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 ブディズムの再生はあるか。

 ( a ) 《信仰》という一人ひとりの動態においてしかないのではないか?

 ( b ) 《神を信じない》つまり《無い神を信じる》つまり一般に《信じないと信じる》という類型の信仰を持つと確認することから 再出発することではないか?

 ( c ) なぜなら マハーワイローチャナ(大日如来)やアミターユス(阿弥陀如来)とそれぞれ名づけられた《神とその信仰》が やはり類型的に 上の無神論なる信仰と同等にあり得ていると考えられるから。

   *

 ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。

 |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|

 ○ 神道
 |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|

 ○ ヒンドゥーイズム
 |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|


 ○ ブディズム
 |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|

 |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|

 |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|

 ○ 聖書
 |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|

 |キリスト|無し|名を受け容れる|

 |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|
 
 ○ 西欧古典古代
 |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|

     *

 ( e ) 《神》とは何か? また《信じる》とは どういう経験行為か? を問うことにもなるかと思いますが。

 ( f ) ブディズムは もし死んだのなら 葬送の儀礼をしておくとよいと考えられますか?

A 回答 (19件中1~10件)

 引用していただいた《経》は、確かに文面には「核」は見えませんが、“空”の論法?の無い無い尽くしを思わせます。



 最近手にした岩波文庫『般若心経・中村元訳』に、「この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず、この故に、空の中には色もなく、受も想も行も識もなく・・・」と云う処が“心経”の訳として有りますが、引用していただいた文の内容はこの「核」を通しているが故に、こうした師の表現になっていると解釈してよいのではないでしょうか。

 今回はブディズムを否定しようとするブラジュロンヌさんの「意」が経典の解かりにくさに「因」が在るのだとすれば、私の“二千年以上も前の経典に頼り切っていて、その当時の言葉に囚われている宗教界に異議あり”という立場とクロスするところもあるように思うのですが。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 経典の解かりにくさ
 ★ 私の“二千年以上も前の経典に頼り切っていて、その当時の言葉に囚われている宗教界に異議あり”という立場
 ☆ そうですね。おっしゃるように (1) 翻訳のわかりにくさと (2) 現代の哲学・科学の水準に合わせた解釈や展開 こういったふたつの事柄も 大きくかかわっているかとわたしも考えます。

 ただ この質問にかぎっては そうではありませんで(微妙に違っていまして) ブッダの頭と心の中の・あるいはそれらを上回る境地としての《中核》について問おうとしています。それは 何か? と。


 すなわちそれは
 ★ 確かに文面には「核」は見えませんが、“空”の論法?の無い無い尽くしを思わせます。
 ☆ の《無い無いづくし》が それではどういう《核》を捉えたところから出て来たものか? こういう問題だと思います。
 ★ 引用していただいた(=スッタニパータの)文の内容はこの「核」を通しているが故に、こうした師(=ブッダ)の表現になっていると解釈してよいのではないでしょうか。
 ☆ と見るとすれば その《核》は どういう内容なのか? です。

 ★ “空”の論法?
 ☆ なのだと さらにふたたびわたしも思いますが では それで納得しえたかというと どうでしょう?
 《空》ないしその論法が 《核》だというのは いったいどういうことなのか?




 ですから この質問は このいまの《核》の把握とその処理にかんする問いです。
 いっそのこと 《空》を 神 もしくは《無い神》として はっきりと信仰の問題なのだと言ったほうがよいのではないか? こういう問いです。

 ○ ブディズム
 |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|

 思考や認識としての《論法》の次元を超えて 《神》の問題なのだと見てはどうか? というものです。
 そしてさらに出しゃばった言い方をすれば もうその方法よりほかに ブディズムの再生の道はないのではないか? こういう問い詰めになっています。




 たとえばこうです。
 ★ 最近手にした岩波文庫『般若心経・中村元訳』に、「この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず、この故に、空の中には色もなく、受も想も行も識もなく・・・」と云う処が“心経”の訳として有りますが、
 ☆ この場合
 (あ) 《空相》は ものごとを仮りの現象であると見ることだと考えられます。

 (い) 《諸法》がそうなら この《空相》と見ること自体も 空であり仮りの現象だとなります。

  ▲ 垢つかず、浄からず、

 に対して

  ○ 客塵煩悩 自性清浄心(垢はつくが もともと浄い)

 という言い方も成されるわけですから どちらも仮りの姿だと捉えられるということでしょう。 

 (う) この《世界を仮りの現象と見ること》なる空観は それを経てさとりに到ったなら もう要らなくなる。だから 仮りの現象としての空相でも おしえと成り得るのだという論法なのでしょう。



 (え) では その《さとり》の境地は いったい誰が じっさいにどういう姿において 到ることが出来たのか? ゴータマ氏は どうだったのか? 

 (お) ゴータマ氏は ブッダである。つまりさとりを得たのだ。とするなら それは どのように言葉で表現されて伝えられているのか? 

 (か) 言葉による表現は 無理だとすれば そのさとりという境地は いったいどこにあるのか? ただの《張ったり》ではないか?

 (き) うんぬん。といううたがいが 千年も二千年もつづきます。まだまだ続こうかという状態です。



 (く) だったら いっそのこと 《空》を 神ないし無い神として想定するかたちを採ればよいではないか? 《無い神=すなわち 空》と《われ》との関係としてのわが心の非思考の庭は ブッダであるか または ブッダなる境地の潜在的なチカラを宿すと言って行くことができる。

 (け) 趣旨説明の( d )に述べたように この《空》なる神の信仰であれば 世界の中で信仰についての普遍的な類型を成すものと考えられる。どうか?

 (こ) 言いかえると ゴータマさんは 

   ○ ヒンドゥーイズム
  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|

 なる梵我一如の観点と自説とのあいだでその間の取り方が へただった。ブラフマンないしアートマン〔なる神〕を ただ《空》なる神(つまり 無い神)と言いかえただけだったのに それについて はっきりと明らかにし得なかった。これは 詐欺師のやり方である。という物言いも添えてあります。《葬送》というのが それです。




 こういう問いです。どうでしょう?

お礼日時:2012/07/09 13:43

 凡人には非経験の世界、そこを経験した人を悟れる人、と云うのだと思います。



 個としての肉体に宿った「心」が「神」の世界と同化して“この世の理(ことわり)”を知ったが故にスッタニパータが生まれ、マーガンディヤとのやり取りがあったのでしょう。

 こうしたやり取りでの表現は、善とか悪とかに捉われるという事は、この世の相対性が生み出すもので、宇宙の本体、神の世界に入ってみると、そこは相対的という世界ではなく、それ故にあのような表現、やり取りになったのだと思います。
 あいまいさではなく、その当時はこうした表現をするしかなかったのでしょう。

 それから二千年以上過ぎた現在に、この日本に誕生した彼のお坊さんが神の世界を「体験」し、お坊さんご自身の言葉で、宇宙(如来)の本体は絶体の大心霊体である、と現在の言葉と知識を以って表現しました。

 そう思うと、二千年後には言葉も知識もさらに進んで、今よりもっと明快に「神」の世界を表現する人が現れると思います。
 それがあの“弥勒菩薩”なのかは知りませんが。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 限りなき可能性を秘めたものであればいいがと まづは 思います。

 ★ それから二千年以上過ぎた現在に、この日本に誕生した彼のお坊さんが神の世界を「体験」し、お坊さんご自身の言葉で、宇宙(如来)の本体は絶体の大心霊体である、と現在の言葉と知識を以って表現しました。
 ☆ その方向づけについては あるいは そのとおりであるかも知れません。

 問題は 分かりやすく語ることではないでしょうか?
 言いかえると 
 ★ 神の世界を「体験」し
 ☆ その神の世界について表現することではなく じつは そうではなく 神を或る種の仕方で見た者は この経験世界についてどう観るか。それを語ることではないでしょうか?

 それでしたら 《或る種の仕方で神を見た》というその体験も活きて来ましょう。つまりその体験が実証しえたかに思われるほどになります。
 つまり たぶんいちどお伝えしたかと思いますが 《この世に降りて来て欲しい》 これです。

 それがないと いつまでも 抽象の世界にとどまって おまえたち凡人よ はやくさとりを得て この《神の世界》にまで上がって来たまえと言っているに過ぎなくなります。
 そんな《さとり》は あり得ません。くそくらえです。つまり詐欺です。ゴータマゆづりのチョンボが いつまで続きましょう。

 ★ 弥勒菩薩
 ☆ という言葉は まったく何の意味もありません。詐欺を完成させるために作った物語の一環でしかありません。中身がないのです。玉ねぎの皮だけ見間違えるほどうまく作り上げた。ただそれだけです。未来にわたっての話も 過去にさかのぼっての話も みな詐欺を完成させるための大がかりの装置であるに過ぎません。

 中 身 は ゼ ロ で す。

 それなのに さとりがあるよと言うのは こんどは マイナスになります。
 人間の屑です。
 その罠にかかった人びとは どう表現すればよいでしょう。

お礼日時:2012/07/13 23:46

bragelonneさん、こんばんは。




経験論なら、「そのうち、判るだろう」でも仕方ないのかな、と思います。

(「合理論」は、なんですか。・・・「違うこと」が証明されるかもしれませんね)
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この回答へのお礼

 ひと夜あけまして お早うございます くりなるさん。ご回答をありがとうございます。

 ★ 経験論なら、「そのうち、判るだろう」でも仕方ないのかな、と思います。
 ☆ ひとつに 《経験論》というのは 一般にその人のいだく神は 《無い神》のことです。つまり 無神論です。
 ただし 有神論のばあいでも 信仰と経験思考とは別ですから 経験世界についての認識は 基本的に経験論に立つはずです。


 ひとつに  
 ★ 「そのうち、判るだろう」でも仕方ないのかな、と思います。
 ☆ については 忍耐づよい方なのですね と思います。

 そのあいだの不首尾は 時間の無駄だと思いませんか?
 というより 人びとをして玉ねぎの皮むきに奔走せしめるゴータマという人は いったいどういう人間なのでしょう?

お礼日時:2012/07/11 09:27

bragelonneさん、こんばんは。




>「どこに ブディズムの特徴や良さがあると言うのか 分からなくなりませんか?」

・・・ならない、かと思います。
むしろ、上記(e)「《神》とは何か? また《信じる》とは どういう経験行為か? を問うことにもなるかと思いますが。」
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この回答へのお礼

 くりなるさん ご回答をありがとうございます。
 
 つづいてです。

 いえいえ。
 ★ むしろ、上記(e)「《神》とは何か? また《信じる》とは どういう経験行為か? を問うことにもなるかと思いますが。」
 ☆ というのは そういう見直し・解釈のし直しをして初めて ゴータマ・ブッダの説は生きて来るという意味なのです。

 いまのままでは あいまいであり というよりも中身がないと見られます。


 さとりを得たら・ブッダに成ったら そのうち分かるだろう。という説得だけが つづいて来た。こういうことではないでしょうか?
 《さとり》の中身などは ついぞ説明されたことがないのではありませんか?

お礼日時:2012/07/11 02:18

bragelonneさん、こんばんは。



「あるがままに見る」というような立場に、「再生」というようなことは、あるのでしょうか。
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この回答へのお礼

 つづいてです。
 
 《再生》があるか無いかを措いておいて
 ★ 「あるがままに見る」というような立場
 ☆ これは これも あいまいですよね?

 あるがままに見るのは 科学の立ち場かと思われます。そのことにおかしなことはないものと思います。
 でももしそれだけだとしたら どうして また どこに ブディズムの特徴や良さがあると言うのか 分からなくなりませんか?

お礼日時:2012/07/11 01:13

bragelonneさん、こんばんは。




「非経験の場」とか、「信仰」ということは、あまり関係が無い。と思います。


「いや、関係があるんだ」とbragelonneさんが主張されるのは、それも自由ですが。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 いえ。関係させる必要がなければ それでよいわけです。

 ただし いまのままだと 非常にそのおしえは あいまいだと思います。

 あいまいさを直すためには 《非経験の場》を想定して そこにブラフマニズムでしたら《アートマン》を置き ブディズムなら《空》をそれに当てる。こういう修正の方法があると思うが どうか? という問いです。

 言いかえると 《直す必要はない》《いまのままでよい》というお考えなのでしょうか?
 どうも 玉ねぎの皮を剥いているだけであって ゴータマ氏のブディズムには 芯が見当たらない。こう思うのです。
 重ねて述べるなら 《空》という神(つまり この場合 無い神)を想定する無神論なる信仰。こう捉えるのが いちばん合っていると思うのが どうか? という問いです。

お礼日時:2012/07/11 00:56

 取り上げた経典に“あいまいさ”を感じると云ってますが、確かに言葉上では“何を言ってるんだよ!”なんて思ってしまいます。



 でも、私は・・・
 私が釈尊を知ったのはあの有名な般若心経で、その時は色は空で、空は色?なんて何の事だかさっぱりわかりませんでしたが、その後「発句経」を知り、人の心の“働きを”教えられ、気づかされ、したので釈尊と云う人を信じることになりました。

 だからどうしても、釈尊の残された“経”は分かりにくくても否定的にみることがなく、ここに取り上げている“経”の文面を見ても、言葉上ではなくその裏をみようとしてしまうのです。

 そうすると、あいまいな感じの表現も、このように表現するしかない、と云った“世界”を思うのです。

 悟れる人が体感するその世界、真理の世界には善とか悪とかそういうものは無いのだ、という言葉もありますが、これは“真理の世界は相対的世界ではない”ということを云っているのだと思います。

 でも、その心理(神)に備わる意志という働き(エネルギー)が物質世界を現象させ、その世界はどうしても
相対性が存在してしまう。

 この世が相対的であるから、善とか悪とか、有るとか無いとか、かしましくなりますが、真理の世界は相対ではないのでそのことを、表現しようとして、ブラジュロンヌさんが指摘する“あいまいさ”のある言葉になってしまうのだろうと思います。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 今回は 残念ながら 取り上げるに足る中身をもって 反論なさっているとは思われません。

 経験世界は 相対的である。非経験の場は 絶対である。

 《絶対》の場は 善悪の彼岸である。有無をも超えている。《真理》と呼ばれる。



 こういったふつう一般の議論を提出なさっているだけです。

 そのどこが ブッダなのか? ブッダに関係なく 上のことは言えます。




 ですから ただしたしかに
 ★ 私が釈尊を知ったのはあの有名な般若心経で、その時は色は空で、空は色?なんて何の事だかさっぱりわかりませんでしたが、その後「発句経」を知り、人の心の“働きを”教えられ、気づかされ、したので釈尊と云う人を信じることになりました。
 ☆ というくだりには 求めるべき《中核》があるかも知れません。ので そこのところを明らかにして ゴータマ・ブッダは 活きているという議論をしていただくとよいかと思います。
 ★ 人の心の“働きを”教えられ、気づかされ
 ☆ というのであれば これはまったくふつう一般のことがらです。ひとりブッダにのみ関係するとは 口が裂けても言えません。

お礼日時:2012/07/10 23:55

考えていることを正確に表現することは大変ですね。


ブラジュロンヌさんは私に分かる様に丁寧に説明してくれました。
でも私の頭がいまいちなので、何となくの受け止め方になります。

ブラジュロンヌさんは神、そして信仰、について言葉を尽くしてくれました。
それから推し量ってみれば、釈尊は物のことわりをハッキリと言ってるので、釈尊があいまいなのではなく、その教えに接する悟りの世界をしらない人びとが、あいまいさを作り出してしまったように思いました。
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この回答へのお礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。

 二点あると思います。

 ★ 釈尊は物のことわりをハッキリと言ってる
 ☆ これは 全部ではないと思いますが 大方の了解しているところだと思います。
 
 けっきょく《ハッキリと言っている》場合と《あいまいなまま語っている》場合とがあると思われます。

 たとえば:

 ▲ ( a )(スッタニパータ:人を迷わすおしえ。 =No.8お礼欄) 諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って 諸々の見解における〔過誤を〕見て固執することなく 省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。

 ☆ これは《執着》や《過誤》とは何か? という問題を残しますが 《物のことわりをハッキリと言っている》場合の文章です。
 ただし ちょうどその直前の一文は どうでしょう?

 ▲ ( b )(同上) わたくしはこのことを説く ということがわたくしにはない。

 ☆ これは《ものごとのコトワリをはっきりと言っている》でしょうか? どうでしょう?
 
 以上が一点です。


 もう一点は やはり《非経験の場》についてけっきょく何も知らないと言わざるをえないところが ゴータマ氏にはある。このことです。

 同じスッタニパータからですが つぎのくだりは《内心のやすらぎ》とは何かを説明しています。
 ▲ ( c )(同上) ~~~~
 師は答えた。 
  ――マーガンディヤよ。見解によっても 学問によっても 知識によっても 戒律や道徳によっても清らかになることができる とわたくしが説くのではない。無見解・無学・無知識によっても 戒律や道徳を守らないでも 清らかになることができる とも説かない。それらを捨て去って 固執することなく こだわることなく 平安であって 変化的生存を願ってはならぬ。〔これが内心の平安である〕。
 ~~~~~~~~~~

 ☆ すなわち( b )は 何を言っているのか 必ずしも明らかではなかった。それだから 説明したくだりです。
 ですが どうでしょう? はっきりと語っていますか?

 このあいまいさは けっきょく《非経験の場》ないしそれを人が受け容れたあとの心なる《非思考の庭》 この主題について ゴータマ氏は知らない。ことから来るものと見ます。

 問題は にんげんの境地が 一方でふつうは経験世界に立脚していること これは あたりまえです。他方で しかしながら 経験世界を超えているのではないかという問題があります。分かりやすく言えば ヒラメキです。
 そして ヒラメキは 《非経験の場》とのかかわりがあると考えられます。それこそ その神ないしその霊としてのアートマンの問題であるとも言えるはずです。
 ですが ゴータマ氏は アン-アートマン(無我)を打ち出したからには この神ないしヒラメキの問題は ついぞ明らかにし得なかった。のではないでしょうか?
 という背景の事情から よく言えばかろうじてこのような《無い無いづくし》の論法を使って述べている。こう思われます。

 ですが それは いまこのようにヒラメキないし信仰の観点を補助線として引いて解いて来たから 分かったことであって そうしなければ いつまで経っても 無い無いづくしの文章が延々とつづくことになります。
 つまりは 玉ねぎの皮を二千年ものあいだ剥きつづけている。ということではないでしょうか?


 これは 《さとり ないし ブッダ》を大前提に立てたゴータマ氏の――詐欺師としての――勝利です。皮をいくら剥いても 《中核》はないのですから。つまり ないにもかかわらず それを求めよと言っているわけですから。
 求道心というのは 宗教のいかんにかかわらず 人ならだれでも多少は持っている。ゆえに そこにつけこんでいる。という堂々巡りが いたづらに おこなわれて来た。
 と見ますが いかがでしょう?

お礼日時:2012/07/10 20:41

 “あいまいさ”は私のもの。



 「人間には分からない」のではなく、“凡人のままでは分からない”のです。
 悟りに達した人は分かったから“絶体”という言葉が使えたのだと思います。

 そのことを凡人が受け入れることが、「信仰」なのでしょう。
 
 我々凡人は、“想像”の域を出ません。

 

この回答への補足

 おとなになったら 分かるようになるから いまはお父さんお母さんの言うことを聞いて そのとおりにしてね。と言うようなものです。

 そのように従うのは 《信仰》ではありません。
 対象が 経験的なものごとであるからです。それを子どもゆえに分からないというだけのことですから。

 経験思考が自分でも出来るようにときを俟つというかたちです。信仰ではありません。
 親の言うことを聞くのは せいぜい親への信頼からです。信仰とは言いません。



 このように人びとをバカにする態度とその思考回路は ゴータマの阿呆が切り拓いたものなのでしょう。

補足日時:2012/07/10 07:52
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この回答へのお礼

 いえ。違います。――まづは ご回答をありがとうございます。

 《絶対》は この相対的で時間的で移ろいゆく経験世界を超えたところに想定される《非経験の場》です。
 経験世界を超えるとは そこにおける因果関係から自由であるという意味です。因果関係から影響を受けることなく しかもその因果の過程に介在することも出来るという存在が 想定されています。つまり 神です。

 ★ あいまい
 ☆ というのは 両義性また多義性のことです。A とも B ともあるいは C とも受け取れるような意味を持つ場合を言います。
 いづれかひとつに決めるべきものは決めなければいけません。思想として失格だと思われます。


 ★ 信仰
 ☆ は この経験世界におけるいっさいのものごととは別です。
 《にんげんに分かるか分からないかが分からない非経験の場》を 神なら神として・アートマンならアートマンとして・キリストならキリストとしてその名を受け容れるかたちで わが心に受け留めることです。

 この《受け容れ》は じつは経験行為に属します。しかも その受け容れる対象は 《非経験の場》です。

 ですから 思考・つまり経験合理性にもとづく推理の対象ではありません。神は 思考するものではありません。ゆえに その受け容れ行為は経験的な意志行為なのですが その対象は 非経験であるゆえ この神を《考える》とは言わず・またそれはあり得ず 神を《信じる》と言います。
 思考と信仰とは 別です。
 経験世界と非経験の場とにそれぞれ対応します。

 以上のことにかんするかぎり 多義性なるあいまいさはありません。
 非経験の場は ナゾであるゆえ あいまいだという表現は また別です。




 ★ 悟りに達した人は分かった
 ★ “凡人のままでは分からない”
 ☆ これが 忍法《のらりくらり》の術です。ほんにおまえは うなぎのよう。となります。
 この蒟蒻問答が 二千年のよう延々とつづいています。
 これは犯罪行為です。人びとの貴重な時間を奪って行きます。
 なんでそんな詐欺師の肩を持つのでしょう?

お礼日時:2012/07/10 00:49

 「有るとも無いとも何も言わない」と云う表現は見当たりません。



 「何もない」とは“実体”というものは無い、と云うことを云っていると思いますが、これは我々の心を通して観る世界の事を云っているのだと思います。

 宇宙の、この世界の、本体は絶対的観念態であって、これこそが“実体”と云えるものである、と云えるように思いますが、“観念態”故に“実体”とは言えない、とも思えます。

 「中核」以降は釈尊の責任ではないのではないでしょうか。

 

 
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ これこそが“実体”と云えるものである、と云えるように思いますが、“観念態”故に“実体”とは言えない、とも思えます。
 ☆ というあいまいさは ゴータマ氏からのものであると見ています。


 用語の整理をしますが
 ★ 実体
 ☆ という言い方をすれば じつはそれは すでに《絶対》のことを言い その意味で《神》のことです。

 ★ 絶対的観念態
 ☆ 《絶対》であるなら それが《観念》であるか《物質》であるか はたまたほかの何かであるのかは 人間には分かりません。分かるか分からないかが分かりません。それゆえ 《絶対》と言います。つまり 《神》のことです。

 言いかえると われわれに分かる経験的な事物であるのかどうかが 分からないのですから その神が《有る》と言っても《無い》と言っても その《絶対》は何も変わりません。《空》と呼んでもかまわないわけです。

 ですから 有神論と無神論とは 互いにまったく同等です。おそらく第三の道はないはずです。
 そして これは・つまりこれが 信仰の次元です。





 もし
 ★ 絶対的観念態の 相対的現象
 ☆ と言うなら それは 《絶対》なる神が この経験的で相対的な世界とつながっていると仮定して そのように〔神が〕経験的現象を起こしていると見ていることになります。(自然現象や生物の事象や人間の行為などのすべてについて 神が起こすのでなくても 神がそれらに関与していると見るかたちです)。

 この点は ゴータマ氏の場合には あいまいなのではないでしょうか? いえ 上の信仰の次元のことについても あいまいであると思います。

 どっちつかず。です。それゆえ ほんにおまえは屁のような。となります。
 のらりくらり どこまでも逃げおおせると思っている節があります。

 ゴータマ氏の責任です。
 というより そのような責任を感じるまでにも到っていなかったのではないでしょうか?
 という意味は 梵我一如というひとつの世界観のもとに ただただ暴れ回っただけの孫悟空なのではないでしょうか?

お礼日時:2012/07/09 23:48

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