哲学ではなく宗教に取り組んだ方がいい気もしています。

(2)死の恐怖を克服した哲学者はいますか
若い時は死の恐怖で発狂しそうになったけれども晩年は安らかに死んだ
そういう哲学者としてはどんな人がいますか。

(3)今死の恐怖と取り組んでいる人としてはどんな人がいますか
中島義道という人や森岡正博という人の本にははっきりと、自分は死が怖くてその克服のために哲学をしていると書いてあったように思います
他に、そういうことを言っている哲学者はいますか。

(4)最後に、こういう私にお勧めの書籍などあれば教えていただければと思います。
よろしくお願いいたします。

A 回答 (17件中1~10件)

哲学は、人が何のためにどう生きるのかを研究する学問であり、死の恐怖を克服するための学問ではないと思います。


死の恐怖は、生物が生きるために必要なものであり、無理に、克服してはいけないものではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
「哲学は、人が何のためにどう生きるのかを研究する学問であり、死の恐怖を克服するための学問ではない」ものなのでしょうか。
克服するための学問であるかないはさておき、克服に役立つならば取り組みたいです。

生きるために必要なものだから克服してはいけないというのは、なぜだかよくわかりません。

お礼日時:2012/05/25 22:41

「死の哲学」で検索するとたくさん出てきますよ。



確かに、死は恐怖の対象です。怖いものを怖くなくするには、そのものの正体を突き詰めていくという方法があることは確かです。
そこで
死とは何か?これを形而上学的に考え抜いて、それで死の恐怖がなくなる場合があるのだろうか?と私も考えてみました。

これは真であるのか、そうでないのか。

というより、あなたは、なぜ死がそれほど怖いのか?そういう観点からかんがえていかれたほうがより効率的かもしれない、とも思いました。もちろん、これも哲学になりますが、そうならないかもしれません。
死がわけのわからないものだから怖い?
ちょっと違うような気もします。
それ以外にもたくさん答えはありそうです。
私が怖いのは、いちに死の際の苦しみです。そしてこの世界との別れの悲しみを味わわねばならないという怖さです。それらは単に生理的なもの、感情的なもの、そしてものを失う、生きる楽しみが失われるという損得勘定というか、ちょっと情けない気持ちです。

生理的なものはどうしようもありませんが、ひょっとすると回避できるかもしれないという気持ちもあります。
この世界との別れ、これを分析すれば、自分がいなくなったあと、自分が生者(家族を含めて)から忘れられてしまうというやりきれない悲しさ、恐怖のようなものがあるような気がします。自身の喪失。
これは何なのか?回避はできないのか?
私は過去の人間たちのこのような気持ちが自分が死んだ後も自分を思い出させるように大きな墓を作らせたり、永遠を象徴する芸術の創造に励んだりしたのではないか、と思ったりしています。

くだらないことを書いてしまいました。
まったく回答にはなっていないようです。
死の哲学は有用だと思います。頑張って考えていってください。そして死の恐怖を克服してください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

「死とは何か?これを形而上学的に考え抜いて、それで死の恐怖がなくなる場合があるのだろうか?」
まさにその点がきになり、哲学者の実例などに詳しい方がいないかなあと思ってこのような質問をさせていただきました。

私の死の恐怖は身近な人や社会とのわかれ・肉体的苦痛などではなく
死がとにかく不条理で不可知であることによるようです。
死が怖いのは世界が怖いということでもいま生きていることが怖いということでもあるようにおもいます。

お礼日時:2012/05/25 22:45

哲学とは直接関係ないのですが、死の恐怖ときいて、思い当たることがありました。



http://ds-hrdaya.com/blog/?p=1921

こちらのインド占星術師の先生のブログの記事です。

8室に土星を持っている人が、死の恐怖をもっていると書かれています。
(12室のところに明記されています)

あなたの占星チャート8室に土星があるかどうかは不明ですが、
もしそうだったら、それはあなたの宿命であり、克服しなければいけないと焦りすぎるよりも、
むしろそういう自分を開き直って受け止めてあげていいと思います。


わたしは逆に12室に土星があります。

12室のところを読めばわかりますが、わたしはむしろ、生への恐怖、厭生感がつよく
できれば隠者のように、浮き世から離れ静かにくらしたいと子供のころから思っています。

そんな自分ではいけない、なんとか克服しなければ、と思っていたし、
周囲からもあれこれ言われたものです。

12室土星のことを知り、
また人にはそれぞれ別の宿命が与えられており、それに沿うことで幸せになれると聞き、
なーんだそれでよかったんだ、と楽になりました。


現代の人間社会で、人々に認められやすいタイプというのはありますが、
そんな人間視点の都合とは無関係に、
私たちはそれぞれ、違う役割、違うキャラ、違う宿命を与えられて生きています。

その宿命に、よりそうように生きることで、本人なりに落ち着いて、幸せになれるようですよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
申し訳ございませんが、私のさせていただいた質問への回答ではないように感じました。

お礼日時:2012/05/25 22:46

1)哲学と死の恐怖はどのような関係にあるのでしょうか。


  
  ストア学派はギリシャの哲学の一派ですが
  徳と平静を重んじています
  この学派は理性が一番重要だと考えて
  あらゆる感情から解放された状態を魂の安定とし、
  最善の状態として希求します
  当然、死に際しての恐怖や不安も克服の対象と考えます

  ストア学派ほど死を間近に見て死と対峙した哲学は無いです
  理性重視ですから、宗教的な慰めでなく、あくまで哲学として
  不可避の死を正面から見据え、それを粛然と受容する道を選びました
  ストア学派は死を人間の運命であり自然の摂理として受け止めた
  そして死の恐怖に打ち勝つことが死に対する克服と考えていた
  この学派は死の恐怖に打ち勝つ理性的な考え方や方法を説いています

  この哲学は武士道のような感じであり強い人でないと実践できないと思います
  死を恐れないようにするために常に死を思えとか説いてます
  ちなみに、ストイックという言葉がありますがストア学派から来ています
  日々思考の訓練をして心を整えるという感じですかね
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
参考になりました。

お礼日時:2012/05/26 09:08

「死」に直接取り憑かれるのはお勧めできません。


死は、存在とは何か、時間とは何か、自分とは何かという問い全てに繋がっています。
そういった正攻法の哲学からあなた自身が答えを導くことをお勧めします。


私は、「死」ってのは、生きている人間の中にしか存在しないってことに気づいたような気がしてます。

結局、動物や他人の死を見て感じて、自分の死に置き換えてしまう愚行なんですよ。
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ちょっとだけお邪魔します。

σ(・・*)はジョークみたいなもんですから、

本気で取らないように^^; 元代数学の非常勤講師です。

「死」が生きていくことへの恐怖に変わるのなら、それは多分

大きな間違いだと思います。

星 新一 が 面白いこと書いています。

『もしかしたら自分だけは死なないのではないかという恐怖』

σ(・・*)の知るうちに、これ以上の恐怖はないように思っています。

今を生きることは、つまりは死への旅のはず。

その旅を如何に有用に進めるか? そういうことを考える方が、

あなたにとっても、また他人様にとっても、有意義ではないでしょうか。


σ(・・*)たちのような数学屋は、300年かけても解けない問題を

バトンを渡すように、後世に残していくことで、いずれ解ける!と信じます。

σ(・・*)は本物の武士の子孫ですが、それこそ「武士道」なのかもしれません。

「解くのは自分でなくてもいい。後世にヒントが残ればそれでいい」

そう考えれば、ね。


哲学の本はワカリマセン。が、より好い生き方となると

「般若心経」を、薦めます。 漢文ですからね、意味は分かりますし。

変な邪教と違いますから、仏教徒じゃなくても、充分に役に立ちうるかと。


最後に、うちの母親の一言で。

「人間は生まれた瞬間から、老化現象が始まるのよ」

(=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=)
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体は死ぬことを怖がっていないようです。

体の哲学には死の恐怖はないのかと思っています。
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哲学を勉強して、それで死への恐怖が緩和


されるんですか。
確かに、プラトンはそんなことを言っていま
したが。
そもそも死への恐怖があるから哲学が出来た
のかも知れないし。
で、哲学を勉強したら死への恐怖が緩和
されるとしましょう。

哲学を勉強しても、それが血肉にならないと
本当に解ったとは言えません。
血肉とするのは、生半可なことでは出来ません。
本をいくら読んでも無理じゃないですかね。
私もだいぶ読みましたが、理屈が面白いと
いうレベルに止まっています。

簡単に血肉にするには宗教が一番です。
心の底から信仰できるようになれば、死への
恐怖は緩和されるはずです。
その代わり副作用も沢山ありますが。

かつて武士は、子供の頃から真夜中に刑場へ一人で
行き、さらされている首を持ち帰るとか、
墓から掘り起こして、死体を斬るとかの鍛錬をして
死への恐怖を麻痺させてきました。
警察官の知人がいるのですが、死にはしょっちゅう
向き合うそうです。
医者や警察官になる、という方法もあるかも知れませんね。
私だったら傭兵を志願します。

死体の写真やビデオを繰り返し観て、麻痺させる
という方法もあるそうです。

あと、これは私が実際に試した方法ですが。
夜、一人で床につきます。
仰向けになって両手をお腹に置きます。
そして、自己暗示をかけます。
「俺は死ぬ、俺は死ぬ」
そうすると本当にその気になってきます。
私は怖いので一回しかやっていませんが
疑似体験ということで意味があるかも
しれません。
 
  
 
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哲学は、生物学や物理学といった個別の対象について


の知見の間を埋め、世界観や価値観といった総合的な
認識を深めます。
それは、あなたが生きている上で感じている“意識”を
より鮮明なものとし、意志の充足を刹那的・一過性の
衝動的な快楽から、遠い先や広い対象による幸福感
へと深めます。

さらに、その意志の起点となる“自己”いついても、
認識の深まりによって、分業化による社会性の発達に
応じた社会生命性の自覚化により、自己の生の延長
としての他我化(自律的社会行動=助け合いとしての
労働=愛によって生きる)が可能になり、自己の肉体を
超越した意志により、肉体的限界によらず、永遠の未来、
無限の宇宙において(「他」への信頼の限りにおいて)、
あらかじめ意志は充たされる事が可能になる。
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 お勧めの書籍の冒頭部分を紹介しますので、まずはここで哲学してみてください。


 宗教に取り組んだ方がいいのかも、と迷っているようですが、既成の教団に「答え」を見いだせるような問いではなさそうに思います。

 佛心は大慈悲
 如来は大慈愛の化現、全体愛にまします。経に佛身を観る者は亦(また)佛心を見る。佛心とは大慈悲是(これ)なりと。
 佛身の相好円満、無尽の光明全く愛ならざるはなし。故に大愛の権化たる佛(ほとけ)の相好を瞻(みあげ)る時は満腔(まんこう)の慈愛にうたれて佛心の大慈悲なることも思はざるをえぬ。如来が全体愛を以て光明常に我等に注ぎて愛化し玉(たま)ふ。此の慈愛に育まれたる我等は満腔の愛を以て如来を憶念せざるをえぬ。
 親愛
 如来心光の三霊能の中に於いて親縁(しんねん)とは大なる愛、即ち大慈悲心と衆生の感情的信念との感応融合によりて心情を美化するの霊能なり。即ち太陽の熱線に比例すべきものとす。
 斯(こ)の大慈悲の霊熱に感応する人の心情は平和、歓喜、妙楽、安穏、感佩(かんばい←感謝の意)等のすべての心理上の最も優美なる高尚なる微妙(みみょう)なる甚深なる言ふべからざる不可思議的感情の状態なり。譬(たと)えば若(も)し太陽の能力より起こす所の温熱なからんか、地上の有機物が生存し能(あた)はざると同じく、如来大慈悲の霊力に依らざれば人の清き生命は生存すべきものにあらず。

 大なる愛の光は温和柔軟にして能(よ)く人の心霊を生息せしむ。新鮮なる活気は聖きに呼吸せしめ、三昧の妙味に霊の生命は保存せらる。無限の妙楽と自然の歓喜とは如来の泉より湧く。
 されば人は如何なる嶮しき艱難の坂、困苦の峠に臨んでもまたは失敗の谷に陥(お)ち失意の抗(あな)に陥ちいるも、暖かなる慈愛の光は照らさぬ隈(くま)なく平和と慰藉(いしゃ)とは何れの時にか与え給はざらむ。

 如来の慈愛の温熱(あたたかみ)は人をして寒慄(みぶるい)せしむる畏怖(おそれ)にも憂悲苦悩(しんぱいなやみ)のなかにもその心情を融和(とか)して、而(しか)して安穏と歓喜とに美化せしむ。

 麗らかなる春の和(やはらか)き温(あたたか)き霊気に霊酔せば、いつしか憤怒(いかり)恨戻(うらみ)嫉忌(ねたみ)復讎(あたがえし)などのすべて害他的の悪しき動機は麻痺して而して温和、同情、博愛、同喜などのすべても愛他の心情起こるならむ。

 若し人、一たび此の大なる慈愛の浩気に呼吸せる霊(きよ)き生活を経験せんか。この霊気を離れたる妖霧魔塵の萬丈【非常に高く、あるいは深く】なる大気の生息は実に耐えざる所なり。吾人は謂(おも)ふ、如来の慈愛なる親縁を離れて肉のみの生活はいかに長き壽(いのち)も欲せざる所なり。

 親縁(しんねん)とは如来の無限なる慈愛より衆生の感情等の内容に加被し給ふ勢力(ちから)にして、人の方よりは如来を深く愛楽(あいぎょう)し奉る信念に相応し融合する本質なり。如来は大慈愛の親縁を以て衆生に加へ給ひ人は愛楽をもって之を念持し、衆生佛を憶念すれば佛も亦、衆生を憶念し給ふ。如来を愛し上(たてまつ)れば如来も亦、衆生を愛寵(あいちょう)し給う。相愛親和の相互する所に不可思議的神秘の融合を感ず。

 吾人が感情の信念に霊的愛慕し上(たてまつ)る如来の恩容を観じ奉れば、いと麗しく妙に、いと勝れて美に、威厳殊に魏(たか)く相好独(ひと)り勝れさせ給ひて、信念のある所に表現し給うは何ぞや。如来の勝応身が相好円満にしていと美しきを示し給うは、衆生に対する大なる愛の権化にましまさずや。是、大慈悲の表現にましまさずや。之に対する衆生の宗教衝動は霊的憧憬とし、神的恋愛とし之を葵仰(きこう)し之を憶念して止(や)まず。斯(か)かるを感情の信念とす。

 如来は唯、無縁の慈悲を以て遍(あまね)く法界に充満し、而して衆生の精神の内容なる心情に融合し、而して神秘的に融合し、神人合一の妙機に歓天喜地の感応を人の心情に与え給ひて、世に吹き荒(すさ)む八風の為にも心を動揺せず、いかなる境遇(ばあい)に臨んでも泰然として心廣く體肝(たいゆたか)に自然に幸福ならしむるは、人の情操に与えらるる恩寵なり。【山崎弁栄(やまざきべんねい)著・光明の生活】 


 ☆ もしこの文章から「佛心=慈愛の心」を感じ取れたなら、keisukeさんには“適書”と言えるかもしれません。
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