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カントの義務論、道徳法則と、ヒュームの社会契約、道徳についての思想の対立点を探しているのですが、ヒュームのほうの考えがいまいち理解でいていないせいか二者とも同じように思ってしまいます。詳しい方に教えていただきたいです。

A 回答 (1件)

カントが仮言命法(もしAしたいならばBするべきだ)を、定言命法よりずっと軽視していましたね。

つまり、利益を得るためになんらかの行為を手段として実践するという功利主義的な判断を斥けるわけです。となると、ヒュームには功利主義的な考えがあるならば、それはカントとの違いだと言えます。ほかにも違うところを探すことはできるでしょうけれど。
ヒュームの『人性論』から引きます。
「各人が、自分の仲間たちは自分と同じ利害をもつということを見聞きすれば、そしてその仲間たちが契約における自分の務めを果たすとわかれば、各人は契約における自分の務めを果たすだろう」
お互いが約束したことを果たすならば、お互いの利益になる。それがわかっていれば、自分が約束を果たすことについで、相手も約束を果たす。
約束を破るのはリスキーですよね。約束を破ったら、その評判が広まって信用度が落ちる上に、それ以後は「私がAするかわりにあなたはBしてください」という約束を他人が受け入れてくれなくなる可能性が高い。「AするからBしてね」という約束を履行することは、その意味でも利益に適う。ヒュームは、約束の履行が相互の利益になることを、約束した両者が了解しているがゆえに、互いの利益のための共同作業としての契約履行が可能になると考えます。
カントは約束や約束の反故についてこうは考えません。「約束を守らない」という格率は、「ある人は約束を守る」という事態があってはじめて成り立ちます。一方の理性的存在者が約束を守り、他方の理性的存在者が約束を破る。ゆえに「約束を守らない」という格率は普遍化不可能であり、「約束を守らない」は道徳法則にはならないと考える。

ヒュームは、約束をする各人のいわば利害の一致を重視する。
カントは、利益を得ることを目的にする手段としての約束という観点ではなく、「約束を守る」は道徳法則であるがゆえにそれじたいで理性的主体の目的となると考える。
これはカントとヒュームの違いの一つでしょう。
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