No.1
- 回答日時:
江戸時代の各藩は、参勤交代で多大な出費を強いられていたから、幕府に逆らう軍資金がありませんでした。
薩摩が倒幕できたのは、琉球経由での貿易などのノウハウを持ち、金があったからにほかなりません。
武家諸法度により参勤交代、大名の正室を江戸に留め置くなどのきまりをつくって諸大名の力をそぐことに腐心し、また幕府から贈り物をし、間者を差し向けてその贈り物を破壊、幕府からの頂き物を正しく管理しなかったという名目で藩を取り潰すなど、悪辣な方法も用いたようです。
敵対勢力がいなかったのではなく、敵対勢力を大きくさせない工夫をしていたのだと考えます。
No.2
- 回答日時:
改易とか減封といって、
家康から家光の間に何軒の大名がクビになったことか。
百家を越えてますよ。
家康の引いた盤石の体制を、吉宗がぶっ壊した、ということを
「逆説の日本史」が詳しく書いてくれてます。
水戸家の人間が将軍職に就いてはいけなかったのに、吉宗のせいで。
http://www.amazon.co.jp/dp/4093796858
それから参勤交代ですね。
大勢の人間を国元と江戸の間を往復させる。
これではいくら年貢を取ってもどの藩もジリ貧なりますよ。
No.3
- 回答日時:
理由は様々ありますが、「お家騒動と言った内部分裂」の時に大規模な武力に訴えなかった。
と言うのが大きいのでは無いでしょうか?
後継者の決定に武力に訴えないと言う事は「政治的な」駆け引きと取引=話し合いで済んでいた。と言う事です。
下克上の元になった応仁の乱では武力衝突が日常茶飯事。
武力衝突を繰り返す内に主家が消耗して行き、力の衰えた主家に誰も従わなくなった。
と言うのが現実です。(名目はどうであれ)
つまり徳川幕府は足利幕府の二の舞は避けるべく何とか「主家継承者の一本化」に成功していたから長く続いたのでは無いでしょうか?
幕末の始まりは黒船に対する「対応&認識」が朝廷と幕府の間で温度差が出た為に
「どっちが正しいのかわからん」状態になってしまったのです。
内部分裂とは言いませんが、「方針が二つに分かれてしまった」と言うのは事実。
仕方なくではあっても『徳川幕府』と言う1つの方針に従っていればOK状態では無くなったのです。
力に拠る強引な方法であっても、方針が定まらない以上混乱するのは当然。
※近年も「政治がブレていて何も決まらない=アイツじゃダメだ。」と良く言われます。
結果収拾がつかなくなって徳川幕府は政権放棄=『大政奉還』しちゃった訳です。
今も昔も政治がブレていると混乱する。
歴史がそれを証明しているのです。d(-_☆)キラリ!
No.4
- 回答日時:
世の中を、統治する為には、統治する側の力と
統治される側の納得が必要です。
納得が大きければ、それだけ安定する訳です。
徳川家の統治を見ると、この納得の原理が大きく
作用しているのが解ります。
これが大きな原因だと思われます。
1,統治する力
(1)武力
俗に旗本8万騎と言われる軍事力。
(2)経済力
全国で2400万石に対し、徳川家だけで400万石。
金銀鉱山の開発、貿易の独占、貨幣鋳造権の確保。
(3)大名の力を削ぐ。
賦役や、参勤交代、大名間での婚姻の制限。
2,統治される側の納得。
(1)大名に対する改易などの処分が適切で納得がいくものだった。
調べてみると、領主の能力が無いので改易という
ものが殆どであった。
(2)百姓町人商人などの利益をよく守った。
古文書には、百姓ほど気楽な商売はない、
などと書かれたものがあり、百姓は結構ノンキに
暮らしていた。
又、物事を決めるときは、下々の意見を十分に
聞き、その賛同が得られない政策は実行しない
ことが多かった。
百姓は酒を飲むな、たばこを吸うな、などの法令が
定められていたが、今でもそうだが、実際は適当に
やられていて、柔軟に対処していた。
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
体制が継続したということなら、世界には他にももっと長く続いたところがあります。
ヴェネツィア共和国 1000年間も続いています。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7% …
他にも、スコットランド王国、デンマーク王国、トルコ帝国、ロシア帝国、李氏朝鮮、明国なども長いです。
日本の平安時代も江戸時代より長いし、奈良時代は同じ政権と考えればさらに少し長くなります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD% …
徳川幕府だけが長いのではないでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
鎌倉時代に北条家、平安時代に藤原家が、事実上政権運営し、トップは形式化したように、江戸時代中期には老中などが政権運営の中心になり、徳川将軍の親政ではなくなります。幼くして将軍になったり、病弱だったり、政治には関心がない人もいますから。
http://chie.yakudachidata.com/cpdata/cpi/irekisi …
http://biofantasy.fc2web.com/kikaku/shougun.html
こうした体制は、共和国的な面があります。
さらに江戸時代は、一つの中央集権国家というよりは、幕藩体制と云われるように封建連合国家で、いわば小国分立の状態です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E3%81%AE% …
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop …
http://homepage1.nifty.com/saga-t/kappa/daimyou/ …
全国が10国に分かれている程度なら、1つの藩が勢力を蓄えて大望を懐いたり、幕政にクレームを出すこともあるでしょう。 しかし、藩は、ほとんどが狭く、経済力も小さなものに分けられています。その上、政略結婚による連合を阻止する禁制や城郭改修の自由なども奪っています。 他の回答者が指摘されているように、幕府は藩に参勤交代や大工事の負担も命じます。 各地方勢力は、地域内で生きるのが精一杯になります。 表向きでは幕閣が幕政を取り仕切っていますので、不満は、徳川家に向うではなくて、老中などの幕閣に向かってしまいます。
現代では、国家とは離れた位置にある行政府が政治をし、政党政治や議会制政治がされるので、不満は国家体制に向かうよりも、政権や政権政党や政党、議員や官僚などに向かっていきます。 江戸時代も少し似ていて、不満があったとしても、不満を向ける攻撃対象が拡散するような状態でもあったのです。 現将軍を倒す、徳川家を滅ぼす、徳川幕府を倒す、朝廷や天皇家を倒すというようなことは、発想面からも、考えにくいことだったと思います。 隣接した藩相互で利害対立はあっても武力攻撃すれば、取り潰しの憂き目に遭うことは必至なので、武力衝突ではなく幕閣の裁定に訴えるようになってしまいます。
現代世界で、領土拡大欲求から隣国に攻め入る、食糧危機を乗り越えるために隣国に攻め入るというようなことはおきにくいです。それをしたら、国際制裁とか第三国やアメリカなどが介入して目的を果たせないどころか、やられてしまうことがわかるからです。 江戸時代も似ていて、藩は他国を攻撃できない状態です。
江戸時代でも、天草の乱、飢饉などで暴動、世直し一揆、打ち壊し、大塩平八郎の乱などは起きるのですが、一藩の力で静圧できそうもない危険があれば、近隣各藩や幕閣派遣の兵が鎮圧します。
天皇家、朝廷・摂政関白、将軍、幕府の老中
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF% …
は形式化します。
一血統の縦の流れで家系を長期間維持することは現実には難しいので、徳川も天皇家もバトンタッチはします。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D% …
日本がアジアの東端で西側にしか隣国がないこと、隣国との間に海があることなど、大陸と近い九州北部には防衛体制を7世紀から固めていて、実戦歴も4回あり、開戦しても労多く損失も多く、実益が期待できる可能性と考え合わせざるを得ないことなども、日本が他国と戦闘状態にならなかった理由だと思われます。
19世紀以降ならば、火力、艦船、兵站など軍事力が著しく発達しますから、九州北部の防衛線だけでなんとかなる状態ではなくなりました。(現実に、日本各地に異国の艦船が来て騒ぎになります)明治にならなくても、徳川代の続きでも、対外戦争は始まったでしょう。(薩英戦争はおきました)
日本が他国と比較的長期に戦闘にならなかったのは、地理的環境(隣国関係、航海や貿易の広がりがまだ極東まで及んでいない)と軍事力の発達過程が中途半端だったという時代の問題でしょう。
国内で内戦が激しくならなかったのは、明確で不動の元首が存在しない政治機構であったこと、幕藩体制で小藩分立させ、地域での勢力連合結成を妨げたる施策をとったことが基本で、各藩の経済力を削がせる施策がさらに効果を高めたためだと思います。
No.6
- 回答日時:
敵対勢力を抑えこんでいったということですが、
外様大名を改易に追い込んだり、逆に分家に藩の独立を許すなど
懐柔策を施して封建体制(主が封を与えて従属させる)を強化して
きたことを言っているのでしょう。
例えば織田や豊臣の有力な家臣を味方に引き入れておいて
後でつぶす、見せしめになったのが福島正則ですね。
豊臣秀吉の子飼いでありながら、関が原では先鋒を務め、その褒賞として
広島藩を与えながら、難癖をつけて改易、その後釜として広島には
同じ豊臣の家臣で早くから家康についていた浅野長政の子を入れ、
さらに後に分家にも藩を起こさせています(赤穂藩)。
徳川に忠誠を示す者には与えられ、刃向かうものはつぶすという
見本を最初に見せつけたことが大きかったのでしょう。それと
反勢力の旗ふりになる者を作らなかったということも大きいでしょう。
上杉、前田、毛利が連携できれば反徳川勢力ができたかもしれませんが、
豊臣秀頼との戦いの家庭で巧みに3者を分断してきたので。
結局時間はかかりましたが、徳川の敵対勢力になり得たのは毛利家ですし。
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