プロが教えるわが家の防犯対策術!

今しがた丸の内の出光美術館にて古筆切・古筆手鑑展を観てきました。
www.idemitsu.co.jp/museum/

このような冊子から断簡に分割された古筆切(写本の一部)を手鑑(台紙的なアルバム)に収集し、そのための古筆見(鑑定の専門家)まで歴代に活躍した経緯は日本独自のものです。
格調高い筆跡そのものもさることながら、流麗な文字と美しい料紙との趣が何とも優雅で今でも目に焼き付いています。
手鑑の一つ「見努世友」の名称は、かの徒然草の十三段「燈のもとで古人の書に接する事は、見ぬ世の人を友とする思いがする」に拠るものです。良く言ったものですね。
まるで古人各々の息吹に触れ、当時の情景が感じられるかのようで、現存そのものが全く奇蹟にすら思えるほどでした。

翻って現代は電話やネットの普及に伴い、手紙や葉書でのやり取りがめっきり減りました。
ネットの最たる利点は手間いらずで時間を要さないということに尽きます。
漢字変換や辞書機能も大変便利な道具です。

ただやはりというか、多様な古筆切を観終わったのちに、少々寂しいというか味気ない心地もしたのでした。
私たち日本人は(あるいは隣国にも言及できるのかもしれませんが)、毛筆かペン鉛筆を問わず、書き手の字形を愛で、その人となりや心境に思いを馳せる豊かなコミュニケーションの感性に未だ満ちていると思います。
幾許かの学校教育で字の生い立ちや書き順を習ったところで、ネットが身近な若者たちにとっていったいどれほどの手書きの必要性に迫られ、自ら筆記用具を手にするでしょう。
おそらく大方は「面倒臭いから」との理由で電子機器でのメールを選ぶものと容易に推測出来ます。
また、近年の年賀状の配達総数の減少も同様の理由からでしょう。

ふと、読みづらくはなるけれども、手書きの文章をネットに掲載したとしたら…
私たちのネット上のコミュニケーションはいくらか変化をきたすものなのでしょうか?

いずれにせよ時間と手間暇をかけてゆったりしたためる手書きというのは、既存の紙製の書籍が電子図書に取って変わられるのと等しく、今後ますます一部の愛好家や収集家の懐古的な嗜好と化してしまうのでしょうか。
時代の流れで失せていくであろう手書き文化とそれが育む諸々の情感につき、皆さまのご意見をお聞きかせ下さると嬉しく思います。

A 回答 (1件)

質問者じゃありませんが,昔の人は毛筆にて流れるよな筆法でさらさら揮毫したと思うと,何とも優雅なおもいがします。

そうして流れるような美しい連綿を見ると,たまらない思いがします。

最近は殆ど毛筆文字を見ることがありません。年賀状にしてもパソコンにて書かれたあらゆる書体を見ますが私は心に沁みる思いがしません。

先だって変体かなの百人一首を友達に見せたところ,読めないから興味がないような答えが返ってきました。私は思いました。古筆の文化もお終いかと思いました。

私たちの時代は楷書・行書・草書・篆書・隷書・変体仮名と練習し覚えたものです。更に古筆切を練習したものです。最近は高野切・本阿弥切の言葉さえ聞くことがありません。

般若心経や九成宮醴泉名等の文字は最近見たことがありません。これを揮毫した時代が質問者のお陰で今こうして思い出しています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

sadami10さん、はじめまして。

>先だって変体かなの百人一首を友達に見せたところ,読めないから興味がないような答えが返ってきました。私は思いました。古筆の文化もお終いかと思いました。

そのようなことがあったのですね。
「読めないから興味が無い」ですか…。
でしたら、書けないならなおのこと興味が無くなるかもしれませんね。

私はそれをとても残念に思います。

>私たちの時代は楷書・行書・草書・篆書・隷書・変体仮名と練習し覚えたものです。更に古筆切を練習したものです。最近は高野切・本阿弥切の言葉さえ聞くことがありません。

はい、展示ケースの前で年配の方が懐かしげに語って下さいました。
あれも練習した、これも…と。
sadami10さんとほぼ同様の感想を述べていらっしゃいました。
一様にそれらの美しさを讃えながらです。

般若心経や九成宮醴泉銘にも言及なさっていますね。
たとえば唐代の思想や時代背景、あるいは仏教哲学といったありとあらゆる古典文化に精通していないと、書の道はおよそ立ち行かないものとのご教示とこのたび私は承りました。
心に留めておきます。

ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2012/03/29 14:07

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!