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 (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

 (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。

 (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。

 (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。

 (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。

 (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。

 (7) この虚構のからくりは 次のようである。

  (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。

  (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。

  (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは医学や科学としての光に終わってしまう。

  (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。

  (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。

  (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。

  (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。

  (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。

  (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。

 
 この哲学を問います。よろしくどうぞ。

A 回答 (31件中11~20件)

No.20です。



(結論)クリスチャンは自分の罪と格闘してきた。
    神による訓練を経て、罪との闘いに勝利を収めることができる。


>★ 「罪はない、罪はなくなった」という考えは
>☆ どこにも言っていません。

これは、No.16のお礼の(3)の、「>もともとヘビなる悪魔も原罪もありません。物語として脚色しただけのものです。・・・」という見解を受けての回答でした。聖書には、使徒たちが自分たち自身の内にある罪を自覚し、それと闘っていたこと、また、他のクリスチャンにもそのように奮闘することを激励していたことが記録されています。



> ☆ すなわち
> ▼ (7:25) わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
> ☆ と書いてあるではありませんか。

いずれもパウロは罪との苦闘を現在形で書いています。実際に、彼はローマ人への手紙を書いた時点で実際に罪と格闘していました。

元来、罪人となった人間は罪との闘いにおいては無力であり、絶望的な状態にありました。しかし、キリストの贖罪によって、神との和解が可能になり、神による訓練を経て、罪との闘いに勝利を収めることが可能となったのです。このように、贖罪により、絶望的な状態から勝利への道が開けたことをパウロは感謝したのです。



>・・・つまり いわゆる原罪は――個々の罪とはちがって―― イエスのときにチャラになった。こういう意味です。

なるほど。確かに、アダムに代わって、イエスがアダムの子孫を買い戻した、請け戻したという意味においてはそう言えなくもありません。しかし、依然、「個々の罪」は残っていて、それと格闘しなければなりません。



>現在は どういう位置にあるか? ここまで示すべきでしょう。

大変良い質問だと思います。キリスト以降、現在までは「キリストの花嫁」を選定する期間でした。「キリストの花嫁」とは、前回挙げた啓示20:4-6に示されているキリストと共に支配する者たちのことです。彼らについては、別に啓示14:1-5で「子羊(イエス)と共に立つ14万4000人の者」として示されています。そして、彼ら全員が選ばれ集められ終えた時、「子羊の結婚」が行なわれます。これは、啓示19:6-9に記されています。その後に、前回にも挙げた啓示19:11-21のハルマゲドンに至るのです。ですから、今までの約2000年間は、キリストと共に王また祭司として支配する者たちを選定する期間でした。



◎いずれにしても、大変重要な点は、キリストの贖罪によって、「神は 人びとの罪について もう覚えることはないと言った(No.20のお礼から引用)」という状態が、「自動的に」つまり、「何の訓練もなしに」または、「何の苦労、苦闘もなく」成立するのか?という点だろうと思います。一例を挙げましょう。

「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」ローマ8:17

「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」ヤコブ1:2-4

他に例を挙げればきりがありません。クリスチャンはみな自らの罪と、さらには迫害などの試練と格闘しなければなりませんでした。それは神からの訓練であり、それを忍耐する時に人格は精錬されて、結果、完全な人になって神の栄光を帯びるようになるのです。したがって、贖罪だけで、自動的にエレミヤ31章の状態が成立することはありません。神からの訓練により、罪と格闘して、勝利を収めた者だけが、そのような状態に達することができるのです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 (1)
 ★ 聖書には、使徒たちが自分たち自身の内にある罪を自覚し、それと闘っていたこと、また、他のクリスチャンにもそのように奮闘することを激励していたことが記録されています。
 ☆ そのような罪のことをわたしが見ていないというのは 言いがかりです。たとえば 同じその箇所で次のように述べています。
 ☆☆ (No.16お礼欄)  それほど人びとのあいだでは 自由意志の弱さがいやというほど思い知らされていた。その情況を創世記・エデンの園の話に反映させた。これだけのことです。

 (2)
 ★ ~~~~
 元来、罪人となった人間は罪との闘いにおいては無力であり、絶望的な状態にありました。しかし、キリストの贖罪によって、神との和解が可能になり、神による訓練を経て、罪との闘いに勝利を収めることが可能となったのです。このように、贖罪により、絶望的な状態から勝利への道が開けたことをパウロは感謝したのです。
 ~~~~~
 ☆ 二点でマチガイです。

 (2-1)
 ひとつは たとえ旧約の時代であっても 罪をめぐって《絶望的な状態にある》などとする見方は いただけません。
 見なさい。
 ▼ (ローマ書1:17) ~~~
 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
 
  「正しい者は信仰によって生きる」(ハバクク書2:4)

 と書いてあるとおりです。
 
 ▼ (同書4:3-12) ~~~~
 聖書には何と書いてありますか。

  「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」
       (創世記15:6)

 とあります。
 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。
 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。
 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。

   「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。
    主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」
           (詩編31:1-2)

 では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。

 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。

 アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。

 更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ このような聖句を あなたはないがしろにしていますか? 高ぶりの心で罪がどうだこうだと言っていますか? どうですか?

 (2-2)
 ★ このように、贖罪により、絶望的な状態から勝利への道が開けたことをパウロは感謝したのです。
 ☆ したがって (2-1)では すでにアブラハムの頃から 信仰が罪とその苦悩を凌駕しているということを忘れてはいけないということを述べました。
 それと同時に これまでにも指摘して来ましたが どうも両極に議論が振れてしまいがちであるということです。
 《罪の意識にくるしむ》か《罪のない状態》かという二極のことしか見ようとしていない。これではいけません。しかも もし神の国の外交官であるなら むしろ罪にくるしんでいる人びとにこそ声をかけるようにしなければなりません。それは あくまで信仰が罪を――現にある・起こっている罪を――覆い包んでやわらがしめられるという道です。そのことを言えないとすれば あなたはまだ和解を得させられていない。こう判断せざるを得ない情況ではあります。
 しかも 自分の述べる理論こそが 聖書の心だと言おうとしています。
 高ぶりのこころを 風の吹くさまに しづめましょう。

 (2-3) 以上のような意味を 
 ▼ (ローマ書7:25) わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
 ☆ は持ちます。

 (2-4) 同じ主題ですので 次の段落の次のくだりについても ここで触れます。
 ★ しかし、依然、「個々の罪」は残っていて、それと格闘しなければなりません。
 ☆ 個々の罪が残っていることは 共通の理解に立てました。〔はじめから そう言って来ています。⇒上記(1)〕。
 それと同時に 今度は 違和感をおぼえることは わざわざ《格闘しなければならない》と言っていることです。その必要はありません。人におうじて その罪に応じて 《格闘》がおこるかも知れなくても 問題は 和解のほうです。すでにあたえられているということ このことのほうをきちんと外交活動の中で中心となる主題としてつたえなくてはいけません。そのつとめにあゆんでください。


 (3)
 ★ ・・・ですから、今までの約2000年間は、キリストと共に王また祭司として支配する者たちを選定する期間でした。
 ☆ そうしますと エレミヤ預言(ヘブル書8章)の内容と競合しますね?
 ★ 王また祭司として支配する者たち / 啓示14:1-5で「子羊(イエス)と共に立つ14万4000人の者」
 ☆ というように限定することは どちらかひとつしか真実はない。ことになりますね? エレミヤは すべての人びとについて 罪はおぼえられることはなく また神の名を知れと言っておしえることもない こう言っているのですから。
 あるいは こうでしょうか? つまり 《それら祭司ら指導し支配する者ら》が選定されたその途端に もう《少数者による指導や支配》はなくなる――こういうことでしょうか?
 それなら エレミヤとの整合性がありますが どうもそうではないのでしょう? 王や祭司に任じられた途端にその職を解かれるということは 考えられませんから。

 現代・現在についての説明を受けては このような反応になります。


 (4) エレミヤ預言は 《人びとに対して 「何の訓練もなしに」または、「何の苦労、苦闘もなく」成立するのか?》

 (4-1)
 ▼ キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」ローマ8:17
 ☆ この場合の《苦しみ》とは たとえば次の内容を指しています。
 ▼ (ガラテア書5:24) キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
 ☆ つまり 罪に悩むといった筋とは別です。これこそむしろ試練であり 《訓練》です。


 (4-2)
 ▼ 「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」ヤコブ1:2-4
 ☆ これは 道徳規範のごとくであって あまり重視しなくてよいと考えます。上の試練に遭っていれば おのづとその境地は出来上がって行きます。

 (5)
 ★ 贖罪だけで、自動的にエレミヤ31章の状態が成立することはありません。
 ☆ これが 根本的なマチガイだとわたしが見るところです。
 《贖罪》は 付け足しです。エデンの園の物語でヘビを出してしまったから そのつじつま合わせだけの問題です。
 問題は キリスト・イエスから――聖霊をつうじて――《めぐみの上にめぐみを受けた》(ヨハネ福音1:16)そのことです。

  ○ 人の内から生きた水が湧き出る

 に焦点を当てます。当てるべきです。

 ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~
 37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。

    「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
 38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の
    内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
 ~~~~~~~~~~~~

 * 《聖書に書いてあるとおり》の出典 ~~~~
 ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。

 ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~

 わたしは乾いている地に水を注ぎ
 乾いた土地に流れを与える。
 あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ
 あなたの末にわたしの祝福を与える。

 ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~

 主は常にあなたを導き
 焼けつく地であなたの渇きをいやし
 骨に力を与えてくださる。
 あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
 ~~~~~~~~~~~~~

 そうして《罪》や《訓練》うんぬんと言うより
 ▼ (ローマ書1:17) 「正しい者は信仰によって生きる」(ハバクク書2:4)
 ☆ に拠るべきです。

お礼日時:2012/10/08 12:24

No.18です。



イエスの受難の意義など、その他の論題については、別途回答します。

>☆ もしこれだと エレミヤ預言とは矛盾します。・・・

(結論)「罪はない、罪はなくなった」という考えは聖書の教えではない。
     神からの再教育を受け、それを全うした者のみが、完全になれる。



ヘブライ人への手紙の文脈を是非追っていってみてください。12:1には結論として、こうあります。

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、」

使徒たちも依然として「罪」と闘っていました。それは使徒パウロもそうでした。

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。・・・このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」ローマ7:14-25

ですから、キリストの贖罪によって、罪人が神に近づくことができるようにはなりましたが、その贖罪によって完全な人間、罪のない人間になったのではありません。例えれば、贖罪によってようやく「神の学校」に入学できるようになった、という状態、しかし、まだ卒業は先である、ということです。完全な人間になるには、神からの訓練、再教育が必要なのです。

「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 ・・・およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 」ヘブライ11:4-11

このように、使徒たちもまた、それ以降の多くのクリスチャンも、「罪はない」とか「贖罪によって罪はなくなった」とは考えてきませんでした。そのような見解は聖書の教えに基づくものではありません。

エレミヤ31章で預言されているような、完全で罪のない状態は、贖罪だけで、自動的に得られるものではありません。むしろ、神からの訓練に応じ、忍耐し、その過程を全うした者だけが報いとして得られるものです。

では、エレミヤ31章はいつ成就するのでしょうか? その点は、啓示20章に示されています。その前の19:11-21はハルマゲドンの様子を示しています。そしてその後、20:1-3によると、悪魔が千年のあいだ縛られます。さらに、20:4-6によると、殉教したものの復活させられた選ばれたクリスチャンがキリストと共に千年間支配するとあります。これを「千年王国」とか「千年統治」と言います。その後、20:7-10によると、悪魔が再び解き放たれます。

要するに、今後、人類の世がハルマゲドンで裁かれた後、キリストの千年統治が始まり、その期間中に過去に死んでいった人々は復活させられ、再教育を受けます。そして、千年後、悪魔が解き放たれる時に、人類は最終試験を受けることになり、それを通過した者のみが完全な神の子として、永遠の命を受け継ぐことになるのです。その時、エレミヤ31章は「完全に」成就するでしょう。しかし、その「道筋」は使徒たちの時代に「開かれた」のであり、それに向けて奮闘するべきことを、使徒パウロはヘブライ8章で力説していたのです。

このように、簡単に、概略だけ述べましたが、神の再教育に関するご計画ははっきりと聖書に示されています。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 (1) 罪の問題

 ★ ~~~~
  (結論)「罪はない、罪はなくなった」という考えは聖書の教えではない。
     神からの再教育を受け、それを全うした者のみが、完全になれる。
 ~~~~~
 ☆ 論点をきちんと把握しましょう。
 ★ 「罪はない、罪はなくなった」という考えは
 ☆ どこにも言っていません。神は 人びとの罪について もう覚えることはないと言ったと言っています。罪が無くなったとはひとことも言っていません。

 ただしそのとき
 ★ 神からの再教育を受け、それを全うした者のみが、完全になれる。
 ☆ というふうにも エレミヤ書31:31(ヘブル書8章)は 言っていません。


 (2) 引きつづき 罪の有る無し

 ★ 〔* ヘブル書12:1に関連して〕 使徒たちも依然として「罪」と闘っていました。それは使徒パウロもそうでした。
 ☆ 罪が無くなるとは言っていないからには それはあり 現実にそれをどう扱うか このことも起こりうることでしょう。
 ただし そのことと すでにすべての人にとって和解が成りましたよと 神が言っていることとは 矛盾することなく両立します。イエスのあとの歴史においてのことです。


 (3) 罪との葛藤の問題

 ★ ~~~~~
  ▼ (ローマ7:14-25)「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。・・・このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」ローマ7:14-25
 ~~~~~~~~
 ☆ ですが このときパウロは さらにどう言っていますか?

 ▼ (ローマ書7:24-25) ~~~~~ 
 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。

 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち
 ▼ (7:25) わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
 ☆ と書いてあるではありませんか。すでに キリスト・イエスの登場のあととしてパウロは これを書いています。すなわち――分かりやすく言えば 理論じょうは―― エレミヤの預言が成就した。こう言っているわけです。


 (4) 《罪のない人間》
 ☆ これに・つまりこのむしろ概念としてのことばあるいはイデアとしての観念に こだわっているのは そちらのほうです。

 たしかにパウロも 自分と同じように《完全な人間になりなさい》と言っているところもありますが もう一方では《わたしがすでに完全であるという意味ではない》ともことわっています。それは 総じて言って表現の問題です。また 人間が生身のすがたで 完全な存在になるなどとは考えられていない。この前提は 分かり切ったことです。
 それなのに わざわざ
 ★ ですから、キリストの贖罪によって、罪人が神に近づくことができるようにはなりましたが、その贖罪によって完全な人間、罪のない人間になったのではありません。
 ☆ というような発想をすること これが エレミヤ預言に違(たが)うことになりましょう。根本的にマチガイです。預言の内容は受け取らないわ 人間が完全ではないという前提をわざわざ持ち出して来るわで 話をすすめようとしていない。こういう意味で マチガイです。


 (5) 重ねて罪の問題

 ★ エレミヤ31章で預言されているような、完全で罪のない状態は
 ☆ この認識が間違っています。勘違いでしょう。人間を何だと思っているのですか? 何で《完全で罪のない状態》などということを論点とするのですか? アダムとエワの昔から 自由意志はあやまちうると分かっています。あやまつなら われ有りとさえ 居直ります われわれ人間は。それは ゆるされているという意味です。
 
 もともとそうでしたが 創世記にアダムとエワの話としてヘビのことに触れたからには その筋の結末をもイエスのときにはっきりさせた。つまり いわゆる原罪は――個々の罪とはちがって―― イエスのときにチャラになった。こういう意味です。
 (モーセのときに 青銅のヘビの話があります。挙げられるということの類似として 十字架にはりつけにされたイエスが このモーセのエピソードにおけるヘビの退治に相当するようです)。


 (6) エレミヤ預言

 ★ では、エレミヤ31章はいつ成就するのでしょうか? その点は、啓示20章に示されています。
 ☆ 千年王国とそのあと悪魔が解き放たれるとのこと。では 現代・現在は どういう位置にあるか? ここまで示すべきでしょう。
 けれども エレミヤは 《あたらしい契約》と言ってもいます。このことについては どう説明しますか? ヨハネ黙示録に出ていますか?
 そういう問題がなお残ります。

お礼日時:2012/10/07 13:34

下記のページの通りの技術さえをも備えていないのに、


イエス達は庶民から『尊崇』されていたのですね。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121005-00000 …
http://thinkit.co.jp/article/120/4/
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この回答へのお礼

 尊崇は どうでもよいことです。

 もしくは どのようにかが問題です。

 けれども イエスの生前には そのどのようにかをただしく知っていた人間は ひとりもいません。

 そういう問題について問うています。

お礼日時:2012/10/06 21:25

No.16です。



> それとも 捕縛されるのも 処刑されるのも そのこと自体が 父なる神の意志であって そのユダヤ人にとっての犯罪行為というその中身は どうでもよかったという解釈ですか?

 
イエスならこう言うでしょう。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 ルカ24:25,26

さらに、使徒ペテロならこう言うでしょう。「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、この/ようにして実現なさったのです。」使徒3:17,18

具体的に、メシアが苦しみを受けることになることに関する預言として、例えば、イザヤ53章などがあります。



>そうでなければ それは 神ではありません。

「イエスは神」という前提でbragelonneさんの論理は展開し、その結論として「イエスはやはり神である」としているかと。さもなければ、上の一節は出てこないでしょう。

もし、「経験的な意味での時間過程としての《生まれる》という意味ではありません」なら、その「御子が生まれた」とはどんな意味があったのでしょうか? まっすぐに、それ以前には御子は存在していなかった、ととらえてはならない根拠がありますか?

 

>もともとヘビなる悪魔も原罪もありません。物語として脚色しただけのものです。

使徒ヨハネならこう言うでしょう。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。・・・罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」ヨハネ第一1:8,10



>エレミヤ書31:31(ヘブル書8章)との兼ね合いをきちんとつけてから こういう話は述べるように求められています。あまりにも 不用意です。

これも、上のヨハネ第一1:8,10から分かるでしょう。ヨハネ第一の手紙は、キリストの昇天の後、数十年後に書かれたわけですが、キリストの贖罪後も、依然として、人間は罪人のままでした。それは現代も同じです。ただ、キリストの贖罪が成し遂げたのは、エデンからの追放以降生じた神と人間との絶縁状態が緩和され、仲介者イエス・キリストによって、望む人は神と和解するための道(機会)が開かれたということでした。

それゆえ,わたしたちはキリストの代理をする大使であり,それはあたかも神がわたしたちを通して懇願しておられるかのようです。わたしたちはキリストの代理としてこう願います。「神と和解してください」。コリント第二5:20
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 (1) イエスの受難

 ということは――ご回答内容の引用を端折りますが―― 受難だけが神の計画にあったという意味でしょうか?
 その受難の原因や理由については 問わない。こういうことでしょうか?
 
 と言っても すでに前回にこの問いは述べています。
 つまり 一向に問いに答えておられない。このことを意味します。
 どうですか?


 (2) 同じくイエスの受難

 理由がどうでもよいというのならば たとえ冤罪であっても死刑にまでされれば――木(十字架)に懸けられる者は呪われているというように―― 失態なのです。
 それでよろしいか? んなわけはないと知るべきです。

 (3) 《神》とは何か? あるいは むしろ何でないか?

 ★ ~~~~
  >そうでなければ それは 神ではありません。

 「イエスは神」という前提でbragelonneさんの論理は展開し、その結論として「イエスはやはり神である」としているかと。さもなければ、上の一節は出てこないでしょう。
 ~~~~~
 ☆ これは 子なる神として《父から生まれた》と説明されることについて明らかにしているところです。
 むろんすでに三位一体説にもとづいて説明しています。
 ただし 《イエスは自分が神であると言った》という命題を直接に証明しようとするのではなく もし神であるならば その中身は――少なくとも想定において――どうであるか? これを互いに共通の了解のもとに置こうというためのものです。

 (4) つづき

 イエスが(またはキリストが)父から生まれたことと 天使が神によって造られたこととは はっきりと別のことである。その意味は 神であることの内容と 神ではないことの内容とが どう違うか。このことを明らかにしたものです。
 天使を造ることに 《ことば》としての子なる神は与かっているのですから そこにおのづから上の区別は明らかであるとしめして――最後には――《イエスが自分を神だと言った》ことの証明にみちびこうとはしています。

 すなわち《生まれた》と《造られた》との表現上の異同にかんしてははっきりしないとしても やはり《ことばがはじめにあった》こととそのあと《万物がつくられた》こととには はっきりした違いがあるということです。それなのにこの《ことば》も あなたは天使だと言っているわけです。明らかな矛盾ですよという意味ですが それは 受け容れられないとの表明を 何の根拠も反論もなく 別の話を持ち出して来てそらそうとすることにおいておこなっている。このことが見て取れます。受け容れられない理由が あきらかではありません。


 (5) では 神の内 子なる神とは何か?

 ★ ~~~~~
 もし、「経験的な意味での時間過程としての《生まれる》という意味ではありません」なら、その「御子が生まれた」とはどんな意味があったのでしょうか? まっすぐに、それ以前には御子は存在していなかった、ととらえてはならない根拠がありますか?
 ~~~~~~~
 ☆ 今回で意味のある文章は ここくらいです。つまり これ以外は すでに問い終えていることについてただほかのことを持ち出して来て話をそらそうとしている文章だという意味です。

 (6) つづき
 
 さて けれどもこの問いにもすでに答えています。
 ☆☆(No.9お礼欄) ~~~~
  【Q‐3】 イエスは 父や聖霊と同じく神であるが 父と子と聖霊とは 位格として(ハタラキとして)はっきりと分かれています。
  ★ ~~~~~~~~
  イエスは人間としてではなく、復活して(霊者、天使となって)から天に戻り、それから、神の王座のあるところ(至聖所によって予示されている)に大祭司として入りました。全能の神と、霊者として復活した大祭司イエス・キリストは別人であり、大祭司イエスは執り成しのための犠牲の血を神に捧げることができました。
  ~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ ここらへんは すべて《聖霊》の世界のもんだいです。しかも 三つの位格のそれぞれの違いにもかかわります。
  たとえにおいて 子は 光源としての父から発耀として生まれますが 聖霊は父と子とから明るさや暖かさとして発出されます。むろんこれらは 経験事象としての光とは違って 時空間の無いところで――もしくは時空間があるとも無いとも人間には分からないところで――のことを言っていますから 《生まれる》とか《発出する》とか言っても そこには時間的なへだたりはありません。
  あとは 子は経験世界に《肉(つまり身と心なる人)》となって送られたが 聖霊は そのまま霊として送られるのみという違いがあります。
  だから 父と子と聖霊という――いわば物語として――説明しています。
 ~~~~~~~~~~~~

 (7) さらにつづき

 子なる神は 肉となって送られた。聖霊なる神は 父と子とからその霊のまま送られる。この違いを表わすために わざわざ三位一体の説明を持つようになった。子と聖霊との違いを見るためには 忘れてならないのは 父が存在するということです。それが 三つの位格が一体だという意味になります。

 そうして このことは すでに初めから述べて来たように 《はじめにことばがあった》ことと《そのあと万物が造られた》こととは はっきりと一線を画するということに明確です。あるいは そのようなかたちで明確だと捉えるとよいという意味です。



 (8) へび=悪魔または原罪のこと

 ★ ~~~~
  >もともとヘビなる悪魔も原罪もありません。物語として脚色しただけのものです。

 使徒ヨハネならこう言うでしょう。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。・・・罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」ヨハネ第一1:8,10
 ~~~~~~~
 ☆ だから エレミヤ書31:31(=ヘブル書8章)の記事は どう見たのですか? というひとことを問えば おしまいです。
 罪をおぼえることはないと神が言っています。また もう神の名を知れと言って人びとにおしえることもないと神が言っていると。
 あとは 人間の経験世界における言語慣習として《罪》なら罪ということばが用いられている。ということのみです。それだけのことです。
 ことばに応じたそれとしての(うつろいゆく経験事象としての)内実も人びとの心にあるし起こっているのでしょう。そしてそれだけのことです。

 もしエレミヤと上のヨハネとで 神のことばの内容が違っているとしたら それを考えるのは あなたです。それをないがしろにして どうして議論をまともにおこなっていると言えましょう。
 つまり こちらからの問いに対して そのことをもないがしろにしていることを意味します。
 むろん 敗北宣言と受け取っていますが。

 (9) エレミヤ書について

 ★ ~~~~
  >エレミヤ書31:31(ヘブル書8章)との兼ね合いをきちんとつけてから こういう話は述べるように求められています。あまりにも 不用意です。

 これも、上のヨハネ第一1:8,10から分かるでしょう。・・・
 ~~~~~
 ☆ これについてもすでに答えています。時間表が 《宣教の時代》と《罪が覚えられず神を知れともおしえられないこと》とは 一時期としては錯綜するのだと。
 イエスの十字架上の死と復活のあと 聖霊が送られたとき すでにエレミヤの預言は成就しました。それが 現実になるには けっきょく宣教の時代を持たなければならなかったことも然ることながら 単純に言って民主制社会の到来を俟ちつつ たとえば二千年かかりました。そういう問題です。


 (10) 同じく

 ★ ~~~~~
 キリストの贖罪が成し遂げたのは、エデンからの追放以降生じた神と人間との絶縁状態が緩和され、仲介者イエス・キリストによって、望む人は神と和解するための道(機会)が開かれたということでした。
 ~~~~~~
 ☆ もしこれだと エレミヤ預言とは矛盾します。そうすると エレミヤ預言についての今後の時間表を明らかにすべきであると すでに問うています。これも 無視しましたね。とうぜん答えられないからです。ご自身の仮説が崩壊したとみとめたからでしょう。

 神は すでにすべての人が 和解が出来ていると知りなさいと言っていましょう。

お礼日時:2012/10/06 20:10

根幹が損なわれますと、修繕の際には、…!?


http://okwave.jp/qa/q7730762.html
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この回答へのお礼

 何だってゆうの?

お礼日時:2012/10/05 23:10

>だったら 十字架にはりつけになることはなかった。

冤罪と言えばそうなのかも知れませんが そんな失態を演じたということにしかならない。話にならないでしょう?

イエスが処刑されたのは、イエスが犯罪者・冒とく者だったからではないことは明らかです。それは、ユダヤ人の指導者たちによる自らの指導権が奪われないための措置だったに過ぎません。さらに、それはイエスにそのような措置を防ぐ力がなかったからでもありません。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」とマタイ26:53でも述べているとおりです。

続く聖句はこうなっています。「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。・・・このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」マタイ26:54,56。ですから、イエスが捕縛され、処刑されたのは、「失態」などではありませんでした。それは聖書の預言の成就でした。捕縛される際、イエスは「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」とヨハネ18:11で言いました。イエスは神からの「杯」、つまりそのご意志に従ったのです。



>§ 2 《造る》と《生まれる》は 語法として同じか?

>推測としては キリストは子なる神として父から《生まれた》とは言えても 父によって《造られた》とはまづ言わないということでしょう。

御子が生まれる以前には、御子は存在していましたか、存在していませんでしたか? もし、存在していなかったとすれば、どのように存在するようになったのでしょうか? それを考えれば、自ずと答えは出るような気がしますが。



>しかも キリスト・イエスが出たあとでは もう神のことを 人びとに 知りなさいと言っておしえることもありません。罪が神によっておぼえられているということもありません。(⇒エレミヤ書31:31以降)。
 神はすでにしりぞいて――言うなれば聖霊の時代にあって―― 人びとは経験思想ないし経験科学によって〔ただし 一人ひとりは信仰のもとにヒラメキを得つつ〕社会をいとなんで行く。
>そういうことになっています。

イエスが世に来ることによって成し遂げたことの一つは「贖罪」です。それは罪を無効にし、神に近づくことができるようにする取り決めです。しかし、その贖罪によって罪人が罪人ではなくなったということではありません。依然として罪人のままなのです。ご指摘のエレミヤ31:31以降の事柄は確かに将来成就するでしょう。しかし、その過程で、人々は神とキリストから再教育を受けなければなりません。その教育システムがキリスト以降のクリスチャン会衆なのです。

それについて、エフェソス4:11-13にこうあります。「そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。 それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」

「全き人」、完全な人間になるためには、キリストの弟子となり、神の元で再教育されるのでなければ、人間が独力で達成することはとてもできません。以前にも増して、罪人である私たちは、御子イエスによる救いと教育(手引き)を必要としているのです。



他の点はまた次回以降で・・・。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。
 
 (1)
 ★ ・・・イエスは神からの「杯」、つまりそのご意志に従ったのです。
 ☆ ですから その神の意志というのは せいぜいが《天使》という意味での神と自称したから ほんとうの神を冒涜したとユダヤ人からその咎を責められたのですか? と訊いています。
 それくらいなら 死刑になることもなかろうし 死刑になったのなら失態の部類に入ると言っています。
 
 父なる神とまったく同じ神であると自称したから 罪を言い渡されたのではないか?
 それとも 捕縛されるのも 処刑されるのも そのこと自体が 父なる神の意志であって そのユダヤ人にとっての犯罪行為というその中身は どうでもよかったという解釈ですか? 


 (2) 神は――父なる神と子なる神と聖霊なる神とは―― 時間の始まる前から存在したのだから 《造られた》とは言われず 《子が父から生まれた》という仮りの説明表現を用いたとしても その経験的な意味での時間過程としての《生まれる》という意味ではありません。
 
 ★ 御子が生まれる以前には、御子は存在していましたか、存在していませんでしたか? もし、存在していなかったとすれば、どのように存在するようになったのでしょうか?
 ☆ 子なる神は 父なる神とともに はじめにあった。のです。その《はじめ》というのは 《終わり》とのかかわりで言っているのではなく この宇宙つまり世界つまり時空間の始まる前という意味です。とうぜんです。この経験世界を超えているのですから。 

 《父から生まれた》と表現したとしても
 ★ 存在するようになった
 ☆ のではありません。永遠・無限・絶対・非経験は はじめから存在するのです。《存在》そのものです。
 ただ三つの位格を説明するために 父と子と聖霊と言い 子は父から生まれたとし 聖霊は父と子との両者から発出するという表現を用いる。それだけのことです。そこには 時間は流れていません。そうでなければ それは 神ではありません。


 (3) 罪をあがなうとは どういうことか?

 ★ イエスが世に来ることによって成し遂げたことの一つは「贖罪」です。それは罪を無効にし、神に近づくことができるようにする取り決めです。 
 ☆ もともとヘビなる悪魔も原罪もありません。物語として脚色しただけのものです。一たんアダムとエワの話に 罪や悪魔を添えたからには そのあとイエスのときに その十字架上の死と復活によって あがなわれた。というかたちにしただけのことです。それは エレミヤ書31:31以降のくだりが――ヘブル書8章でしたかに取り上げられており――物語っているはずです。

 それほど人びとのあいだでは 自由意志の弱さがいやというほど思い知らされていた。その情況を創世記・エデンの園の話に反映させた。これだけのことです。


 (4) エレミヤ書31:31以降(ヘブル書8章)

 ★ ご指摘のエレミヤ31:31以降の事柄は確かに将来成就するでしょう。しかし、その過程で、人々は神とキリストから再教育を受けなければなりません。その教育システムがキリスト以降のクリスチャン会衆なのです。
 ☆ 《将来》というだけでは 意味がありません。仮りに《将来 つまり イエスのあともまだ待つ》ということであれば その時間表を聖書の中から見つけ出さねばなりませんし そうして人は説明しなければなりません。聖句を無視するわけには行かないからです。


 ★ しかし、その過程で、人々は神とキリストから再教育を受けなければなりません。その教育システムがキリスト以降のクリスチャン会衆なのです。
 ☆ これも 《将来》とはいつのことか? その説明を俟たねば・つまりその将来の時間表を明らかにしなければ 言ってはいけない言葉です。すでにイエスが登場し その《とき》は来たという解釈も成り立つわけですから そのことにも触れる必要がありましょう。つまり すでに時が来たとなれば このような《教育》は要りません。エレミヤはそう書いています。


 (5) ★ それについて、エフェソス4:11-13にこうあります。
 ☆ この記事は 時間表が錯綜しているというだけの話です。
 《宣教という愚かな手段》によって イエス・キリストの名を知らせる。このつとめが果たされ広まってから たしかに《神の名を知れ》とは言わなくなるし 《罪ももう覚えられていない》となります。つまりそのように時間過程が錯綜している。だけの話です。
 
 
 (6) ★ ~~~~
 「全き人」、完全な人間になるためには、キリストの弟子となり、神の元で再教育されるのでなければ、人間が独力で達成することはとてもできません。以前にも増して、罪人である私たちは、御子イエスによる救いと教育(手引き)を必要としているのです。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから エレミヤ書31:31(ヘブル書8章)との兼ね合いをきちんとつけてから こういう話は述べるように求められています。あまりにも 不用意です。

お礼日時:2012/10/05 17:28

メシアなる職種が昔には存在していたのでしょうか。


http://www.vsn.co.jp/recruit/career/lp/brand/ind …
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この回答へのお礼

 メシアは もともと王のことです。

 転用されました。キリストのことです。

お礼日時:2012/10/05 15:04

No.13です。

一つずつ回答します。

> 【Q‐2】・・・☆ つまり間接的には イエスは自分が神だと言ったことになります。しかも そうでなければ死刑になることはないでしょう。

「間接的には」ということは、「直接」、そのように言ったことがないということではないでしょうか? 

しかし、ユダヤ人が「彼は自分を神とした」と解釈し、憤慨していたことは事実でしょう。しかし、自分が主張したこともないことを、「彼はこう主張した」と一方的に曲解され、非難されることが時にあるものです。今回の場合も、「神の子」とは言ったものの、イエスが直接、「私は神だ」とは一言も言っていないことは事実ではないでしょうか? 



>《天と地》は 《うまれた》のですか?
>疑問その一:神は万物を《生んだ》のですか?

「生まれた=造られた」が妥当かどうかは聖書の用法に従うべきでしょう。

創世記などを記したモーセによる詩編90:2にはこうあります。「山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神。 」



>疑問その二:一方で 父なる神が《ロゴス》と呼ばれた子なる神によって万物を造ったことと 他方で 《神が天と地を造った》ことと これらがは互いに同じでなくてはおかしいとすれば・・・

前者、つまり御子が万物を造ったというのは、私の個人的な見解ではなく、聖書に書かれていることです。コロサイ1:16では、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」となっていました。

しかし、この聖句と創世記1:1は矛盾してはいません。御子は神の指示のもとで万物を造ったからです。天地創造のための設計、エネルギーなどはすべて神からのものでした。ゆえに、天地創造の誉れは創造者なる神(御父)に帰せられるのは当然です。

同じようなことが、人間の間でも言われることがあります。例えば、古代のエルサレムの神殿を造ったのはソロモン王だと普通言います。しかし、実際に、神殿をとんかちとんかち現場で造ったのはソロモンではないでしょう。同じように、御子が万物を造りましたが、それは神の指示のもとで行われたゆえに、神が天と地を創造したと言い得るのです。



>☆ (疑問その三) 《生まれる》と《造られる》とを 根拠もなく同じことだと決めつけていはしまいか?

これは、上記の詩編91:2から分かりますね。



>(疑問その四) 《ロゴス》が どこに《天使》のことだと書いてありますか?

「言葉は神であった」というのが、ヨハネ1:1でしたね。その「神」が必ずしも全能の神とは限らないことは以前説明しました。これは天使たちにも当てはまります。

しかし、この「言葉」とはどういう役割を意味していますか。彼は神の代弁者、伝令官、スポークスマンであったいうことです。彼は神の言葉、指示、命令、教えを他の大勢の天使たちに伝える「神の言葉」なのです。

ゆえに、イエスは天使たちの頭、長とみなされ、それは大天使ミカエルと同一人物であると考えられます。ユダ9には、「御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時・・・」とあります。

さらに、ダニエル12:1,10:21には、「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が」とあり、さらに、「わたし(天使)を助けて、彼らと戦う者は、あなたがたの君ミカエルのほかにはありません。 」ともあります。

ですから、神の民のために戦いの先頭に立つ大天使長ミカエルとは、天使形態のイエスのことにほかなりません。イエスについては、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と使徒4:12で明言されており、前述のダニエルの聖句と考え合わせると、「神の民の苦難の時に立ち上がり、救いをもたらす者は、大天使長ミカエル=救世主イエス・キリスト以外にはない」と結論できるのです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 § 1 イエスは《自分が神である》とみづから言ったか?

 ★ ~~~~~
 しかし、ユダヤ人が「彼は自分を神とした」と解釈し、憤慨していたことは事実でしょう。しかし、自分が主張したこともないことを、「彼はこう主張した」と一方的に曲解され、非難されることが時にあるものです。今回の場合も、「神の子」とは言ったものの、イエスが直接、「私は神だ」とは一言も言っていないことは事実ではないでしょうか? 
 ~~~~~~~
 ☆ これは異なことをおっしゃる。
 だったら 十字架にはりつけになることはなかった。冤罪と言えばそうなのかも知れませんが そんな失態を演じたということにしかならない。話にならないでしょう?

 § 2 《造る》と《生まれる》は 語法として同じか?

 ★ 「生まれた=造られた」が妥当かどうかは聖書の用法に従うべきでしょう。
 ☆ 以下のごとく少ししらべましたが 必ずしも明らかになるようでもありません。

 ▼ (創世記1:1) 初めに、神は天地を創造された(バーラー √BR' / エポイエーセン)。

 ▼ (詩編90:2) 山々が生まれる(ユラドゥー √YLD / ゲネーテーナイ)前から/大地が、人の世が、生み出される(テホーレル √HWL / プラステーナイ)前から/世々とこしえに、あなたは神。

 ▼ (ヨハネ福音1:3) 万物は言によって成った(出来た・造った。エゲネト // ニブラー√BR'・ニフヤー √HYH)。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

 ☆ 考えてみれば イエス・キリストは《神の独り子》と書いてあっても 父なる神から生まれたとは書いてないかも知れません。最後までしらべたわけではありませんが 知るすべはないかも分かりません。
 
 § 2-1 ただ 次のような表現は 参考になるかも知れない。

 ▼ (ヨハネ福音8:58) イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる(ノーラド √YLD・ハヨート √HYH)前から、『わたしは ある(フー√HYH)。』」
 ☆ つまり 《独り子》なら 親から《生まれた》という説明表現になりますが それはあくまで仮りの説明であって もともとは初めから父とともに神であるというわけです。あるいは モーセに語った《わたしはある。それが わたしである》といった表現になってもおかしくありません。
 《天使》については そんな言い方はついぞ出来ません。
 というところまでは はっきりしていましょう。
 ですから 推測としては キリストは子なる神として父から《生まれた》とは言えても 父によって《造られた》とはまづ言わないということでしょう。《天使》は もしそうであるなら 造られたのです。《造られた万物》に天使は入るけれども 子なる神は入らない。なぜなら その万物を造るチカラなのだから。



 § 2-2 さらにですが あまり決め手にはならないようです:
 ★ コロサイ1:16では、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られた(エクティステー < クティゾー)からです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました(同上)」となっていました。
 ☆ これは 建築・建設といった意味合いがあるらしいですが。

 § 2-3 細かいことですが 《ことば=ロゴスによって神が万物を造った》(ヨハネ福音)ことと《父なる神が子なる神に指示したとか 力をあたえたとか説明すること》(やんぐますく説)とは 別です。
 
 ★ しかし、この聖句と創世記1:1は矛盾してはいません。御子は神の指示のもとで万物を造ったからです。天地創造のための設計、エネルギーなどはすべて神からのものでした。ゆえに、天地創造の誉れは創造者なる神(御父)に帰せられるのは当然です。
 ☆ いちど ひとこと触れておきます。これは 推測に過ぎないということです。
 (§ 2-1でのわたしの推測は 子なる神と天使とが区別されるという明らかな前提に立った推測です)。
 (たとえば 子なる神は ロゴスとして万物の自然本性にそのそれとしての秩序をあたえるというそのような要因を特には言おうとしているのかも知れないという意味です。父なる神のほかに創造者ないし建築者がいるというような・そしてそれが 子なる神だというような意味に解するいわれは まづないでしょう。ともに一体として創造しているのです)。



 § 3 イエス・キリストは 天使か?

 ★ ~~~~
 >(疑問その四) 《ロゴス》が どこに《天使》のことだと書いてありますか?

 「言葉は神であった」というのが、ヨハネ1:1でしたね。その「神」が必ずしも全能の神とは限らないことは以前説明しました。これは天使たちにも当てはまります。

 しかし、この「言葉」とはどういう役割を意味していますか。彼は神の代弁者、伝令官、スポークスマンであったいうことです。彼は神の言葉、指示、命令、教えを他の大勢の天使たちに伝える「神の言葉」なのです。
 ・・・(引用を省略します)・・・
 ~~~~~~~~~~
 ☆ これは ただの物語です。ただでさえおとぎ話であるのに こんな子供だましの話にととのえることは ありえません。
 すべては 神の恩恵のもとにあります。天使も救世主もありません。ただただ 神なる聖霊のハタラキがあるかどうかです。
 そのことを アブラハムから始まって イエスに来てやっと指し示し知らせることが出来たのです。
 その《知らせ》が成ったなら あとは――天使がどうであろうと何という名前の天使であろうと―― どうでもよいのです。 
 しかも キリスト・イエスが出たあとでは もう神のことを 人びとに 知りなさいと言っておしえることもありません。罪が神によっておぼえられているということもありません。(⇒エレミヤ書31:31以降)。
 神はすでにしりぞいて――言うなれば聖霊の時代にあって―― 人びとは経験思想ないし経験科学によって〔ただし 一人ひとりは信仰のもとにヒラメキを得つつ〕社会をいとなんで行く。そういうことになっています。



 ★ 「言葉は神であった」というのが、ヨハネ1:1でしたね。その「神」が必ずしも全能の神とは限らないことは以前説明しました。これは天使たちにも当てはまります。
 ☆ 《限らない》ということは 《限る》場合もあるということです。天使とは別だという場合です。そこのところを考慮からはづすのは いただけません。




 ★ 「神の民の苦難の時に立ち上がり、救いをもたらす者は、大天使長ミカエル=救世主イエス・キリスト以外にはない」
 ☆ こんな子供だましなことを まだ言っているのですか? これは ただの観念です。持つのも自由ですが それだけの話です。何の意味もありません。もし意味があるのなら いつになったら その意味が人びとに分かるようになるのか? これを説明してからのことです。 

お礼日時:2012/10/05 15:02

No.10です。



> ☆ どこに
> ★ 「イエスご自身に関しては神自らが直接造った」
> ☆ と書いてあるのですか?

コロサイ1:15は「御子は、・・・すべての造られたものに先だって生れたかたである」でしたね。「生まれた」という表現はそれ以前には存在していなかったということを示しています。

さて、「すべての造られたもの」、そして、御子さえも生まれていない、それ以前の時、神以外には何も存在していませんでした。ですから、すべてのものに「先立って」つまり、一番最初に造られた御子を造ったのは、神ご自身にほかなりません。

さらに、その後、先回述べたように、神の指示のもとで、御子が他の天使や人間や他の物事を造りました。(神による直接創造ではないということ)。これを上記の点と考え合わせると、神ご自身が直接創造したのは、御子イエスだけであり、それゆえにイエスは天使の一人ではあるが、神の特別な「独り子」であるとも言えるのです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 まづ積み残しの荷をふたたび掲げます。
 ☆☆(No.9お礼欄) ~~~~
 【Q‐2】 イエスはみづから自分は神の子であるだけではなく神であると言ったか?
 ・・・
 ☆ すなわち
 ★★ (回答No.5) ~~~~~~~
 ◎ 次は、神殿でイエスとユダヤ人が問答している場面。ヨハネ10:31-39。

 「ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり間接的には イエスは自分が神だと言ったことになります。しかも そうでなければ死刑になることはないでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~



 さて今回の論点は 《天使を含めてものごとや存在者を造る》のと《神の子が生まれる》のとでは 同じことか? です。
 ★ ~~~~~~~~~~~
 さて、「すべての造られたもの」、そして、御子さえも生まれていない、それ以前の時、神以外には何も存在していませんでした。ですから、すべてのものに「先立って」つまり、一番最初に造られた御子を造ったのは、神ご自身にほかなりません。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 後半つまり二つ目の文では 《神の子が生まれる》ではなく《造られる》というふうに変わっています。何故か? 同じ意味なのか?
 その意味は そうすると

 ○ すべてのものが 神の独り子たる《ことば》によって――〔父なる神のもとに〕造られたと書かれているところを――《生まれた》と言ってよいのか? 

 という問いにもなります。

 《天と地》は 《うまれた》のですか?

 しかもその創世記の冒頭には 《神が天と地を創造した(造った)》であるとか あるいは《神は〈光あれ〉と言った。こうして 光があった》のごとく書かれています。
 つまり これは ヨハネ福音の冒頭では こう書かれています。神(=つまり特には 父なる神)は 《ことば》として呼ばれた《神の独り子》によって《すべてのものを造った》と。

 疑問その一:神は万物を《生んだ》のですか?

 疑問その二:一方で 父なる神が《ロゴス》と呼ばれた子なる神によって万物を造ったことと 他方で 《神が天と地を造った》ことと これらがは互いに同じでなくてはおかしいとすれば 後者の創世記の記述における《神》は 《父なる神 および 子なる神〔さらにそれらと一体なるものとして 聖霊なる神〕》のことを言っていると受け取らねばおかしい。ではないか?
 つまり
 ★ コロサイ1:15は「御子は、・・・すべての造られたものに先だって生れたかたである」でしたね。
 ☆ ですね?



 すなわちこのふたつの疑問は 次の見解に対するものです。 
 ★ 神ご自身が直接創造したのは、御子イエスだけであり、それゆえにイエスは天使の一人ではあるが、神の特別な「独り子」であるとも言えるのです。
 ☆ (疑問その三) 《生まれる》と《造られる》とを 根拠もなく同じことだと決めつけていはしまいか?
 (疑問その四) 《ロゴス》が どこに《天使》のことだと書いてありますか?

お礼日時:2012/10/05 11:21

真のキリスト性は経験され得るのでしょうか?


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121001-35022 …
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この回答へのお礼

 どうお考えですか?

 というよりも
 ★ キリスト性
 ☆ って何だとお思いですか?

お礼日時:2012/10/05 06:46

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