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最近家族の身に起きたことで強く思うことがあるのですが、
アイデンティティーは当てにはならないと思いませんか。
思考が正常に機能しているときにしかそれは使えないしそれは、記憶の蓄積した結果なのですからそもそも不確かなものです。
私がshift-2007であることを忘れたとしても私が私であることには変わりはないのですから、今思考が正常に機能しているうちにアイデンティティーに依存しない精神を作り上げておくのがよいと思われないでしょうか。
お前はだれかと問われても「知らん!」といいながら普通の生活が出来る人、こういう人は最も強い精神の部類に入る人ではないでしょうか。

それが出来るのは哲学系の私たちだけではないですか諸君。

A 回答 (13件中1~10件)

シフトさんのおっしゃるのは、アトリビュートです。


アイデンティティというのは、己が他人ではなく己だということのみを指します。
他人の記憶とすり替わっていると訴えたり、
感じたり信じたり願ったりしているのは自分ではないと訴えたり、
経験の中心に他人が居ると訴えたり、
しないことです。
ヒト以外の動物にもアイデンティティがあります。
シマウマやトムソンガゼルを食らうライオンが、
自分には食欲がなかったのだけれど、
というような認知不協和を起こすことはまずありえないでしょう。
また、逃げなくちゃ捕まって食べられちゃう、とばかりに
ライオンがシマウマに混じって逃げ走ることもありえません。
山の動物も里の動物も、
餌場、排泄場所は縄張りとして、自己の中心性や生存の優位性の保全につとめねばなりません。
そうして得られる睡眠や生殖の条件が、動物のアイデンティティを支えているのです。
何にもすり替えられないものです。

他の動物に比べ、ヒトは、大脳が発達しすぎています。
ヒトは非常に多くの予測を常に抱えており、また、習慣性も甚大に持っていますから、
いわゆるゴールの微細な揺れに応じた、繊細な自己焦点化をおこなうのです。
痴呆症や認知障害や記憶障害のケースで人がどうするかというと、
状況のつじつまに合わせて自己を修正するのですから、驚いたものです。
当てにならない不確かさということで言うならば、
「私」が何者であるかということよりも、
今その瞬間のその場しのぎで、他者から見える自分を
状況に合わせて取り繕える能力が優位に残るということのフレキシブルさのほうが
ヒトという存在をまざまざと照らしています。
それこそ、自分がライオンなのかシマウマなのかわかっているし、他の犬の尻を嗅いで縄張りを保持することもわかっているという具合で、
ボケてもとぼけても忘れても、迂遠やまわりくどさを経て利益を自己の方向へ絞ることができるのです。
それは、ヒトのアイデンティティがぶれていないことの証なのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

属性という考え方はよくそれを表現していると思いました。
もう少し思索にふけろうと思います。

お礼日時:2012/08/18 21:25

こんにちは。




「君子、豹変す」

しかし、「人から言われて、そうなった」というのでは、いかがなものか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

きっかけはどうであれそうなったのなら良しとしましょう

お礼日時:2012/08/18 21:26

#9です。



>しかし彼らはいわゆる本能のままの存在でしょうか。

感情があるので本能的な欲だけの存在と考えることはできませんが、「我あり」と思ったりはしないでしょうね。

>彼らは彼らなりに人間社会の中で生活しているわけですから我々にそれが出来ない訳はないと単純に思うのです。

彼らの生き方に学ぶべき点は非常に多いと個人的には思います。
下手な宗教よりよほど含蓄のある人生、もとい、犬生であり猫生じゃないでしょうかね。
まあ、人に・・・もとい、犬によりけりであったり、猫次第であったりするのでしょうが。
(わたしは飼っているわけではありませんがどちらかと言うと猫派でしょうか。古い昔に一度生まれたての捨て猫と数ヶ月同居したことがあります)
  
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そうなんですね、彼らには学ぶべき点が色々あると私も思っています。

お礼日時:2012/08/15 21:30

自己が再帰的に認識する自己のアイデンティティーの存在が、


たとえ『無心』の自己によって暫時的に失念されていましても、
他者達が自己の外部から…。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

他人様のことは関知しないといたしましょう。

お礼日時:2012/08/14 22:34

ウイキによると


>「これこそが本当の自分だ」といった実感のことを自我同一性と呼ぶ。

といった記述があります。
自己同一性でもよいと思いますが、アイデンティティという用語が適用されるのは、人間が自らを客観視する(できる)生き物であるからなのでしょう。
そこには見る自分と見られる自分という構図が好むと好まざるとに拘わらず存在するわけで、これが動物とは異なる点であり、ある意味では(神経症の惹起要因となり得るため)厄介な構図と言えないこともないと思います。
その意味で確かに
>アイデンティティーに依存しない精神を作り上げておくのがよい

というのは的を射た着眼ではありますが、上の(客観性という)構図は、本能のみで生くるにあらず、という前提で人間という種が誕生したことも意味しているはずです。
たとえ本能の壊れた動物であると揶揄的に捉えられたとしても、本能が壊れなければ人類という種そのものが存在できなかったのですから(とわたしは思いますが)致し方ありません。
>お前はだれかと問われても「知らん!」といいながら普通の生活が出来る人、こういう人は最も強い精神の部類に入る人ではないでしょうか。

「普通の生活」の意味を好意的に解釈すれば、『「知らん!=そんなことはどうでも良かろう!」と言い切る自分』を暗黙のうちにアイデンティティとして自ら確立していることになると思います。
本能のままに生きていないのであれば、自我が存在するわけですから無条件に「知らん!」という物言いはできないはずです。
「わたしはそのようなことは関知しておらない」という意味での「知らん!」ということになりますから、それ自体がアイデンティティである、という構図。
アイデンティティは認識するものではなく、本来備わっているものであると解釈すべきと思います。
アイデンティティが当てにならないのではなく、純粋な本能を放棄した人間が巧まずして備えざるを得なかったひとつの機能(構造)と考えるのが自然ではないかと思います。

>私がshift-2007であることを忘れたとしても私が私であることには変わりはないのですから、

「私が私であることには変わりはない」という確信自体、アイデンティティ抜きでは難しいと思います。
自分であることを忘れた段階で、アイデンティティに依存していないことにはなるわけですが、同時に私が私であることも認識していないでしょう。
たしかに怖いもの無しになるわけですが・・・。
   
    
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

アイデンティティーという存在を意識しているのも別のアイデンティティーであるということですよね。
ここは私もはっきりとはしないのですが、例えば犬や猫にはアイデンティティーがあるとは思えませんね。しかし彼らはいわゆる本能のままの存在でしょうか。
彼らは彼らなりに人間社会の中で生活しているわけですから我々にそれが出来ない訳はないと単純に思うのです。
まあ、現時点では想像にすぎないのですが。

お礼日時:2012/08/14 22:32

>お前はだれかと問われても「知らん!」といいながら普通の生活が出来る人、こういう人は最も強い精神の部類に入る人ではないでしょうか。



目の前の問題解決にアイデンティティが役立つというのは、ほぼマイナスの効果以外考えられないのですから、おっしゃるとおりでしょう。
そもそもアイデンティティとは主観的な印象の堆積したものですからゴミです。

>それが出来るのは哲学系の私たちだけではないですか諸君。

「哲学系の私たち」というのもアイデンティティですから
哲学的なツールに限定した時点で目標からは遠ざかっています。

とはいえ、ブッダの境地のひとつの属性とはおっしゃるような状態だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

おっしゃる通り、哲学にこだわるなら無理なのでしょう。
ここら辺からは宗教の出番なのかもしれません。
アイデンティティーを切り離すためには・・・・
まあそれは実践してからご報告といたしましょう。

お礼日時:2012/08/12 21:54

アイデンティティとは自己同一性のことであり、「自分は何者であり、何をなすべきかという個人の心の中に保持される概念」です。



また、個人のアイデンティティは、肉体が他者と分離しているから生じるものだと思います。

他の回答者さんがおっしゃってるように、自己という概念もかかわりがあると思います。

顕在意識、潜在意識のいちばん底辺に集合意識があるのですが、これは意識及び無意識の集合体です。よく氷山にたとえられますが、海面にあがってみえているところが顕在意識、氷山は底辺でつながってますね。その部分です。
集合意識は心理学者のユングが提唱したのですが、「自己(セルフ)」とも言い換えられます。自我が意識であり、仏教でいう少我、集合意識が大我ということです。

私にとっては集合意識は「人類皆兄弟」のようなところというイメージです。そこから分離した部分が、氷山の部分であり、別の肉体をそれぞれもつ個人、個性というところではないでしょうか。

しかしアイデンティティは意志や仏教などでいうところの「我」とは違い、思考、意志、性格、価値観などの世界で、上でいう「小我」のレベル、「我」はもう少し深い心や魂に近い領域だと思います。
確かに記憶で人生は決まりますが、記憶障害や、脳の停止状態でも、肉体と心は静かに動いていますので、頭と心との相互作用によっても決まるアイデンティティがそこからなくなったというわけでもありません。

解離性障害という心の重い病があります。あまりにも深い心の傷への防衛機制のひとつなのですが、たとえばあるところだけ記憶がすっぽり抜け落ちてしまったり、痛みを感じないなどの深刻な症状が出ます。でもやはり、個人や個性をもつ他に替えがきかない「その人」です。
統合失調症のように、強い抑圧によってアイデンティティを封鎖している人も、集合意識で生きているのです。

または青年期で自我の確立に失敗すると、アイデンティティ・クライシスに陥ります。しかし「我思うゆえに我あり」と考える思考の働きは消えることはありません。

ですから、アイデンティティが自分の本質ではない、とは思えません。

アイデンティティは肉体から魂が離れない限り、確実にそこにあり、「意識」はストレスなどの様々なきっかけによってそれぞれの意識に移行したり戻ったりしているのだと思います。
自我(小我)が危うくなれば、さらに深い意識(大我)に移行するように、瞑想のように意識レベルのコントロールは可能ですが、意志をもってなされない習慣(例えば車の運転や眠っているときは無意識の世界に自然に移行するように)、つまり日常生活においての部分では、むしろ、アイデンティティが必要です。

アイデンティティーに依存しない精神をということですが、では、依存すると決めるのは誰(何)でしょうか?「依存する自分」がアイデンティティそれ自体なのでは?

あなたのすべてを作る要素、しかしすべてではない、それがアイデンティティのひとつ、と考えますが、瞑想などで「我」は無心状態になることはできても、そこから戻ればアイデンティティを持つ自分を自覚せざるをえません。意識レベルの変化によって自分を変えることもできますが、アイデンティティの内容は変わっても、今現在を作っている存在要素が変わることはありません。

哲学家でも人間ですから、いつ強いストレスよって自我が危うくなるかわかりません。それは別の意識に移行したということで、哲学家でも心理学者でもそれはムリです(笑)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

私の乱暴な質問にお付き合いいただきありがとうございます。
集合意識というものは私にはピンときませんので、そういう概念もあるのだなという理解にとどめておきたいと思います。
現代人がアイデンティティー無しに生活することはおそらく無理でしょう。
しかし、私が思うところはそのon,offが出来るのではないかということです。
現時点では意識的にoffにすることはできませんので、おっしゃる通り強いストレスによってアイデンティティーが破壊する恐れがあるわけです。それに伴いそれと一体化している精神も破損する危険性があります。
しかしアイデンティティーの正体は記憶なわけですから、実際には壊れも傷つきもしないわけです。精神も同様に破損するような実態はありません。単にイメージが部分的に破損した程度のことなのです。
なので、アイデンティティーをどうこうするというよりはその連結部分を操作したいわけです。
例えるならお金は必要だし否定はしない、しかし依存はしないということでしょうか。

お礼日時:2012/08/12 21:51

自分が自分である事とは、他人のつけた名前や、


世間的評価によるのではない。
自分のカタチ、自分の感性、そしてどのように環境を
感じているかによる。

量子論的世界像において、存在的な有限性は観察
される事において派生しており、他人なるものもそう
した環境認識いおける認識可能性の射影として生じ
ているのである(評価するのは私であって他人じゃない)。

即ち環境(時空仮説=空間的広がり=予測=未来=光速下)
とは、自己(自我仮説=時間的流れ=記憶=過去超光速)
の必要として相補分化したものである。
そうした自己存在の本質を認識できない、自我の未成熟
において、自我は肉体に拘束され(自己チュー)、その
自覚も、他人の評価に依存せざる得なくなるのだ。
(ここでそれがどうかとと言えば、虚栄心を満足させる
だけの中身のない修飾辞のみの詩作の多いのが現実)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

相変わらず難しいですな。
けど量子論は関係ないでしょう。

お礼日時:2012/08/11 22:08

はじめまして!私はfoosunと言います。


アイデンティティ論は私も最も興味を持つ分野の一つですので、回答に参加させて頂きました。
いきなり学者の言葉を引用して申し訳ありませんが、社会学者のジグムント・バウマンは、「アイデンティティとは、“どういう未来の自分でありたいか”という可能性に関係している」と述べています。
もしこの定義がただしければ、未来の自分を想像していない間は「私=私-アイデンティティ」が成立すると思います。
具体的に言うと、スポーツの試合など何かに熱中している時の自分は、アイデンティティを意識していないのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

はじめまして、ご回答ありがとうございます。

確かにいわゆる無我夢中という時には私はアイデンティティーを意識することはないですね。
生まれたばかりの赤ん坊にはアイデンティティーはなさそうですが、彼らの自己主張は我々をはるかに凌駕していますから面白いです。

お礼日時:2012/08/11 21:34

shift-2007さん訪問しました。


ご回答の多くの各位様もご質問の趣旨を充分受け取っておられる様子ではなさそうです。

つまり“アイデンティティー”とか“存在する私(意識というか)”ということの受け取り方でありましょうし、shift-2007さんの定義と説明の問題もあるかと存じます。

【思考が正常に機能しているときにしかそれは使えない“アイデンティティー”】とは、思考という行為と概念的認識、そしてそういう行為の結果ということですね。

【記憶の蓄積した結果】という内容を以って、“アイデンティティー”という場合もあり、多くの場合や人においてはそのとおりですね。そして確かに仰せのように、それは【不確か】ということもいえます。

【shift-2007であることを忘れたとしても私が私であることには変わりはない】から、【思考が正常に機能しているうちにアイデンティティーに依存しない精神を作り上げる】ことをやっているのが、私達、Yogaの一つ、Self-Realization Fellowshipという会の修行です。
それは自己の根源、つまり自己って何か。
そしてshift-2007さんと同じように、私って結局、結果内容だなぁ。ということ。つまり自己たるものと私というものの相違について自らの内に、確認すること。その実現をしていくことなのです。

その区別ですね。
でも【お前はだれかと問われても「知らん!」】ということにはなりません。
明確に提示しますし、そうなってからが本当に自己なる存在ということです。
以上ご参考になれば幸いですが、単なる教理ではありません。無論心身の強化と生活の正常化は不可欠です。

【このことが出来るのは哲学系の私たちだけ】ではありません。
これはどんな教えや経験を経ても、人という存在の、自分と世界に対する宿命的任務です。
反対意見を述べて申し訳ありませんでした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

確かに宿命的な任務ですね。
ただ、小学校、中学校、高校、大学のように段階を踏まなければならないとするならアイデンティティーという存在を否定しようなんて考えるのは哲学系か宗教家じゃないでしょうか。
普通の人からすれば自分が自分でなくなるのは恐怖以外の何物でもないでしょうから我々は先を行っているというのは間違いないと思います。

お礼日時:2012/08/11 21:30

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