豊臣家にとって頼みの綱だった前田家 しかし利家の死後長男利長は家康に 加賀を征伐してくれるわ!と脅されたとたんに母の芳春院を人質に差し出して降伏
前田利家の息子にしてはあまりにも情けないと思いませんか?
前田があの時点で徳川に屈することなく豊臣恭順を貫いて戦っていたら 隣国越後の上杉は味方だったわけだし かなり有利に戦えたと思うのですが?
利長は情けない男だったのでしょうか?
利家は死ぬ間際に「兵を半分に分け 国元に利長 大阪に利政をおいて秀頼を守護し何があっても秀頼公を守って戦え」と遺言しています
毛利元就は嫡孫の輝元に「天下を狙わず毛利の家を残せ」と言いました
しかし利家は「戦え」と言ったのです にもかかわらず…
あぁ 情けない
No.5
- 回答日時:
関ヶ原の戦いは、豊臣家内の内紛ですから、東軍も西軍も、みんな豊臣家の家臣です。
家康の心の内に、豊臣家を滅ぼしたい気持ちが、すでにあったかも知れませんが、この時点では家康はそれを表に出さず、表向きは、あくまで、家康も秀頼公を守るために、そして、三成も秀頼公を守るために戦ったのです。
なので、東軍につこうが西軍につこうが、どちらも豊臣恭順なわけですが、合戦をする以上、負ければ失脚するので、利長が東軍につき、弟の利政と妹婿の宇喜多秀家が西軍について、どっちが勝っても、前田家が生き残れるようにしたのでしょう。
後の歴史を知っている者から見れば、あたかも関ヶ原の勝利で、家康が、豊臣家を滅ぼす準備をしたかに錯覚してしまいますが、関ヶ原の12日後には、家康は大坂城の秀頼と淀殿のもとに、勝利の報告とともに豊臣家への忠誠を誓う挨拶に行ってますので、あくまで、この時点では家康も豊臣家の配下なのです。
ちなみに芳春院の江戸下向が、前田家の人質であるなら、それを仕切ったのが前田家か徳川家でなければならないはずですが、実際にこの江戸下向を仕切ったのは、堀尾忠氏と増田長盛と長束正家の豊臣三奉行です。
(芳春院が通る道筋の大名たちに、食糧や宿泊の手配などを命じる三奉行連書状が現存します)
つまり、芳春院は前田家としてではなく、豊臣家の代表として江戸に向かった事になるのではないかと思います。
しかし堀尾 増田は東軍加担でしたが…泣
豊臣の代表なら西軍加担のはずでは?
まぁ 親子で東西に別れてますけど
家康の腹の内は福島正則以外はみんな気づいてましたよ
秀頼を守る意思なんか家康には無いって事ぐらいね
とにかくありがとうございました
No.4
- 回答日時:
>なら堀を上杉と挟み撃ちで 上杉が越後に復帰
>そこから…というシナリオも
まさに空想の産物ですね。当時の景勝は家康と敵対していないので、連携までこぎ着ける前に前田家は動員された大軍の前に屈しているでしょう。仮に連携が成立しても、史実で明らかなように上杉は伊達・最上で精一杯でしょうし、前田は上方からの大軍を防ぐのが関の山、背後の越後に攻勢にでるなど論外でしょう。現実的に不可能です。
>毛利が減封されたのは他ならぬ吉川広家のせいです
というのが毛利本家の言い分であって、西軍の総大将まで務めていながら本領安堵されると思っている方がどうかしています。総大将としてふるまい西国の東軍諸将の領地をかすめとろうとしているのですから、明らかに減封の原因は輝元の行動にあります。そもそも徳川方に通じていたのは広家だけではなく毛利氏譜代重臣の福原広俊もいたことを忘れていないでしょうか?
>親父殿より友情をとった利家は利家らしいと言えますが
>息子は情けないと思います
友情というより現実利害でしょう。友情なんぞで家臣は食べさせられません。
あなたの個人的感情で情けないと決まっているなら、わざわざ質問しないでください。
No.2
- 回答日時:
あのー、前田加賀藩は外様大名でありながら百万石の大藩であっただけではなく、徳川幕府はその治世で約200の藩を取り潰したのですが、その取り潰しも逃れて幕末に至るまでその名を残したのですぜ。
上杉景勝はどうなりました?確か謙信公の最大版図が120万石くらいで、御館の乱で領地を失ったのはしょうがないとはいえ、その後90万石まで復帰させるも米沢転封で確か60万石くらいになって、関ヶ原後は30万石になっちゃったでしょ。
びびらなくて家臣を貧乏のズンドコに落とした景勝と、(質問者さん基準で)びびって百万石を残して兼六園を始めとした「小京都」と呼ばれた繁栄と文化を残した利長。どっちが名君ですか?
そりゃ 徳川と前田は親戚ですもん 利長ちゃんの弟(三代藩主利常)の嫁は秀忠公の娘ですよ
名君なのは利長じゃなくて母ちゃんですね
利長自身はびびって何もできなかったんです
まだ抵抗しただけ上杉のほうがマシです
No.1
- 回答日時:
上杉景勝は会津に転封となっており、隣国越後は親徳川の堀秀治の領地です。
敵対すれば挟み撃ち、妥当な判断でしょう。天下を狙うなと言われたにもかかわらず、欲を出して四国や九州に兵を出した挙げ句、防長2国に領地を削られた輝元に比べれば、30万石以上領地を増やした利長の選択は見事としか言いようがありません。
情けないどころか、戦場で柴田勝家を裏切って領地を増やした利家の子として、さすが、と言えるでしょう。
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