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志賀直哉の小説「網走まで」明治43年発表
の中に、上野から網走まで行くという女性に
「そりゃあ大変だ、五日はどうしてもかかりましょう」
「通して参りましても、一週間かかるそうで御座います」
という会話があります。
上野から青森まで汽車で二日、船で函館まで一日として
そこから網走まで四日もかかるとは思えませんが、
この時代の鉄道路線はどうなっていますか?
小説の内容は正しいのでしょうか?

よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

明治の鉄道網の路線図があります。


http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/d …
長距離を走る列車が無く、乗り継ぎにしても1日2本程度しかないとすると待ち時間が半日とか1日とかになった可能性はあると思います。

列車の最高速度も30km/hとか、その程度でしょうから走り続けたとしても丸一日はかかりますね。
汽車に石炭や水の補給も必要でしょうから、2日では行けないのかも。
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網走駅ができたのが 大正時代なので 最後に馬車だか歩きだかが長距離あったのでは?

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明治40年頃で、上野→青森間は19時間半ぐらいかかったとのこと。


距離は現在の在来線ルートと変わらないはずだから、730kmほど。

また函館→網走まで最短ルートでも約800km。
したがたって、鉄道だけでも40時間はかかることになる。

果たして女性がこの時間、ずっと乗り続けられたかは疑問だし、
特に北海道では函館から網走まで直通列車があたっかも不明。

恐らくは、数回乗り継ぎが必要だったろうし、待ち時間もあったはず。
現代でも、上野→青森間は在来線乗り継ぎだと13時間もかかる。
列車の性能や最高時速は明治と比較にならないはずだが、乗り継ぎと待ち時間てこんなにもかかる。

したがって、間に青函連絡船も必要な上野→網走間は、5日から7日かかったとしてと不思議はない。
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既に回答が有るように網走までの鉄道は開通していません。


鉄道で旭川または名寄まで行って後は馬車か徒歩になります。
1日目に上野を出て翌朝青森着函館から夜行列車で旭川に3日目の夜着一泊して4日目に馬車で出発して途中2泊くらいの行程でしょう。
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 「一週間で行けたら奇跡」という意味で正しくない可能性があります。



 網走まで鉄道が開通したのは1912年(大正元年)、1910年(明治43年)時点では、約200km離れた旭川か根室本線の池田駅が最寄り駅です。旭川~網走を横断するのが最短ルートですが、途中の山が険しいので、池田か宗谷本線の名寄あたりから馬車に乗るというのが当時のルートになるかと思います。
 明治43年9月に池田から北見(網走から50キロ位離れた街)に向かう線路の一部が部分開業しているので、それを利用する事が前提かもしれませんが、それにしても、函館から鉄道2日、馬車2~3日は見る必要があるかと思います(馬車の道中は悪路に加えて、建物は隙間だらけ、寝具は蚤ダニ虱オンパレードの劣悪な宿への宿泊が前提となりますから、現在のアフリカバス旅行並みのタフさが必要になります)。

 もうひとつ問題になるのが、青森~函館間の連絡船。船の所用時間こそ今のフェリーと大差ない4時間ですが、船が接岸できる岸壁が整備されたのは1910年の12月で、それまでは、離れたところに停泊している船までボート(艀)で移動して、揺れる艀から本船に乗り移るという手間のかかる作業が必要でした。この艀連絡のため、青森、函館での乗下船の所用時間は最低1時間、夜間や海の荒れる時は命がけですから、これを回避したいのであれば、ここでも少々余裕を見る必要があります。

 というわけで、結論をいうと「一週間」というのは、天候に恵まれていて、かつ旅慣れている屈強な男性が最短で移動した際の所用時間、小説に出てくる乳飲み子を連れた女性に関しては(本人の意思はともかく)、そもそも行く事自体が困難というのが結論になるかと思います。ただ、作中の描写は「そもそも行く事が困難な場所に行く、と突拍子のない事をいう不思議な女性」とも取れますので、作者がこの女性に「一週間」と言わせること自体は間違ってはいないと思いますが。
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