街中で見かけて「グッときた人」の思い出

 日本語を勉強中の中国人です。寺田寅彦の「柿の種」を読んでおります。下記のサイトでもご覧になれます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/1684_ …

 上記のサイトから一篇抜粋させていただきます。

 「夜ふけの汽車で、一人の紳士が夕刊を見ていた。
 その夕刊の紙面に、犬のあくびをしている写真が、懸賞写真の第一等として掲げてあった。
 その紳士は微笑しながらその写真をながめていたが、やがて、一つ大きなあくびをした。
 ちょうど向かい合わせに乗っていた男もやはり同じ新聞を見ていたが、犬の写真のあるページへ来ると、口のまわりに微笑が浮かんで、そうして、……一つ大きなあくびをした。
 やがて、二人は顔を見合わせて、互いに思わぬ微笑を交換した。
 そうして、ほとんど同時に二人が大きく長くのびやかなあくびをした。
 あらゆる「同情」の中の至純なものである。」

 私はこの短編の一番最後の『あらゆる「同情」の中の至純なものである』という文がわからないので、作者はこの短編で何を表現したいのか、よく理解できませんでした。主旨が凝縮された一文なので、ぜひその意味を知りたいと思います。教えていただけないでしょうか。

 また、質問文に不自然な文がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

A 回答 (1件)

まず質問文についてですが、丁寧語も過剰に至らず自然で、非常にこなれた文章だと思います。

主語を省略する、日本語の構文もマスターされているようです。すばらしいですね。

不自然な点があるとすれば-これは個人的な嗜好が含まれているとは思いますが-「ので」の反復を、他の表現に言い換えるともう少し格調が上がりそうです。そして、「は」と「が」の使い分けができると完璧です。日本人でも、この使い分けは説明しにくいのですが、

 「私は」
  →省略しても意味が通じる

 「私が」
  →省略するとよくわからない文章になる

こういう理解です。

極端な喩えとしては、

 I read that book.
  →その本を読んだ(「私は」を省略できます)

 That book was read by me..
  →その本は私によって読まれた→私がその本を読んだ(「私が」を省略すると趣旨が通じません)

下から2段目の段落を、私が自分で書くとすればこんな感じです。

 この短編の一番最後の『あらゆる「同情」の中の至純なものである』という文がわからなかったため、作者がこの短編で何を表現したいのか、よく理解できませんでした。主旨が凝縮された一文なので、ぜひその意味を知りたいと思います。教えていただけないでしょうか。

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御質問の、『あらゆる「同情」の中の至純なものである』という解釈を考えます。

この「同情」は、犬の写真を見て和む気持ちが、2人の間で共感されたことに続いて、2人が同時にあくびをした現象を指した表現です。

「同情」という言葉の使い方ですが、英語ではSympathy、ラテン語を語源とし、「苦しみをわかちあうこと」だそうです。しかし、ここでは「共感する」に近い、肯定的な意味合いをもたせています。そして、続く「至純」という言葉は、現代ではほとんど使われないですが、純粋という意味でしょう。

寺田寅彦は、科学者であると同時に俳人でもありました。微笑みという感情表現と、あくびという生理現象が、2つの間で同じ時間、同じ空間で共有されたことが、自然現象と人間の感情を、研ぎ澄まされた言葉で繋ぐ俳句にも通じる精神を感じたのではないでしょうか。

寺田寅彦の短文で「俳句の精神」というものがありますので、参考に読まれてはいかがでしょうか。(参考URL:青空文庫)

参考URL:http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2513_ …
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この回答へのお礼

 ご丁寧に教えていただきありがとうございます。よくわかるようになりました。質問文への添削にも感謝いたします。これから気をつけます。「俳句の精神」も大変参考になりました。本当にありがとうございました。頑張ります。

お礼日時:2012/10/03 13:11

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