街中で見かけて「グッときた人」の思い出

とても落ち込んでいるときすべてを話せる友人がほとんどいません。 ご飯にいく友人は結構いるのですがその中で本当の心のうちを話せる相手は一人くらいです。その他の友人には自分の話を深くまで話せません。自分の中で普段話していて 話しを深くまでする気になる相手とならない相手がいて 一緒によくご飯にいく友人でも 深入りな話がしにくい相手がいます。 ご飯を食べる友人は確かに結構います。けれど信頼 信用できる友人は一人 二人です。
そんな人は多いのでしょうか。みなさんは心のうちを話せる友人は何人いますか。

A 回答 (2件)

私は1人は居ます。


1人も居ない人もいますから、
居るだけで幸せだと思っても良いと思います。

人は自分の意思で生きていると思いがちですが、
生まれて今まで生きて経験した事の蓄積が
今のその人を作っているだけです。
本人の意思がどうこう語る人は、
自分の気分がスッキリする矛盾に溺れているだけです。

人は殴られれば殴り返したくなり、
罵られれば罵り返したくなります。
相手が親、集団など反撃するとより酷い報復を受ける場合
対象は他の弱者になります。

人は他人の悪口を嬉々として言っている人を見ると
「こいつは影で自分の事をどう言うか解らない」
とみなし信用せず心を開きません。
しかし、
他人の悪口を嬉々として言う人は
親や集団に悪口を嬉々として言われた元被害者ばかりです。
人を殴る人も、命を残虐に傷付ける人も同じです。

その現実を見ずに、
「あいつは信用できない」「あいつは狂ってる」
そうした表層的な評価・判断しかできない、
人間を浅はかにしか理解できていない為に、

冷静に客観的に相手を観察し、問題を正しく理解できず、
気持ちの良い感情論で他人を否定し、
犯罪を厳罰にしてしまえ と考えなしに口にします。

生まれながら親や周囲に虐待され、
苦痛にまみれて生きて来た人にとって
厳罰化など、1人殺しても1億人殺しても同じという
無差別犯罪に走らせる狂気にしかならない事を理解せず、
考えなしに口にできるのが、今の社会の現状です。


苦しんだ人でないと、わざわざ他人を傷付けません。
他人を傷付ける人は信用・信頼されず孤独に近付き、
その苦しさから更に人を傷つけます。

脱線がちな話しですが、
「あなたが信頼 信用できる」人は
苦しみを乗り越えられる親や周囲の愛に支えられている人
「あなたが信頼 信用できない」人は
親や周囲の愛がとぼしく、苦しみを乗り越える余力の無い人

ただ それだけです。

これも一種の差別と言えるでしょう。

私も差別しかできない愚かな人間の1人に過ぎませんが。
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家族を除けば2人。

(話題によっては3人)

基準は「この友人になら裏切られて本望」という程度の信頼。
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