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羽柴秀吉の中国大返しについてですが
1 秀吉はあらかじめ本能寺の変を知っていて(光秀と共犯で実行犯が光秀)事前準備をしていた?

2 秀吉方が捕らえた密使は明智から毛利へではなく 毛利から明智に送った密使だった?

3 羽柴秀長は毛利攻めに参戦していた?

4 光秀が愛宕山で引いたおみくじは3度とも大凶だった?


この4点について教えてください

A 回答 (6件)

こんばんは。


久々に歴史のご質問ですね。

1 NO
2 明智から毛利への密使を捕らえ信長の危機を知った
3 羽柴秀長は秀吉に同行していました
4 詳しい文献を見ていませんが、その様な事を耳にします
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この回答へのお礼

ありがたき幸せ

お礼日時:2012/12/02 08:30

再々度登場!



信長にも信頼が厚かったイエスズ会の宣教師が書いた「日本史」で、新たな発見があったと言われています。


「信長は明智光秀に殺されたのではない!!」

(1)光秀の居た「亀山城」からは、城下を通り、老ノ坂(おいのさか)の峠を越え、京都に入り、桂川を渡って本能寺へ着いた。
<1>このルートは、各種の史料等で、現在は「定説」となっている。
<2>しかし、このルートであると、亀山城から本能寺までは約20Kmとなる。
<3>光秀が亀山城を発進したのが、6月1日午後8:00。
<4>本能寺の変が起きたのは6月2日午前2:00。
<5>とすると、6時間で本能寺に到着しなければならない。
<6>当時の具足(鎧や兜)は、鉄砲に対する防御で、鉄板が多く使われており、約30Kgあった。
<7>城下は、ともかくとして、老ノ坂は、だらだらとした昇り坂で、馬であれば1頭ずつが縦に並んで通れるぐらい。人であれば、3~4人が横並びでも通れた。
<8>京都に入ってからは、「桂川」を馬上または徒歩で渡った。橋ははるか上流にはあるが、そこを通るとすると、時間はさらに延びる。従って、一番早く着くには桂川を馬上または徒歩で渡るしかなかった。
<9>ところが、公家の「山科言経(やましなともつね)」の書いた「言経卿記(ともつねきょうき)」によると、6月1日は「前日から雨」。
<10>当然、桂川は増水しており、馬上であっても徒歩であっても渡ることができない。はるか上流か下流の橋を「迂回」せざるを得ない。
と、なると、6時間で本能寺に着くまで、時速3~4Kmで進軍しなくてはならない。また、老ノ坂峠にしても、「ぬかるみ」だらけで、馬上の者は別として、雑兵などはとても早足で越えることはできない。
<11>従って、光秀は「本能寺の変」には間に合っていない。

(2)では、誰が信長を殺したのか。
<1>結論から先に言うと「イエズス会の宣教師たち」であった。
<2>イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスの記した「日本史」によると、
「信長が厠(かわや)から出て、手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。(中略)。直後に、信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら応戦していた。しかし、鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。信長は直後に障子の戸を閉じて、火を放ち自害した」
と、あたかも「現場」を間近で見ていたかのような記述がされている。
<3>光秀軍が襲ったのであれば、何万もの兵がうごめく中、このような「詳細」を見ることはできなかったはず。

(3)では、なぜ、イエズス会だったのか。
<1>信長は、イエズス会の布教活動を許可し、自らも南蛮製のマントや帽子を着用していたから、イエズス会と仲は良かったはず。
<2>イエズス会の「怒り」をかったのは、やはり、ルイス・フロイスの記録によると、
「信長は、かくのごとく傲慢(ごうまん)になり、世界の創造主であるデウスのみに帰すべきものを奪わんため(中略)その霊魂は地獄に葬った」
と、ある。
<3>「かくのごとく傲慢」とは・・・。
信長の居城であった安土城跡(滋賀県安土町)に残る「廟(びょう)」のてっぺんに「盆山(ぼんさん)」と呼ばれる「岩」を乗せてあり、信長は、生前より、
「この石を神と思え、わしと思え」
と、いかにも天皇をも越えて、自分ただ一人が「神」である、と、命令していた、と、言われ、これがイエズス会にとっては、神はデウスであって、信長ではない、との反感をかった。

(4)本能寺の発掘調査が物語るもの。
<1>2007.3.3の「産経新聞」の掲載記事によると、本能寺は、北は六角通。東は西洞院通。南は蛸薬師通。西は油小路通。に囲まれた120m四方と言われていたが、信長が宿泊したと思われる場所は、北東の角にある40m四方の小さな建物で、寺と言うよりも「武家住宅」あるいは「小御殿風」であった。
<2>と、なると、信長をはじめ側近の者が「雑魚寝」をしても、せいぜい40人位。
<3>これまで、100人近い兵と共に宿泊をしていた。と言う考え方は、到底無理が生じる。
<3>従って、イエズス会の宣教師たちの少人数でも攻めることができた。

(5)イエズス会のバックボーン。
<1>イエズス会は、南蛮貿易で「火薬」の原料である「硝石」を貿易しており、十分な資力があった。
<2>従って、弓矢や鉄砲などの武器を調達することは、「たやすい」ことであった。
<3>また、イエズス会の「本山」である「南蛮寺」は、本能寺から、わずか、300mしか離れていない。

(6)では、なぜ、明智光秀が罪人なのか。
<1>光秀が到着した時には、すでに、イエズス会により信長は「暗殺」されていた。本能寺も焼け落ちていた。
<2>確かに、光秀は信長を殺そうと本能寺に向かった。
<3>これにより、光秀は「謀反の罪」を着せられた。

以上のような「推論」ですが、あなたは「信じますか?」「信じませんか?」・・・。
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この回答へのお礼

私は朝廷が真犯人と思ってます そして秀吉もそれを知っていた(あるいは後年その事実を知った)
でなければ朝廷が秀吉の無理難題を受け入れ関白にさせることはなかったはずです 余弱みを握られていた何よりの証拠です

信長の頃は頑として任官させなかった太政大臣にも秀吉はあっさり任官されています
明らかに信長と秀吉では朝廷の扱いが違います
「関白にさせるから黙ってて」と近衛前久に言われたという説もあるようですし

お礼日時:2012/12/01 17:17

こんにちは。


NO1. bungetsu です。

>>光秀と共謀だとしたら 秀吉は光秀を利用したという事も考えられます
光秀は信長を討ったあと畿内を 秀吉が西国を抑えて天下を…という算段を2人で話していたのではないでしょうか?
しかし秀吉は最初から光秀を利用するつもりでいた…
光秀に信長を殺させれば光秀は天下の謀反人 それを自分が討てば 天下統一へこれほどの後ろ盾は無い ということです


秀吉が姫路城から高松城攻めに出陣したのが、天正10年(1582)3月15日。
4月15日、秀吉は宇喜多勢を先鋒として高松城の清水宗治を攻めるも敗退。
これの後、主君信長に援軍を要請する。

一方、光秀はその頃、京で5月17日には徳川家康の接待役をしていました。
この前後に信長は光秀を秀吉の援軍に送ることを決断していた思われます。

5月17日の接待役が終わると、光秀はただちに居城の坂本城へ帰り援軍としての出陣準備にとりかかる。

5月26日、丹波亀山城に入り、27日に愛宕山の愛宕大権現へ参詣。
この時、おみくじを引いたが3~4回とも「大凶」だったとかの逸話。
5月28日、愛宕山大権現五坊の一つ威徳院西坊で出陣連歌の会を催す。
この時の詩が、
「ときは今 天(あめ)が下しる 五月かな」
は有名な一句。

天の下・・・つまりは、天皇の下でを意味すると言われています。

従って、光秀は信長の下で働くよりも「天皇崇拝」だったと考えられます。
つまり、信長が天皇をも見下すやり方を批判し、抹殺しようと考えたのではないでしょうか。

秀吉は高松城の攻防に力をそそいでいましたから、光秀との「密約」はなかった(できなかった)と考えます。



>>事前に本能寺の変が実行されるのを知っていたからこそ 毛利との和睦を速やかに行い 信長配下の武将では最も遠国にいながら 最初に光秀と槍を交えることができたのでは無いでしょうか?


一応の史実?(信長公記など)では、高松城でも兵糧が尽いた頃であったため、早くこの戦局を打開すべく、清水宗治の首と引き換えに秀吉の降伏条件を受け入れた・・・と言われています。
しかし、和睦とはいえ、毛利側から吉川広家と小早川元総を人質に出し、秀吉側も森重政、森高政兄弟を人質として交換したと言われています。


>>山崎合戦の前光秀は 秀吉が摂津国富田まで引き返してきたという知らせを聞いたとき「おのれ秀吉 裏切ったな」と漏らしたと伝えられます
つまり 2人の間には共謀関係があったと考えてもいいのでは?と思います


この事実?については、私は知りません。


総合的に考えて、あなたの意見は、大変興味深いとは思いますが、「証拠」がありませんので、単なる「推測の域」と考えます。
信憑性を唱えるだけの史料を提示していただかない限り、「憶測」は「憶測」でしかありません。
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この回答へのお礼

時は今~の句は 実は連歌の会では詠んでいない様です

光秀の天下奪取への野望と結び付けられた後世の創作と思われます

お礼日時:2012/12/01 17:19

こんばんわ。


NO1.の bungetsu です。

1.の質問。

失礼!!

200kmを10日間(誤) → 200kmを3日間(正)

です。
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この回答へのお礼

ふむ

お礼日時:2012/12/02 08:30

>丹波一国拝領と同時に丹後の長岡(細川)藤孝、大和の筒井順慶等、近畿地方の織田大名の総合指揮権を与えられた。



直臣と陪臣の区別が付かなくなっていた馬鹿なんです。


周囲の世辞を本心と認識していた。(信長公に並ぶ大大名)
擁護の言葉を本心と錯誤していた。(みんな信長を憎んでいる)


みんな味方に付くはずだ。
こう言った憶測で動いていますから、


>事前準備をしていた?

大甘過ぎです。全くしていません。
無論、天皇も将軍もバックを立てる準備もしていない。


>光秀が愛宕山で引いたおみくじは3度とも大凶だった?

5回外れでした
おつむのネジは5本緩んでしまったのです。
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この回答へのお礼

ありがたき幸せ

お礼日時:2012/12/02 08:30

こんばんわ。



1.

これは「無かった」と思います。
そうでなければ、秀吉は200kmを10日間という強行軍での大返しをする必要もなく、光秀との共謀であれば、光秀を討つ必要もないのではないでしょうか。

2.

毛利氏は高松城で水攻めに合っていましたから、舟でしか城を出ることはできませんでした。
また、毛利氏の情報(内情)が知れることもなければ、逆に、陸地からの情報も入ることができなかったと思います。
従って、毛利氏がどこにいるかも分からない光秀に密使を送ることは不可能だったと思います。

3.

参戦しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3% …

4.

実際のところは「不明」です。
悪人にされてしまいましたので、そのような風説を当てはめたのではないかと考えます。
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この回答へのお礼

光秀と共謀だとしたら 秀吉は光秀を利用したという事も考えられます
光秀は信長を討ったあと畿内を 秀吉が西国を抑えて天下を…という算段を2人で話していたのではないでしょうか?
しかし秀吉は最初から光秀を利用するつもりでいた…
光秀に信長を殺させれば光秀は天下の謀反人 それを自分が討てば 天下統一へこれほどの後ろ盾は無い ということです

事前に本能寺の変が実行されるのを知っていたからこそ 毛利との和睦を速やかに行い 信長配下の武将では最も遠国にいながら 最初に光秀と槍を交えることができたのでは無いでしょうか?

山崎合戦の前光秀は 秀吉が摂津国富田まで引き返してきたという知らせを聞いたとき「おのれ秀吉 裏切ったな」と漏らしたと伝えられます
つまり 2人の間には共謀関係があったと考えてもいいのでは?と思います



ご静聴ありがとうございました

お礼日時:2012/12/01 07:21

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