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戦国時代といえば、戦乱に明け暮れた印象があります。
戦国時代を応仁の乱(1467-1477)から関ヶ原の合戦までとして、人口を見てみますと、
推計の差はかなりありますが、大幅に増えています。
国によってはもっと大幅に人口が増えたところもあるでしょう。
人口が増えたということは、それだけ食糧生産量も増えたはずです。
戦場になって荒廃したのは、近畿・東海とその周辺だけで、その他の大部分の地方では、戦国時代といっても概ね平和で穏やかな時代だった、と理解してよいのですか。
戦国時代、人口が大幅に増加した国を教えて下さい。
よろしくお願いします。

戦国時代の人口
Wikipedia「近代以前の日本の人口」>研究者による人口推定と根拠>複数の研究者による1721年以前の日本の推定人口

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3% …

1400年8,000,000
1450年8,500,000 9,600,000–10,500,000
1480年8,000,000
1500年8,000,000
1570年12,000,000
1600年12,000,000 15,000,000–17,000,000

A 回答 (7件)

人口を食糧生産との相関関係で考察するのは正しいです。



たとえば、採取・狩猟の生活から、「稲作」などの農業革命(食糧革命)が起こったことにより、日本に限らず世界の人口は劇的な増加傾向に転じています。

ただ、江戸時代の以前・以後で、人口の増加率が大幅に違いますよね?
食糧生産(又は調達)に関し、大きな技術的革新や変化があれば、人口が急増する理由は存在しますが、戦国時代の末期に、著しく農業革新があったワケでは有りません。

それにも関わらず、関ヶ原の戦いの頃まで(~1600年)の人口と、その後の江戸時代(1600~1900年)で増加した人口は、ほぼ同数(約1500万人)です。

紀元前から含めると、「2000年間で増えた人口」と、江戸時代の「300年間で増えた人口」は、同じなんですよ。

他方、江戸時代の末期の人口は、3000万人程度で止まっています。
産業革命を受け入れる前の食糧生産量で、日本人の腹を満たすのは、3000万人くらいが限界であったと言うことです。

本来は、この3000万人くらいのゴールに向けて、多少、二次曲線的な傾向はあっても、もうちょっと、なだらかに人口が増加したハズなんですよ。

稲作文化が定着し、徐々に農業技術が進化したとしたら、鎌倉・室町時代あたりにもっと人口が増加し、もっと早くに3000万人くらいに到達していたと考えられます。

また戦国時代には、各地の戦国大名が兵員,兵糧,戦費の確保のため、経営資源であるヒト・モノ・カネを駆使し、適切に配分しなければ勝ち残れなかった時代です。
これが江戸時代に入ると、各藩は「兵」とか「戦」と言う文字は意識せず、自藩の経営に専念出来る様になりました。

そちらに専念すれば、即ち、農民が戦にかり出されること無く、農業に専念出来れば、爆発的に人口が増加する素地は、既に戦国時代には充分にあったと言うことです。

「戦国時代の戦乱は、人口が減少させるほど、荒廃させるものではなかった」とは言えますが、「政権が不安定な結果、戦乱が絶えず、安定的に人口が増加出来る環境ではなかった」とも言えると思いますよ。

逆に、先進国の出生率が、現在とは比べものにならない時代だし、大量破壊兵器なども存在しな時代です。
人口を減らす規模の厄災は・・・なかなか存在しなかったのでは無いでしょうか?

たとえば、世界的に見てみますと、日本の戦国時代とは比較にならない厄災が存在します。
黒死病と言われたペストや、スペイン風邪では、世界では数千万人が死亡したとされていますし、第二次世界大戦も同レベルですが、これらでも犠牲者の数は、世界人口の1%にも満たないんですよ。

「人口が減少する」などと言うのは、とんでもない事態であって、「人口が余り増加しない」と言うだけでも、決して「概ね平和で穏やかな時代」などとは言えないと思いますよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「人口が減少する」などと言うのは、とんでもない事態であって、
>「人口が余り増加しない」と言うだけでも、決して「概ね平和で穏やかな時代」などと>は言えないと思いますよ。

なるほど、この結論には十分納得できます。
確かにそうですよね。
そうでないと、関ヶ原以降の人口が急増する理由を説明できません。
その理由とは、kei00001の仰る「即ち、農民が戦にかり出されること無く、農業に専念出来れば、爆発的に人口が増加する素地は、既に戦国時代には充分にあったと言うことです」
に尽きますね。

大変参考になりました。

お礼日時:2012/10/23 13:33

ん・・・・・応仁の乱があまりにも地方レベルでも酷い状態だった・・というのが理解する上では重要だと思うのだが



>国によってはもっと大幅に人口が増えたところもあるでしょう。

以前読んだ書籍では、加賀・周防・長門・豊後・美作・駿河・相模・伊豆は増えたような記述があった。
大幅という話は記述はなかったが、広い範囲で人口統計資料があるわけではなく、局所的地域の人口逓増から推計した参考資料の話に過ぎない・・というのは理解するべきだろう


>人口が増えたということは、それだけ食糧生産量も増えたはずです。
これも案外怪しい
その書籍では、”人口管理が為される必要が高まった時代だからこそ、人口逓増が確認できる”との指摘だった
もっとも、時代を経て食糧生産力が逓増するのは当然の話だろう
歴史教科書では、二毛作は鎌倉時代には始まった指摘があるので、室町末期は無関係のように思われるが、おそらく二毛作(商品作物)が奨励・普及するのは戦国時代からだろう・・・
この部分で、食糧増産力の逓増も指摘できるが、漁業などの非農業系の食糧生産力の生産性の向上なども重要だろう
あわせて、利水・治水技術の発展なども考慮するべきだろう

>戦場になって荒廃したのは、近畿・東海とその周辺だけで、その他の大部分の地方では、戦国時代といっても概ね平和で穏やかな時代だった、と理解してよいのですか。

それは地域差がある
そもそも、戦場というイメージは質問者が抱いているような大規模戦闘だろうが、集落・村落・惣村同士の小規模な衝突は日常茶飯事だったと考えた方が良いだろう
しかし、強力で求心力のある支配者によって集落・村落・惣村同士の小規模な衝突が回避できるようになることで、安定性が向上した部分は大きいだろう
逆に支配者(豪族・守護・大名)などが小規模な地域紛争を公平に解決できない状況だと荒れてしまう、ということである

上記で指摘した一部の地域では、強力な大名が適切な支配を成立させた安定的な長い実績がある地域である
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>応仁の乱があまりにも地方レベルでも酷い状態だった・・
>というのが理解する上では重要だと思うのだが

そのように思います。
応仁の乱が地方でも酷い状態だったとしても、それからざっと130年間ほどの間、戦国時代を概ね平和で穏やかな時代だった、と思って曖昧な質問をしました。

「人口が増えたということは、それだけ食糧生産量も増えたはずです」という考えに対して「これも案外怪しい」とのご指摘は貴重です。再考してみます。
ただ、”人口管理が為される必要が高まった時代だからこそ、人口逓増が確認できる”とのことですが、専門的なことはとても理解できません。

お礼日時:2012/10/23 13:12

日本の戦国時代は、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。

一般に(1467年の応仁の乱/1493年の明応の政変 ~ 1568年の織田信長の入京/1573年室町将軍足利義昭の追放)とすることが多い。
気温も変化します。 http://www.ihmlab.net/wp/?p=772
950~1250年(平安時代中期~鎌倉時代中期)が小温暖期
1250~1390年(鎌倉時代中期~南北朝時代)が寒冷期
1390~1540年(南北朝時代末期~戦国時代半ば)が小々温暖期
その後おおむね寒冷期が繰り返される。
 
気候変動や戦闘などの社会事情も農業生産では重要だけれど、農地開発、埋立、干拓、治水工事、灌漑施設なども大きな要素になる。武士は武力を増すためにも、経済力の源である農業に力を入れた対策を推奨した。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakur …
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakur …
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakur …
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakur …
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakur …
 
http://www.morikado.net/culture-nichizemi/011_mu …
鎌倉時代、畿内・瀬戸内海沿岸にはじまっていた二毛作は、全国に普及した。また、室町時代に西国では、三毛作(三毛作とは、米・麦・蕎麦そばの栽培)が開始された。
稲の品種改良も進み、早稲わせ・中稲なかて・晩稲おくてが生まれ、東南アジア原産のインディカ米である大唐米も栽培された。大唐米は、味は今ひとつだが、炊き増えがし、虫にも強いので庶民が食べた。
また、灌漑・排水施設の整備も進み、竜骨車や水車が使用された、水をめぐる問題は、農民にとれば重要なことで、桂川周辺の用水の共同利用の様子はよく知られている。農民たちは、「番水」といって、水を自分の田に順番に取り入れることも行ってきた。さらに、商品作物栽培も広がった。例えば、荏胡麻は瀬戸内海地方で、麻は越後で栽培され、各地に特産品が生まれていった。
 
鎌倉、室町、戦国時代は、農業もその他の産業も活発になり、都市が地方に成立し、経済活動が盛んになった時代で、中国との貿易も盛んになった時代でもあるようです。
そうした活発な経済活動で各地に有力な勢力が勃興できたから、戦国時代にもなれたのでしょう。
戦闘に明け暮れるとか、戦場になってしまう、治安が不安とかだけを考えると、経済活動にも農業にもマイナスなのでしょうが、各地で戦国大名が城を作り兵力や武器を調達し、戦闘を起こせるほどの農業生産や経済力を持てる状態になったということなのでしょう。
寒冷になると農業生産にはマイナスで、凶作なども起きやすいのですが、戦国時代は寒冷が少し弱まった時期なので、そういう面でも農業生産にプラスだったのでしょう。
 
人口が大幅に増加したのは、摂津のようです。1000年に10万人程度が1600年には80万人を超えています。土地が広がったことや都市化が進んだことで一挙に人口が増えたようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3% …
http://agua.jpn.org/pre/pm.html
http://www.pref.osaka.jp/nishiosaka/history/hist …
「戦国時代に人口が増大したのは。」の回答画像5
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

要約すると
「戦闘に明け暮れるとか、戦場になってしまう、治安が不安とかだけを考えると、経済活動にも農業にもマイナスなのでしょうが、各地で戦国大名が城を作り兵力や武器を調達し、戦闘を起こせるほどの農業生産や経済力を持てる状態になったということなのでしょう」
ということですね。

よく解りました。

摂津国が、大規模な埋め立てで耕地面積を拡大したことは、ご指示のURLでよく解りました。
また、玉川学園中学部のサイトも初心者には分かりやすくて参考になりました。

お礼日時:2012/10/22 20:58

 戦国時代の後半は高度成長の時期でした。

新たに勃興した領国大名は、軍事力と経済力を蓄えるために、新田開発や大規模灌漑に取り組み、また特産品の奨励や商工業の保護にも力を注ぎました。安土桃山時代になって国力が急に発展したわけではなく、戦国時代にその基礎がかたまっていたと考えるべきでしょう。

 確かに、戦場になって荒廃したところもあったでしょう。しかし、中国のように遊牧民族と農耕民族が武力衝突したわけではなく、わが国では農地が荒廃したり、住民が逃去したりしたら領地を奪う意味がありません。

 大体、戦国時代の合戦は、田植えや稲刈りの時期を避けて行われました。雑兵が集まらないのも原因ですが、もともと収穫の邪魔をしない配慮が働いたのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
「大体、戦国時代の合戦は、田植えや稲刈りの時期を避けて行われました」とのことですが、ちょっと疑問です。
謙信の関東侵攻の場合、秋の収穫期に侵攻し、暖かい敵地で越冬し春の終わりごろから夏の初めに帰国する例も多々あります。
明らかに略奪目的であって、戦とはそんなものだと思っていました。

お礼日時:2012/10/22 11:52

戦国時代とは、いまなら選挙や裁判といった平和的手段で合法的に解決できる対立や揉め事を平和的に解決する手段が無くなった時代です。

といって戦乱に明け暮れていたわけではない。それは大河ドラマの見すぎです。テレビはどうしても絵になる構図が必要だから、やたら合戦シーンを撮りたがる。馬鹿な視聴者には地味な話し合いなんて全然受けないからです。しかし当時の人たちは決して現代人の娯楽のネタにされる為に生きていたわけじゃないんです。戦国時代といっても散発的に暴力団の抗争事件があったという程度のことです。戦乱でもないし、穏やかでもない。やみくもに単純に割り切りたがる現代人の脳みそのレベルに歴史は合わせてはくれない。

当然人口は増えます。200年で1.5倍だからたいしたこともない。江戸時代は250年ほどで2倍には増えています。町民・百姓は暴力団の抗争と関係なく、どうやって儲けを増やすか、どうやって収穫を増やすか。頭を使っていたのです。

農業技術も進歩して収穫が増えています。食糧が増えなきゃ人口も増えない。それはそのとおりなのです。

ひとつは大唐米の普及です。大唐米は、従来の品種に比べて厳しい気候条件に強く、排水不良の土地でも良く育つという特性があります。米は一般に環境に求める条件が極めてハイレベルです。しかし大唐米はそうじゃなかった。大唐米が中国から伝わり、それが普及したことで、従来稲作に向かないとされて開発されなかった土地でも稲作が可能になったのです。水車・牛馬の普及もあげられます。鉄製農具・肥料・二毛作・三毛作の普及もある。

農協も農林水産省も農業技術研究所も農業大学も何にもありませんから、地域を越えて広まるのは現代では想像もつかないほど遅いです。遅々とした速度でも何十年、何百年と経てば人の交流によって広まっていくのです。大名が領地を広めれば、その中で人が移動しやすくなり新技術が伝わりやすくなります。

そんなわけですから、戦国時代だって当然ながら人口は増えたのです。逆に言えば、それ以前は好条件の土地しか開発されてなくて、まだまだ未開発の土地が残されていたということです。それは江戸時代でも同じことです。狭い日本でも気象・土壌・水利条件にはかなりの格差があります。常識的にわかることですが、まず好条件の土地から開発されていって、条件が悪いところは後回しになるのです。新技術が開発されないと悪条件の土地は開発されない。それは農業だけでなく鉱工業にもあてはまります。

ま、こんなところで。
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この回答へのお礼

ご高説承りました。

>町民・百姓は暴力団の抗争と関係なく、どうやって儲けを増やすか、
どうやって収穫を増やすか。頭を使っていたのです。

なるほど。

お礼日時:2012/10/21 20:10

http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html


平安期と太閤検地で比較して考えると

マイナスになっているのは、佐渡のみ

近畿・東海の特異性はない。
※ 駿河と遠江の例とか

詳細は 以下
全国平均 4.4倍の 二倍 8.8倍以上の成長

志摩
甲斐
尾張
遠江
隠岐
薩摩
豊後
阿波

全国平均以上

三河
越前
大隅
美濃
紀伊
伊豆
陸奥
伊勢
和泉
摂津
長門
若狭
安芸
越後
加賀
能登
山城
大和
日向
伊豫
丹波
伊賀
淡路
丹後
近江
上総
石見
肥前

全国平均以下

周防
河内
越中
筑後
備後
出雲
武蔵
筑前
備中
相模
備前
美作
播磨
駿河
下総
上野
土佐
但馬
肥後
常陸
信濃
下野
伯耆
出羽
因幡
豊前
安房
讃岐
飛騨
佐渡
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この回答へのお礼

見やすいように態々書き上げて下さってありがとうございます。
「諸国実高一覧」、このような表を見ていると興味が尽きません。
尾張も遠江も石高は全国平均を大幅に上回っており、確かに、東海・近畿の特異性はないですね。
私の先入観で、そのあたりは戦場になって人口が減ったのかなと思っていました。

お礼日時:2012/10/22 11:12

戦乱に明け暮れたといっても、おおむね平和な時代だったと考えてもいいかな。



感覚としては、日本の戦はヤ○○の出入りに近く、一般市民は戦闘員ではありません。
武士同士は戦をするけれども、基本農民は生産者だから手は出さない。
首を取って手柄になるのは大将首だけ、足軽の首は取りません。
だから戦の死傷者は、普通は百人規模がせいぜい。
川中島合戦で、両軍に千人規模の死傷者が出たのは、例外中の例外です。
農民が手弁当を持って、スポーツ観戦さながら戦見物をしていたなんて話があります。

逆に中国など海外では、都市ひとつがまるまる城ですから、住民全てが戦闘員です。
つまり戦は皆殺しが原則となるので、戦闘地域の人口は激減してしまいます。

また戦争は、多大な消費活動ですから、経済が活性化します。
刀槍・鎧・兜などの武具、食料、金銀、衣料など色々な流通が盛んになる。
国が豊かになるので、人を多く養えるようになる。→人口増加
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この回答へのお礼

要領よく的確に答えて下さってありがとうございます。
よく解りました。
「農民が手弁当を持って…」については、私も応仁の乱の京都で、東西両軍の戦いを橋の上から町衆が見物したという話を聞いています。
「戦国時代」という言葉に惑わされてはいけないと思いました。

>逆に中国など海外では、都市ひとつがまるまる城ですから、住民全てが戦闘員です。
つまり戦は皆殺しが原則となるので、戦闘地域の人口は激減してしまいます。

この中国の例は大変参考になりました。

お礼日時:2012/10/21 19:53

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