プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

権力移行の過程の混乱だと思いますが、南北朝や直冬や高師直を巻き込んでの離合集散や離反変節が際立つのは、時代背景、権力争い、バックアップ勢力の意向、儒教等の倫理&価値観が希薄etcどの様な要因が大きく影響しているのでしょうか?

A 回答 (3件)

当時の最大かつ唯一の政治課題は土地政策です。

土地政策は、土地に関する武将の複雑極まる利害対立の解決ということです。土地に関する権利、既得権益をどう守るかが武士の最大かつ唯一の関心事だったということです。
足利尊氏は裁判といった面倒なものはわしの性に合わん、戦のほうがよほど楽じゃ、裁判に関してはお前に任せた、直義お前やってくれ、といったかどうかはわかりませんが、裁判に関する権限を直義に与えたわけです。大雑把にいえば軍事権を尊氏が握り、行政権を直義が握るという分掌です。これを二頭政治といいます。
皆が皆、裁判の結果に納得してくれたら、何も問題ないわけです。これにて一件落着めでたしめでたし。ところがそうはならなかった。敗訴した側が不当判決と叫んで、直義の失脚をたくらみ、尊氏に泣き付く。
そう泣き付かれると尊氏も無視できないわけです。支持基盤を失えば、自分の地位さえ安泰ではない。おい直義、これじゃ丸く収まらんよ、もちっとなんとかしてくれい、といったかどうかはわかりませんが、尊氏なりに解決しようとした。しかし直義は折れるつもりはなかった。直義にだって支持基盤はありました。支持者を裏切ったら直義の立場も安泰ではない。
観応の擾乱の本質は、兄弟争いではありません。裁判で土地争いが決着できずに、対立する両者がそれぞれ尊氏側と直義側に分かれて、武力闘争に訴えたといったことです。本当は私闘なんだけど、それでは大義名分が立たないので、尊氏と直義を担ぎ出して、私闘を正当化しようとしただけです。それぞれの武将が関心があるのは自分の利益だけなので、便宜的に尊氏側と直義側に分かれているだけで全然一枚岩ではないのです。ある時点までは直義側だった武将がころっと尊氏側に寝返ってしまう。負け組につくと元も子もなくしてしまうので非常に日和見的です。自分の権益を守る為に尊氏・直義をかんばんに利用しているだけなのです。

これに南北朝がどう絡むのか。室町幕府は元々北朝を支持基盤とした政権です。尊氏は北朝から直義を討てという命令を引き出します。要は合戦の大義名分にするための政治工作です。そうなれば直義は朝敵となるわけですから、たまらない。そこで直義は南朝につくのです。南朝の支持を得られれば、朝敵の汚名は解除できるからです。そうなると尊氏は困る。南朝を敵に回すわけにはいかない。尊氏だって朝敵にはなりたくない。そうなれば支持基盤を失って、自分が討たれる側になってしまう。そこで今度は尊氏も南朝についてしまうのです。南朝にすれば尊氏の軍事力は願っても無い魅力でした。そこで今度は南朝が直義を討てと命令するのです。そうなるともう直義は御仕舞いです。誰も味方がいない。というよりは直義を担いでいた武将が朝敵になるのは嫌だと怖気づいて離反してしまう。そんな流れで観応の擾乱は決着する。

南北朝の本質は、武将がそれぞれ自分の権益を守る為に、私闘の大義名分を得る為に北朝と南朝にそれぞれついて争ったということです。より多くの武将がついた方が優勢になる。武将が離反してしまえばたちいかなくなる。それぞれの武将は自分が担いだ方の朝廷が正当なのだと主張するわけです。

元をたどれば、全部土地をめぐる利害対立です。自分の権益を守る為だけに謀略、暗殺、戦闘、寝返り、裏切り、取引、駆け引きを繰り広げた時代です。
次の選挙に勝つためなら自民党でも民主党でもどちらでも良いというようなもので、現代は暗殺と戦闘がないことと争いの動機が違うだけです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

土地問題と朝敵回避(大義名分と結集力の源泉)をキーワードに各々の事例を挙げ、権力移行や時局の変遷の経緯等をご紹介&ご回答を賜りまして、大変、分かり易く参考に成りました。
心より感謝とお礼を申し上げたく、誠にありがとうございます。

お礼日時:2012/07/03 06:36

1199 頼朝死去


1203 頼家失脚
1213 和田合戦
1219 実朝暗殺
1221 承久の変
1246 宮騒動 名越反乱未遂
1247 宝治合戦
1252 頼嗣京都放逐
1272 二月騒動 北条家内の内紛
1285 霜月騒動 安達氏滅亡
1293 平禅門の乱 内管領が誅伐される
1305 嘉元の乱  得宗家執事追放
1317 文保の和談 二統並立
1324 正中の変  倒幕
1326 嘉暦の騒動 内管領VS外戚
1331 元弘の乱
1333 鎌倉幕府滅亡

鎌倉時代も、内管領やら執事が主家と反目しあったり一族で内紛したり、トップを放逐したり。
平均すると10年に一回くらいやらかしています 頼嗣京都放逐で、摂家将軍から宮家将軍になった時代に20年、一世代くらいが事件が起こってないくらい。

1335 → 1358 この20年ちょっとの間に、弟殺害一回、執事(間接的な離反)一回というのは、鎌倉時代の政権トップ(源氏将軍から、北条執権、得宗)と比較しても、普通の頻度かと思います。

つまり この時代 あるいは 足利家を取り上げて、何らかの特徴があると考えるのはちょっと違うかなと。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

時系列に騒乱・内紛をキーワードに事例を挙げ、権力移行や時局の変遷の経緯等をご紹介&ご回答を賜りまして、大変、分かり易く参考に成りました。
心より感謝とお礼を申し上げたく、誠にありがとうございます。

お礼日時:2012/07/03 06:33

 儒教は,日本では江戸時代に広められたものなので,南北朝時代には儒教的な価値観はほぼ無かったというのが実情でしょうね。


 当時は天皇家が悪政によって信望を失う一方,それに対抗した足利将軍家も天皇家に不満を持つ武士勢力に擁立されたという性格が強く絶対的な力を持っていませんでした。しかも,少し時代を遡れば,鎌倉時代には北条氏が将軍家を単なる飾り物にして実権を握り,その北条家でも末期には内管領の長崎氏が政治の実権を握っていました。
 このような状況では,誰でも自分が天下を取れるといった野望を抱いても無理からぬところがあり,足利家内部で内輪争いが続くのも避けられなかったでしょう。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

事例を挙げ変遷の経緯等をご紹介&ご回答を賜りまして、分かり易く参考に成りました。
心より感謝とお礼を申し上げたく、誠にありがとうございます。

お礼日時:2012/07/03 06:27

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!