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東京海洋大客員助教授であるさかなクンが、「いじめられている君へ」というメッセージを発表し好評を得ていましたが、どうにも腑に落ちない内容です。

過密によるストレスでイジメが発生する、という説とともに、学校の教室をせまい水槽になぞらえてこのメッセージが取り上げられることがあるのですが、海の中と水槽とで密度以外の相違点や、メジナの習性との関連性について考察はなされたのでしょうか?

同じ密度でイジメが発生したケースとそうでないケースはなかったのか? 比較はしなかったのか?
加害者、被害者、傍観者それぞれの個体の相違点は? 共通項は?


本当に過密のせいだとしたら、一定の密度を超えたら誰にでもイジメの衝動が発生することになります。

しかし、私は小中高と12年間、何度か編成が変わりましたが、イジメが生じたクラスとほぼ同じ密度での学生生活を営んでいました。
ところが、わけもなく誰かをいじめたいという衝動に駆られたことなど一度もありません。

集団行動をしているときストレスを感じなかったわけではないですが、それは問題行動をとる人への苛立ちをより強く感じたのであって、集団行動そのものがストレスの原因ではありません。


そもそも、対談できるわけでもないのにどのようにしてイジメと判定したのでしょうか?
人間同士ですら、イジメでもなんでもないトラブルをイジメと決めつけられることがあるのに。

縄張り、エサ、配偶者、リーダーの座などの奪い合い、他にも同種で攻撃し合うケースなどいくらでも考えられます。


多対一であってもそれだけでは根拠に乏しい。
オオカミや犬の群れにおいて、リーダーに歯向かったものが他の個体から一斉に攻撃される映像を見たことがあります。

魚に話を戻すと、群れて泳いでる中に動きがノロかったり皆と連携して泳ぐことが苦手な個体がいたら、衝突しまくって多対一でいじめてるように見えるかもしれない。

こういった具合に多対一でもイジメとは言えないケースは考えられます。


また、目立つ特徴に気を取られ、その特徴のせいだと決めつけてしまってる可能性もあります。
加害者被害者の違いがありますが、てんかん患者が起こした交通事故を即てんかん発作のせいだと決めつけてしまうようなケースは十分に考えられます。


さて、真相はどうなのでしょう?
身もふたもない話ですが、あのメッセージはいじめられっこの自己否定の気持ちを和らげることとか、学校以外の居場所を探してみようと伝えるためのものであって、説得力を持たせようとしてそれっぽい事例を盛り込んだだけのような気がするのですが。

A 回答 (6件)

さかなクンが書かれたこの文章が、メジナやイジメに対する論文だった場合ならば、信憑性はありませんが、いじめられている子に宛てたメッセージですので正確な研究結果や100%という数字は必要ないのではないでしょうか。

(実際にメッセージ、読みました)

単純に、
水槽にメジナを入れたら1匹がいじめられているように見えた。
その1匹を助けたら、今度は違う魚がいじめられた。(られているように見えた)

いじめている魚を別の水槽に移したら、違う魚がいじめをはじめた。

普段広い海ではみんな仲良く泳いでいるのに。

と、いう状況と自分が学生の頃に経験した事を重ねて書かれたメッセージなのだと思います。

学校では同級生と一緒に、自分を無視していた子が、
学校を離れれば、無視をすることなく共に釣りに出掛けた。

状況が似ていると思いませんか?
水槽と学校(教室)、同じ状況とは言えないのかもしれませんが。

私自身はこのメッセージを読んだ時、勇気の出るメッセージだなと思いました。


質問者さんが言っているように、
いじめられっこの自己否定の気持ちを和らげる事や、自分の居場所を探してみようと伝えたい!
それをいじめられっこ経験者のさかなクンが、
‘さかなクンらしく伝えた文章’なのだと思います。


メジナの習性や、イジメの傾向について知りたいのであれば、改めて調べた方がいいのではないかと思います。
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この回答へのお礼

細かい点を気にしなければ、確かに水槽と教室は似ています。

これは純粋にいじめられっこに向けたメッセージで、過密とイジメの関係を厳密に考察したうえでのものとは言えないようですね。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/04/16 21:24

Jagar39です。

締め切り後にやりとりが続くのはこのサイトの運営趣旨にも反するでしょうから、適当なところで切り上げたいのですが、もう1つだけ。

>いじめられる側の問題点を挙げると決まって出てきますが、善悪にこだわるからこじれるのだと思います

 善悪とは「拘っている」のではなく、少なくとも現代の人間社会ではそのように「規定されている」ものです。
 というより、「いじめられる側の原因」を持ち出そうとする方がよほどこじれると思うのですが。

 メジナがどれだけ凄惨なイジメをしようが、それは「生物学的な現象」に過ぎず、観察者である人間が善悪をそこに適用する意味はありません。
 オオカミだけでなく、凄惨な集団リンチは数多くの動物種で観察されていますが、それは「人間社会における同様の現象」のメカニズムを類推する手がかりにはなりますが、だからといって彼らの社会に対して善悪を持ち込む必要はありません。
 ですが、人間社会ではイジメは「悪」と規定されていて、「イジメがあるか否か」を判定する権利はいじめられる側か第三者の観察者にあるのであって、いじめる側にはない、ということです。

>攻撃の衝動を誘発する要因がいじめられる側にあるなら、加害者ばかり責めたってどうにもなりません

 これまでの回答文、それにさかなくんメッセージをきちんと読めば、こういうことは言えないと思うのですが・・・

 さかなくんメッセージで、「いじめられる個体を集団から排除しても新たな個体がいじめられる」、「いじめる個体を排除しても別の個体がいじめっ子になる」ということでしたよね。
 それは人間社会のいじめでもよく起きることですし、動物でも多くの種で観察されていることだ、とも回答で書きました。

 そこから判ることは、「何でも「いじめられる要因」になり得るので、いじめられる要因の側から解決することは不可能」ということです。

 鶏も「集団リンチ」をよくやります。これは放置しておくとイジメられる個体が死ぬまでやるので、丁寧な管理をする飼養者であれば「イジメ」を発見し次第、いじめられる個体をピックアップして別飼いするのですが、やはりしばしば別の個体が新たな「いじめられっ子」になります。
 鶏なんて全国の鶏が従兄弟だ、という以上に遺伝的には均一化されているので、「いじめられる個体」、「いじめる個体」共に特に要因なんてあるはずもないのですが、それでも「特定の個体が集団全体から攻撃を受ける」現象は日常的に見られます。

>いじめに関する議論が泥沼に向かうのはこのためだと思います

 逆なのでは?
 加害者側が「被害者側にも理由がある」と主張するから泥沼化するのでは?
 どんな理由があるにせよ、「攻撃することが悪である」という価値観にしたがった方が問題がシンプルになると、どう考えても思うのですが。

 そういう単純な価値観でイジメ問題が解決しないのは、繰り返し述べているように、ある条件を満たした集団で「イジメ」が起きるのはある意味生物学的な必然であるからで、いじめる側にもいじめられる側にも特定の「要因」はないからです。だからどちらかの個体を排除してもその場しのぎの解決にすらならない場合が多々あるのです。

 だとすれば最も根本的な問題は、「イジメを誘発する環境要因」にこそありそうなのですが、だかといって人間社会のルールでは「いじめる側」が正当化されるわけではありません。

 例えば「浮気」は生物学的な繁殖戦略の上ではまさに「必然」で、厳格な一夫一妻制を採用しているように見える動物種でも、「チャンスがあれば逃がさない」という現象は普遍的に観察されています。
 でも、だからといって人間社会で浮気が正当化されるわけではないですよね。それと同じです。

 少なくとも「イジメ」が成立する決定的な要素である「無責任な傍観者や追従者」になることは、「理性」で防ぐことができるはずで、多くの場合は加害者側のリーダーになることも「理性」で防止できるはずです。
 それができないのなら動物と同じでしょ、という理屈も「浮気」と同じです。

>一方的に観察するだけなのになぜイジメだと言い切れるのかと気になった次第です

 「イジメ」はある意味では観察事実であり、いじめる側の要因やいじめられる側の要因は問わないからです。
 個々のケースでは要因は考察されるべきでしょうけど、いじめが起きる構図として「何でも要因になり得る」ことが判ってきている限り、「要因」に囚われることが問題の本質から遠ざかり、問題を泥沼化させる原因になるのでは。

 「攻撃を誘発しやすい要因」は確かにいくつかありますが、それは多かれ少なかれ誰もが持っている要素です。質問者さんにも私にもある要因で、それが現実に「いじめの要因」になるかどうかは、その時の様々な条件次第ということに過ぎません。
 その中で「要因」を議論しても泥沼化するのは当然です。

 だとすれば、いじめへの対処は、「いじめを誘発しやすい環境要因」を排除することと(環境要因がはっきり判っていない現状では難しいですが)、「どんな理由があろうとイジメは悪」というルール、しかないのでは?
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 Jagar39です。



>今になって思うと彼は何らかの発達障害であり

 質問者さんはあくまで「問題児」の問題が何だったか、という視点で考えておられるようですが、「イジメ」の問題として考えるのならば、「周囲の反応」を主体に考えるべきでしょう。

>特性ゆえ集団行動に順応できないために起きたトラブル

 ではなく、そのような「問題児」がいたとき、周囲がどう反応したか?が重要なのではないのでしょうか。
 質問者さんも、

>当時の私も、学校から離れ班長としての責任が無くなれば彼とは良好な関係が築けたかもしれません

 と感じておられるのであれば、同じような「問題児」でも、学校では良好な関係が築けずストレスを受けた、別の班長ははっきりと攻撃性を発揮した、ということです。

>しかしながら、いじめられる側に(も)問題があるといった主張に抵抗を感じる人は非常に多く、加害者とみなされた側の言い分は後付けの言い訳と切り捨てられがちな昨今では、被害者にある要素よりも加害者や環境に原因を求めるようになってしまうのではないかと懸念してしまいます

 特定の個人を集団で攻撃する、というような状況では、「被害者にもいじめられる理由がある」などというのは通りませんよ。
 確かに集団攻撃の対象となる被害者にも、攻撃を誘引しやすい「要因」があるのは確かですが、それは「要因」であって「悪」ではありません。それに対し、「攻撃」は「悪」だからです。少なくとも人間社会では。
 それに「要因」は、固有のものではなく何でも「要因」になり得ます。その要因は「攻撃を加える側が選ぶ」ものですから。
 ですから、時と場合が変われば、誰でも「いじめられる側」になり得ますし、ほとんどの人が「いじめる側」にもなり得ます。

 さかなくんが、「いじめられる個体を取り除いても別の個体がいじめられる」、「いじめる個体を取り除いても別の個体がいじめる個体になる」というのは、まさにそういうことです。
 つまり、動物はある状況下では「スケープゴート」を必要とするのでしょう。


 思うに、質問者さんがさかなくんのメッセージに反駁したくなったのは、この文章を読んで過去に自分たちが行ったことが「いじめ」だと言われたような気になったからではないですか?質問者さんの年齢が判らないので、どのくらい過去なのかも判りませんが(さらに例の質問者さんが拘る事例が学校であったことも先のレスで初めて判ったのですが)。

 私はそれが「いじめ」であったのかどうかは判りません。現場を見てもいませんし関係者の証言も聞いていませんから。
 でも、それは本人が一番よく判っていることですよね。
 私としては、「あれはいじめではなかった」ということをさかなくんメッセージへの反論として理由付けをしなければ、という気持ちになった時点で、質問者さんは心のどこかで「自分はあの時いじめの加害者だった」ということを自覚している、と思いますが・・・

この回答への補足

> 確かに集団攻撃の対象となる被害者にも、攻撃を誘引しやすい「要因」があるのは確かですが、それは「要因」であって「悪」ではありません。それに対し、「攻撃」は「悪」だからです。少なくとも人間社会では。

あー、そこに行ってしまいましたか。
いじめられる側の問題点を挙げると決まって出てきますが、善悪にこだわるからこじれるのだと思います。
悪なのは言うまでもないことだけど、どんなに悪だといったところで攻撃の衝動を誘発する要因がいじめられる側にあるなら、加害者ばかり責めたってどうにもなりません。
そういう話をしているのに加害者が自己正当化しているという方向に解釈されてしまう。
いじめに関する議論が泥沼に向かうのはこのためだと思います。


なにかトラブルがあったときに当事者が持つ特徴に囚われ、その特徴によるイジメだと相手または第3者が決めつけた結果益々こじれた経験がいくつかあり、班長と班員の関係もその一つです。
対談が可能な人間同士ですらこうなのだから、一方的に観察するだけなのになぜイジメだと言い切れるのかと気になった次第です。

私の行った行為をイジメではないと主張するかどうかはまた別の問題です。

補足日時:2012/04/28 22:48
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メッセージの有効性は、説得力にあり、限られた紙面で、


イメージし得る、現実的で、インパクトがあり、科学的にも
解釈の差こそあれ、誤りではない真実さが求められるか
と存じます。
閉鎖空間の中に 集団で居続けることの難しさは、人も魚も
同じであることを、沿岸の浅い海で生活し、大きな群れを
形成して活発に遊泳する、スズキ目イスズミ科のメジナ
(Wiki) を例に挙げ、自然界の自由選択的な状況下では
見られない、異常な (集団的) 攻撃性を解消する為には、
閉鎖空間の解消以外にはない、ということを、伝えようと
されているように見受けられ、そういう意味では、現在の処、
科学的にも充分正しいのではないか、と思われます。
バイオスフィア 2、スタンフォード監獄実験 等 (Wiki)
の、いずれも瞠目すべき失敗状況を見ても、それは、閉塞状況
に置かれた対象の気質・能力の問題を超えたものであること
は確かで、閉塞状況を打破できない、ということこそが、
その状況を改善というよりは悪化させているようにみえる、
居住集団自体へと方向転換され、そちらのほうから消極的解消
を試みるような結果にならざるを得なくする、なぜなら、たとえ
それが絶滅であれ、現状を変える、唯一の方法だからです。
そんなことを述べたとしても、集団内に生じた対立構造の弱者
として、被害を受けた方には何の慰めにもならず、却って、
害を為した側の行動を正当化するようになるため、魚は水槽から
出られず、出たとしても死ぬのみでしょうが、人の場合は、
何とかして脱却できる道を探すのを諦めず、仲間を責め苛む
ことで絶望的な逃避をなされぬよう、伝えようとされたのかと
存じます。
余談ですが、同じスズキ目のサバ科の魚のほとんどは、
口と鰓蓋を開けたまま泳ぎ、自動的に鰓を通り抜ける海水で
呼吸するそうで(ラム換水)、泳ぎが遅い時は他の大部分の
魚と同様に口と鰓蓋をパクパクと動かす二重ポンプ換水に
切り替えるのですが、この状態が長く続くと酸素欠乏・窒息
に陥り、死んでしまうそうです (Wiki)。
サバ科の魚にとっては、死に物狂いで泳ぎ続けことによって、
壁を打ち破るか、壁(か仲間か何か)に激突して死ぬまで、
閉鎖空間とは、死そのものに限りなく近い、究極の閉塞状況
なのですね …
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この回答へのお礼

>仲間を責め苛むことで絶望的な逃避をなされぬよう、伝えようとされたのかと
存じます。

確かにそうですね。
あれこれ理由をつけていじめられる側が一方的に悪いと主張する加害者に負けず劣らず、いじめる側が100%悪いと主張する被害者の主張も非常に刺々しいものでした。
相手と戦い、打ち負かすことばかりがイジメからの脱却ではないはずなのに。(加害者被害者双方に言えることですが)
ああいった憎しみの思考に囚われないようにするという点でもこれは有効なメッセージなのかもしれませんね。


回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/04/18 21:07

 No.1のJagar39です。

リンクありがとうございました。さっそく読みました。

 彼らしくてとても良い文章だと思いました。
 別に科学的な根拠云々ではなく、最初から「例え話」なのは明白な語り口なので、この文章に科学的見地から価値判断をするのは適切ではないように思えます。

 それを前提にした上で、先の回答の続きを。

 まず質問者さんがちょっと誤解していると思われるのは、さかなくんメッセージでは「過密」は問題にしていません。水槽という「閉鎖空間」を問題として取り上げているもので、「密度」は彼は問題にしていませんよ。科学的見地から批評するのであれば、これはけっこう重要なファクターです。
 「過密」つまり密度の問題は、確かに一般的に高密度と攻撃性の関連を示唆した動物行動学の報告もありますから、別論者がさかなくんメッセージと密度の問題を結びつけて論じたようなことはあったのかもしれませんが、さかなくん自身はこの文章で密度の問題については言及していません。

 ま、それはそれとして。

>本当に過密そのものが攻撃性を誘発するなら

 No.1でも書きましたが、「過密」というストレスに対する耐性は、個体によって違うのが自然です。持っている攻撃性そのものも個体差が大きくあるでしょうから、たいていのストレスには攻撃性を増すことなく耐える個体が集団の大多数を占めていても不自然ではありません。
 ですから、質問者さん自身が過去に過密ストレスによる攻撃性の増大を経験しなかったことが、「過密→攻撃性増大」の仮説に対する反証にはなり得ない、というわけです。

>なので、過密ってのはその関わらざるを得ない状況の一つに過ぎないのではないかと思いました

 過密というより、「閉鎖空間」がそれにあたるかもしれませんね。
 何をもって「閉鎖空間」と感じるか、というのがまたいろいろ条件が複雑そうですが。特にヒト社会はそもそもが複雑なので。

>問題行動の絶えない班員の関係

 その「問題行動」が、「過密あるいは閉鎖空間ストレスに対する攻撃性の発露」だった可能性は考慮されましたか?
 閉鎖空間というのは、ヒトの場合はあくまで社会性の中の話なので、必ずしも物理的に「閉鎖」されている必要はないかもしれませんし、攻撃性の発露も、判りやすく他人に対する直接的な攻撃を意味しないかもしれません。

>群れの秩序を乱すということであり、人間社会でいえば凶悪犯を警官が取り押さえるとか司法に則り刑罰が下される状況だと考えていました

 この「群の秩序」というのが曲者だと思うのですが、これに関する普遍的な「正義」というのはあり得ないと思います。
 「こいつはどうしようもない」という定評がある人が、ある時そのチームの中に何故かしっくりハマる、という現象は私はいくつか見たことがあります。
 質問者さんの場合は、後任の主任は攻撃性をさらに増大させたようですが、もしかしたらリーダーの人によってはけっこう問題なくチームが回るようなこともあるかもしれません。
 同じことをしてもある人は何となく許されていてもある人は袋叩きにされる、といったような「個体差」はありませんか?私はそんな実例は日常的に見ているのですが。

 ちなみにオオカミのボスに逆らって袋叩きにされる個体の話も、「同じようにボスに逆らった個体は同じような制裁を受ける」という厳格なルールがあって初めて、「ヒトのいじめとは本質的に違う」という論拠になります。
 オオカミや犬の群、というのは現代日本ではほとんど観察不可能ですが、群で飼っている犬だと、「個体による制裁の受け方の差」は普通に存在します。同じことをしても袋叩きにされる個体と何も制裁を受けない個体という差があります。
 同様のことは猿やチンパンジーの社会でも見られます。

 人間社会でも、同じように無茶をしても許されている人と袋叩きにされる人はいると思うのですが。
 「実害を受けた」とは言っても、子供じゃあるまいし、少なくとも成人の社会ではほとんど理由もなく誰かが「いじめ」を受けることはないわけですから、いじめる側には本人もそれが正義と信じてしまっている「実害を受けた」という理由が存在するものです。子供社会ですら、大人から見れば支離滅裂で理由になっていなくても、本人にはそれなりの「理由」があるでしょうし。

 同じことをしてもどれくらいストレスを受けるかは、両者に固有の相性というか感情に起因するファクターがあります。
 社会の中で「リーダー」となっている者が、ある特定の個体に対して攻撃を加えると、それは集団全体に波及する、つまり集団全体がその個体に攻撃を加える状態になりやすいです。(このリーダーは必ずしも組織上の長を意味しない)
 この状態を「いじめ」と呼んでいるのでは?

 質問者さんも含めて、普通の人はそこまでの攻撃性は自制しているわけですが、いじめる側にすれば「相手に問題がある」と例外なく思っているものでしょう。少なくとも私は、「自分は正当な理由なく他人に攻撃を加えている」と自覚している人には会ったことがありません。
 「追従者」はそれを自覚している場合も多々見られますが。

 で、「どんな集団にいてもいじめられる人」って、実はいないように思います。職場では袋叩きにされている人が趣味のサークルでは生き生きと中心的な役割を担っていたりすることも見かけませんか?

 だからさかなくんメッセージは、「この集団だけが世界ではなく、今この集団で自分の価値がないと思いこんでしまっていても、ちょっと外に出てみるだけで世界と自分の関わりが激変することもあるんだよ」ということを言っているだけで、そのこと自体は圧倒的に正しい、と思いますよ。
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この回答へのお礼

>この文章に科学的見地から価値判断をするのは適切ではないように思えます。
そうですね。
学者さんの言うことなのだから検証とかあったのかなと疑問でしたが、割り切って考えるべきでした。


>「閉鎖空間」を問題として取り上げているもので、「密度」は彼は問題にしていませんよ。
厳密に考えるとこの二つは確かに違いますね。
過密が原因だと主張する人が引き合いに出すことがありましたが、文章そのものの論旨としては不適切ですね。


>その「問題行動」が、「過密あるいは閉鎖空間ストレスに対する攻撃性の発露」だった可能性は考慮されましたか?
不潔、原因不明の硬直、沈黙、お絵かきなどの授業中には不適切な行動の継続、注意の無視といったものなので攻撃性とは違うと考えてました。
>判りやすく他人に対する直接的な攻撃を意味しない
これに該当するのかもしれませんが。

今になって思うと彼は何らかの発達障害であり、それゆえのこだわりとかパニックによるものだったと思います。
しかし、ふざけている、怠けているというのが当時の私や教師の解釈でした。
素人判断なので真相は違うかもしれませんが、もしそうであるならばこれは特性ゆえ集団行動に順応できないために起きたトラブルであって、閉鎖空間や過密、集団行動そのものが原因とは言えないと思うんです。
(適切なサポートが行われなかった、という意味では環境のせいと言えなくもないですが)

しかしながら、いじめられる側に(も)問題があるといった主張に抵抗を感じる人は非常に多く、加害者とみなされた側の言い分は後付けの言い訳と切り捨てられがちな昨今では、被害者にある要素よりも加害者や環境に原因を求めるようになってしまうのではないかと懸念してしまいます。

そういう経緯から、その動物の行動が本当にイジメであり環境によるものとどのようにして判定していたのかがとても気になり質問してみた次第です。


>同じことをしてもどれくらいストレスを
(略
>この状態を「いじめ」と呼んでいるのでは?
そういう見方なら、班長としての注意もイジメと言えますね…。


>だからさかなくんメッセージは、
(略
そうですね。
当時の私も、学校から離れ班長としての責任が無くなれば彼とは良好な関係が築けたかもしれません。


さらなる回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/04/18 20:24

 さかなくんのメッセージを読んでいないので、それについては何とも言えないのですが(リンクを貼る等していただければ助かります)、さかなくんメッセージに対する反論である本質問にも論理的におかしいところがあるので、その点について述べます。



 むろん、反論が論理的におかしい、としたところで、さかなくんメッセージが正しい、とするものではありません。


>本当に過密のせいだとしたら、一定の密度を超えたら誰にでもイジメの衝動が発生することになります

 まずここですが、「誰にでもイジメの衝動が発生する」必要はないでしょう。
 実際のイジメの場合も、はっきり意図して"いじめ"を始めるのはごく一部で、残りは無責任な追従者か傍観者に過ぎないわけですから、全個体が過密ストレスに同じように反応する必要はないと思います。
 過密ストレスに対する抵抗性は各個体で異なるのが自然ですし、「ある一定の密度を超えたら、集団内にある一定の確率で攻撃衝動を抑えきれなくなる個体が出現する」という仮定は十分成立すると思います。

 質問者さんの個人的体験については、サンプルが1つでは統計的な意味はない、としか言いようがないのですが、

>集団行動をしているときストレスを感じなかったわけではないですが、それは問題行動をとる人への苛立ちをより強く感じたのであって、集団行動そのものがストレスの原因ではありません

 果たしてそうでしょうか?
 「苛立ち」を感じること、程度は、その集団の数や質(ある程度気心が知れた仲間やほとんど初対面の集団など)に左右されませんか?
 5人のクラスメートで行動するときと、30人の模試などで一時的に集まった集団で、同じことに同じように苛立ちますか?
 そうでなければ、つまりクラスメートだとあまり気にならないことが初対面の集団内では気になる、というのであれば、それは「集団行動そのものがストレスの原因」という面もあるのではありませんか?

>オオカミや犬の群れにおいて、リーダーに歯向かったものが他の個体から一斉に攻撃される映像を見たことがあります

 ヒトの「イジメ」も、そういう一面があると思うのですが、如何でしょう?
 リーダーが"正しいか正しくないか"というのは利害に無関係な観察者が持つ価値観による判断です。
 では、そのオオカミもしくは犬の、「リーダーに逆らった個体」が集団の他の個体から一斉に攻撃されることに、どういう必然性を見いだしているのでしょうか。

 ヒトのイジメでも、イジメられる人が決まる過程やイジメ方に、そういう傾向がありませんか?
 では、ヒトのイジメと動物にしばしば見られる群の中での集団リンチ(チンパンジーやイルカ、鶏など、凄惨な集団リンチが観察されている動物はけっこう多いです)が本質的に別物である、という結論は、相当に慎重な観察と議論を経なければ出せないのではないでしょうか。
 私個人的には、本質的に同じものも多々あると思っています。

 数が多くなる、というより密度が高くなると集団を構成する個体の攻撃性が高くなる、という観察例は割と普遍的に観察されています。
 ヒトは他の動物より社会を構成する要因が遙かに多く複雑ですから、ストレスやそれに対する反応のあり方も複雑でしょうし、単純にこれらの「密度と攻撃性」の話をヒトのイジメに適用するのは危険が多いというのも、その通りだと思います。

 ただ、学術的な記述でもない、「イジメを受けている人へのメッセージ」であるならば、科学的な厳密性よりもそれを読んだ人が救いを感じるか否かの方が遙かに重要だとも思います。

 まあ、最初に断ったとおり、さかなくんメッセージが科学的に妥当なのかどうかは、読んでないので判りません。
 質問者さんの「反論」は科学的あるいは理論的にはおかしいところが多く反論として成立しない、とは思いますが、だからといってさかなくんメッセージが正しいとも限りませんから。

この回答への補足

http://www.asahi.com/edu/ijime/sakanakun.html
すみません、こちらをご覧ください。

>質問者さんの個人的体験については、サンプルが1つでは統計的な意味はない
本当に過密そのものが攻撃性を誘発するなら、クラスや班の編成が何度も変わってるので、その中の一回か2回ぐらいは過密ゆえのイジメを行う側に回ってもおかしくないのでは? と思ったのですが無理がありましたか。


>「苛立ち」を感じること、程度は、その集団の数や質(ある程度気心が知れた仲間やほとんど初対面の集団など)に左右されませんか?
私の経験では親しさ以前の問題で、実害があるかどうかが問題でした。
イジメに関する意見でよく、気に入らないなら関わらなければいいのにというものが出てきます。しかし、私が苛立ちを感じたのは否応なしに関わらざるを得ない状況でした。
その一つが班員の行動に責任のある班長と、問題行動の絶えない班員の関係。
なので、過密ってのはその関わらざるを得ない状況の一つに過ぎないのではないかと思いました。
また、そのいら立ちは彼が団体行動に向かずトラブルが絶えなかったからでした。
(後任の班長は本当にキレてぶっ叩いてしまったので、ストレス耐性の違いといった要素が絡む可能性はありますね)

実害があるのに距離取れなかった、団体行動に向いてなかった。
それ故に膨れ上がったストレスによるイジメを、直接に過密のせいだと決めつけたりはしてないだろうかと疑問に思いました。


>クラスメートだとあまり気にならないことが初対面の集団内では気になる、というのであれば
これは親しさの問題、たとえば引っ越しの際に挨拶かわしてるかそうでないかで隣人の騒音へのいら立ちが違ってくる、というものであって団体行動とか過密の問題とは違ってくるような。

補足日時:2012/04/16 20:55
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この回答へのお礼

>「リーダーに逆らった個体」が集団の他の個体から一斉に攻撃されることに、どういう必然性を見いだしているのでしょうか。
群れの秩序を乱すということであり、人間社会でいえば凶悪犯を警官が取り押さえるとか司法に則り刑罰が下される状況だと考えていました。

しかし見方によっては、それすらも
>動物にしばしば見られる群の中での集団リンチ
と変わらないのかもしれませんね。


興味深い話をありがとうございました。

お礼日時:2012/04/16 20:57

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