関ヶ原の合戦の戦勝のどさくさで天下を奪った家康。
果たして奪ったという言い方が妥当かどうかなのですが、
征夷大将軍に任命されて、幕府を開いたことで、法的に
政権を掌握した家康に対し、豊臣家は元の主筋という
法的には何の権力もない存在です。
では、あらゆるコネやカネにものを言わせて秀頼が
関白に任命され、豊臣関白家を復活させた場合、
政権は豊臣、徳川、どちらが執るのでしょう。
鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府 どの時代にも
関白や太政大臣は居ても、政治に口出しはしなかったが、
豊臣関白なら黙って家康のやりたいままにはしないはず。
というより自分が政権を執るための関白就任だから。
たら、れば、は歴史のタブーですが、全くあり得ない話でしょうか。
もし徳川将軍と豊臣関白が同時に存在したらどうなっていたと
考えられますか。
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
多少うろ覚えではありますが、たしか、関白・征夷大将軍共に朝廷(天皇)の臣下だったと思います。
階位からいえば、関白の方が上位になりますが、軍事力の観点から見て徳川将軍家の方が実権を握るのではないでしょうか。
朝廷にも徳川将軍家を抑えられるだけの、軍事力は無かったみたいですし。
ただし、秀頼が徳川将軍家を超える(もしくは、同等)の軍事力を持った場合、豊臣関白家の方が政権を掌握した可能性は高いと思います。
No.13
- 回答日時:
NO.10です。
No.12さんから質問されましたので、再度回答します。もとの質問への回答は済んでいますが、ご寛恕ください。
堀新『天下統一から鎖国へ』(吉川弘文館、2010年)が典拠です。
同書は、秀吉の関白就任を近衛家・二条家の関白職をめぐる争いが原因の「たなぼた」的任官としています。詳細は同書を一読ください。
最初から関白を目標にしていたわけではないかと。
ご回答の趣旨には影響のない些細なことですが、大友皇子が即位したかどうかはかなり議論が分かれているところですね。
小生が推測でこうだろうと代弁しましたが、
これでよろしかったですか。
大友皇子は永らく歴代天皇に数えられていませんでしたが
明治になって正式に歴代天皇に列せられました。
でも、おじさんとの戦いで政治どころではなかったのでは。
では子供の安徳天皇は・・・、きりがないので。
再度の回答ありがとうございました。
No.12
- 回答日時:
>最近は、秀吉は関白だったから政権を掌握できたのではなく、国内で絶対的な支配を展開する中でたまたま関白となり、それを軸にして支配の正当性を浸透させていった、という説が出ています
・以上はANo10さんの回答からの引用ですが、「たまたま」とはどういう意味でしょうか?「天下人」になった秀吉が自分の権威に箔をつけるために、「関白」という最高の位階を求めたのではないのですか?
・関白という最高の官位をもっていたからといって政権を掌握できるものではないことは、末期の足利将軍の例(関白ではありませんが、武家の棟梁としての征夷大将軍)だけでなく、秀吉から関白を譲り受けた養子の秀次を思い出すだけでも十分でしょう。古くは、安徳天皇を擁した平家ですら、源頼朝に滅ぼされてしまった。いうまでもないことですが、頼朝が征夷大将軍の地位についたのは平家を滅ぼした後であって、前ではありません。さらに、古くは「壬申の乱」はどうでしょうか?大友の皇子は天智天皇の後を継いで、天皇に即位したはずですよね。にもかかわらず、後の天武天皇との戦いに敗れたために、政権を掌握できなかった。
・仮に秀頼が関白という官位を得たとしても、家康は、豊臣家の存在が徳川将軍家の支配にとって邪魔になるという判断であれば、豊臣家を滅ぼすことに躊躇しなかったでしょう。関白豊臣家と徳川将軍家が並び立つなどということがあるはずがない。豊臣家が生き残れるとしたら、豊臣家が徳川家にとって豊臣家にとっての織田家と同じような「人畜無害」な存在になったときでしょう。大阪城に頑張って強大な武力・財力を維持していたのではいつかは滅ぼされるのを待つばかりだったでしょう。
たまたま関白とは、巷間言われている所では、
秀吉は最初、足利義昭の養子になって源氏の一員と
なって将軍になろうとしたが「どこの馬の骨とも知れぬ
輩、源氏の血が穢れる」、義昭に拒絶され、では藤原氏の
一員になって・・・。たまたま利害が一致して関白任官成就。
という解釈でよいかと。
また天下に号令をするのに肩書き、法的根拠として、関白位を
用い、辞任後は太政大臣を根拠として天下人として君臨。
秀吉の武家関白制の状態で、秀頼世襲ならどうなっていたか
という、たらればの反則を使う質問ですから、歴史の結果は
明白でも「歴男」を自認するからには、別の角度から見たら
どうかという、いわゆる推測をしてもらいたかった。
正解など無いのですから。では信長の三職推任で、信長は
どれを望んだか。答えがあるのか無いのかさえ分かりません。
度々ありがとうございました。
No.11
- 回答日時:
豊臣秀吉の関白在位
1586年~1591年
5年しか関白に在位していないので、関白というくらいが武家のトップという意識は薄いかと。
当時を生きていた人間にとって、関白は摂関家のものであって、一時的に秀吉が就任しているくらいの意識であって、役職が権力の源泉とは成り得てないような。
鄧小平は、国家主席になったことも、共産党の主席になったことがなくても、中国のトップだった。
トップにたった時の公式な肩書きとしては
中国人民政治協商会議全国委員会主席
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD% …
確かに歴代主席は 毛沢東 < トップだな 周恩来 < No2 だね 鄧小平 < トップだな
けど その次は周恩来の嫁さん その次は 李先念で 鄧小平の下
というように、国家体制が固まるまで、肩書きはあとからくっついてくる感じ。
1600年ころの主力大名、40代と考えると、みんながみんな
「秀吉さん、なんか元々摂関家の親分が名乗っていた 関白に 無理やり就任したんだよね」
というのが基本的な関白観だったんじゃなかろうかと。
関白自体は、豊臣のあと摂関家が就任しており、その摂関家が「おれ関白だから、家康よ俺の言うことを聞け」なんてのはありえなかったように、豊臣の関白でもにたようなもんでしょう。
家康
1603年 右大臣 就任
1603年 右大臣 辞任
秀頼
1605年 右大臣 就任
1607年 右大臣 辞任
秀忠
1605年 内大臣 就任
1605年 征夷大将軍 就任
1606年 内大臣 辞任
単純に朝廷での役職だと 家康は無任所で 現役の将軍である秀忠より秀頼の方が上だけど、
前将軍 家康が日本のトップであることには代わりはない
昨今の、民主党代表=首相vs元代表=一兵卒 の騒動も、
生徒会長野田が番長小沢にお伺いを立てなければ、増税も
出来ない機能不全に陥っている。
晩年の秀吉が野田で、家康が小沢ってとこでしょうか。
秀頼はどこ、誰。
回答ありがとうございました。
No.10
- 回答日時:
関白就任そのものに大名たちが従わせる強制力があるわけではありませんので、仮に関白になったとしても、実質的に強大な武力を有し、諸大名の従属を進めていた徳川の優勢は覆しがたく、あまり大勢に変化はなかったと思います。
ちなみに、名目上の話で言えば、当時の「征夷大将軍」への認識=武家の棟梁ですから、大名たちからすれば名目的にも徳川のほうが従いやすいでしょう。
最近は、秀吉は関白だったから政権を掌握できたのではなく、国内で絶対的な支配を展開する中でたまたま関白となり、それを軸にして支配の正当性を浸透させていった、という説が出ています。
まあアメリカにも、皇帝ノートン1世なる人物が
実在したので、「余が関白じゃ」「あっそ、おい誰か、
お茶づけでも食わしたれ」程度の存在ですね。
回答ありがとうございました。
No.9
- 回答日時:
私は別に歴史の専門家ではなく、歴史愛好家、最近流行りの「歴女」ならぬ、歴「男」にすぎませんが、このあたりのことを書いた歴史書、歴史小説はたくさん読んでいるつもりですが、あなたの意見に対しては賛成できません、はっきりいって、ANo7さんと同じ感想です、この人はなんと能天気なこといっているのだろうか?というものですが、ANO7さんよりはもう少し丁寧に書いたつもりです。
あなたは関西(大阪?)の人らしく、豊臣贔屓のようですが、関東の人間だからといって徳川贔屓ではありません。私だって司馬遼太郎の「関ヶ原」「城塞」、池波正太郎の「真田太平記」に描かれた徳川家康の、豊臣家を追い詰めていく陰険なやり口には、本当に憤りを感じているのです。それだけに大阪の冬・夏の陣で大坂方についた真田幸村、毛利勝永たちの気高さとさわやかさには同情を禁じ得ないのも事実です。
No.8
- 回答日時:
論外ですね!歴史をよく勉強してください!官職だけあっても、天下がとれるものでないことは末期の足利将軍を見ただけでもあきらかでありませんか!将軍足利義昭などは何とかして足利家を再興しようと躍起だった(織田信長の後押しで実際将軍職には就くことができた)けれど、名ばかり将軍で、政権をとれなかった。
官職は天下をとったあとについてくるもので、逆ではありません!大阪の陣の前に、大名を招集しようとしたけれど、豊臣恩顧の大名をふくめて豊臣に従おうとする大名は一つもなかったのは、豊臣秀頼が関白でなくて右大臣であったからではありません!名ばかり「関白」に一家の命運を託そうとする大名がどこにいるのでしょうか?No.6
- 回答日時:
>秀頼が関白に任命され、豊臣関白家を復活させた場合、政権は豊臣、徳川、どちらが執るのでしょう。
徳川将軍家ですね。
豊臣家は、関白ですよね。
関白は「天皇の補佐官」となる機関です。
当時の朝廷には、全国を統治する力はありません。
統治していない機関の官僚は、何も出来ません。名誉職に過ぎませんね。
ですから、信長も太政大臣に(本人の意思と関係なく)任命されても無視しています。
秀吉も、(将軍不在なので)将軍になる事を目指していました。
が、実現不可能と分かり「あくまで天皇に代わって統治を行なう手段」として関白政治を行ったに過ぎません。
対して、将軍は「天皇に任命されて、直接全国の武家支配」が出来ます。
全国各地は、既に武家が統治していますよね。
つまり、全国の統治は将軍が実質的に行なうのです。
>徳川将軍と豊臣関白が同時に存在したらどうなっていたと考えられますか。
もし秀頼が関白になっても、名誉職に過ぎない対応になったでしようね。
若しかすると、高家として生き残ったかも知れません。^^;
逆の考えでは、公家諸法度を制定する程の力を幕府は持っています。
何らかの手段を用いて、秀頼を排除したかも知れません。
清盛が頼朝に情けをかけた事により、平家が滅亡した歴史を知っていますからね。
徳川政権誕生により、豊臣家は種々の因縁を
ふっかけられ、生きることすら認められなかった
かも知れませんね。
回答ありがとうございました。
No.5
- 回答日時:
徳川が政権を取ることには変わらないでしょう。
カギはやはり徳川が「征夷大将軍」であるということです。つまり将軍職にあるということは幕府が開幕しているということであり、その傘下には大名を統制する強固な組織があるということです。その時点で秀頼が関白であっても家康に対抗できるとは思えません。
もし秀頼に家康を超えるようなカリスマ性があったり、とてつもなく戦上手であったりというようなたらればのオンパレードなら話は変わりますが、秀頼が一般的に言われるような人物像であれば、結局は家康に攻め滅ぼされるか、単なる公家で終わるかのどちらかだと思います。
多くの回答が徳川政権なので、小生もそれは
異論はないのですが、わざわざ”たら、れば”と
断ったうえでの質問なので、大胆に豊臣政権の
可能性を探ってほしかった。
JP-21さんはその点に触れられているのですが、
冒頭に徳川政権という結論を掲げたから、
話の展開が狭まった感じがします。
回答ありがとうございました。
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