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ベルクソンは何故直観を重視したのでしょうか。
哲学はまったくの素人ですのでわかりやすくご解説いただければ幸いです。

A 回答 (2件)

直観という概念は、ギリシャ時代に根っこを持つものですし、中世のキリスト教とも密接に関連があります。

そこからさらに、スピノザ、カント、さらにシェリングへと続いていく認識の一形態として考察されてきた系譜がある。もちろんベルクソンの直観も、そうした歴史をふまえたものです。あるいはフッサールの「現象学的還元」も、西田の「純粋経験」も直観を扱います。

いずれにしても、「概念」とか「観念」とか、あるいは「経験」とか「理性」とか、西洋思想の根幹に密接に関連する概念ですから、この語は歴史を背負っている。
ところが「直観」という訳語だけでは、その概念が持っている言葉の歴史のようなものはうかがい知ることもできませんし、そもそもこの言葉は仏教語からの転用であると、どこかで読んだ記憶があるのですが、その背景すらもわたしたちは切り離されています。

この語の持つ歴史と無関係に、単に言葉として理解しようとすると、そもそもが言語によらない認識を指す語のわけですから、やはりよくわからない、ということになってしまいます。たとえば「理性」や「経験」にくらべても格段に、この概念は理解しにくい。それだけに論じる人によって厳密な定義がなされているわけですが、それでも、少なくともわたしには、誤表記されることも多い(ことの方が多い?)「直観」が指し示すものが、はっきりとはわかりません。
ですから、回答もはなはだおぼつかないものであるということを、まずご理解ください。

> ベルクソンは何故直観を重視したのでしょうか。

というご質問には、19世紀後半の、あらゆる学問領域をおおった実証主義的傾向に対する批判があったから、と答えるのが一番教科書的な答えなのかもしれません。

実証主義というのは、事実を事実で説明し、現象の背後にそれをこえたものを想定したりはしない態度です。つまり、意識の外部に、客観的世界が確固として存在することを前提としています。オーギュスト・コントが提唱した実証主義は、社会学や哲学を始め、さまざまな領域に大きな影響を及ぼしていくのですが、一方、それに対する批判も、20世紀を前後して起こってきます。その代表的な哲学者がフッサールであり、またベルクソンだった。

おそらくこのご質問は、「直観」をエラン・ヴィタール(生命の躍動)と関連して展開した『創造的進化』が背景にあると理解しています。
現代のわたしたちはどうしてもこのタイトルの「進化」を、一種のレトリックとして受け取ってしまうわけなんですが、当時のベルクソンにあっては、なによりもスペンサーの社会的ダーウィニズムによる機械論的進化論を批判するための書、文字通り、機械論的進化論に対抗する意味での「創造的進化」という意味があった。

今日ではナチズムが理論的支柱としたという経緯もあって、社会的ダーウィニズムなど省みる人もいませんが、人間は遺伝と環境に支配されつつ生存競争をおこない、不適格者は社会的に淘汰される、という思想は、19世紀末には大きな影響を与えます(たとえばそれはゾラの小説などにも見て取れますし、芥川龍之介なども一部その影響を受けているように思います)。

あるいは『意識に直接与えられたものについての試論』にしてもそうです。いまのわたしたちは、やはりこの本を読むとき、時間論として、時間の空間化といったところに意識は向かうんですが、これも、なによりも社会的ダーウィニズムの決定論に、人間の自由を対置することに主眼が置かれています。

さて、そのうえで、ものすごくおおざっぱに『創造的進化』をまとめてしまうと、ベルクソンは物質と生命を対置させて考えます。
一方、人間の能力としては知性と本能を対置する。

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知性は対象のまわりをぐるりとまわり、対象について、外からできるだけ多くの観点をとり、この対象を自分のもとに引き寄せるが、対象のもとに入り込むことはしない。しかし直観は、生命の内部そのものへわれわれをみちびくであろう。直観という言葉で私がいおうとしているのは、利害関心を離れ、自己自身を意識し、その対象を反省し、それをかぎりなく拡大できる本能のことである。

 この主の努力が不可能でないことは、人間には通常の知覚とならんで、美的能力があることによってすでに示されている。……芸術家は一種の共感によって対象の内部に身を置き、直観の努力によって、空間がかれとモデルとのあいだに介在させる障壁を低くし、それによって生命の意図をとらえなおそうとする。
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(『創造的進化』引用は市川浩『ベルクソン』の抄訳p.264から)

ここでも言っているように、知性は物質を考察することはできるが、生命や人間の意識を知ることはできない。だが、直観によって生命の内部へと入り込み、内面から生きることができる。美的直観は個(この場合はモデル)にしか到達しないけれど、この本能的共感が知性と結びつくならば、生命の全体と拡がりをひとしくする意識が得られるのではないか。
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 実のところ意識は単に道すがら邪魔な荷物を捨てただけではない。貴重な財産をもあきらめなければならなかった。意識は人間においては、なかんずく知性である。意識は同時に、直観でもありえたし、あるべきであったと思われる。直観と知性は、意識的な作業の二つの対立する方向をあらわしている。直観は生命の方向そのものへ向かう。知性は反対の方向へ進み、こうしてまったく自然に、物質の運動に合わせて調整されている。完全無欠な人間性があるとすれば、それは意識活動のこの二つの形成が十全に展開するにいたった人間性であろう。……事実は、われわれが属している人格性においては、直観はほとんど完全に知性の犠牲になっている。
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(引用同)

こういったところで回答になっているでしょうか。

この回答への補足

補足は次回の質問にに回しますので宜しくお願いいたします。

補足日時:2007/12/16 12:35
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この回答へのお礼

ghostbusterさん、お待ちしておりました(笑。

後ほどゆっくりと補足させていただきますので宜しくどうぞ。

お礼日時:2007/12/11 18:58

学問の方法論ということにこだわりすぎるのは、本質を見失うという点を重視したのではないでしょうか。

それを言い換えれば「直感」を重視する。つまりは、理性ではなくもっと本質的な感覚ですね。
彼の業績の中で、脳の活動と精神作用についての研究がありますが、結局唯物的に脳を追っても精神には到達できないということがわかったわけです。となれば理性が対象にできるもの(やはり唯物的になりますよね)には多くを期待できないということです。

この回答への補足

補足は次回の質問にに回しますので宜しくお願いいたします。

補足日時:2007/12/16 12:39
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この回答へのお礼

garcon2000さん、ご回答ありがとうございます。
今時間がありませんので後ほどゆっくりと補足させていただきます。

お礼日時:2007/12/11 18:54

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