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魏の皇帝曹芳は卑弥呼の使いに大量の下賜品を与えています。

 金印紫綬、銀印青綬、緑地交龍(赤地にミズチと龍の模様を織る)錦五匹、締地銘粟罫(赤地に細かいケバの付いた毛織物)十張、著締(茜で染めた赤色の布)紺青(色の布)五十匹、紺地句文錦(曲線的な模様の入った錦織)三匹、細班華罫(細かいまだら模様の入った毛織物)純白の絹布五張、金八両、五尺刀二振り、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各々五十斤

まず、どれだけの量、重さになるのか教えていただきたい。
匹、張、両、斤など単位がよくわかりません。
もし鏡が三角縁神獣鏡なら、重さは一枚1kg強あるので、百枚あればだいぶ重いです。
人が担って運ぶとすれば何人必要か。
中国では車軸を利用した大八車や馬車のようなものはあったでしょうが、日本にもあったのか?
よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

このような質問を考えるのはとても楽しい。


「どのようにして運んだのか」この件についてだけ回答らしきものを書きます。
それは人担(人が担って運んだ)と思います。
推定根拠は次のとおり。
当時の様子を知ることができる文字史料が日本にはないので、飛鳥時代、奈良時代を参考にして考えました。
1)奈良時代でも、寺院建設時、瓦は人担輸送が主力のようです。

レファレンス協同データベース「瓦の運搬方法」
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrd …

<以下引用します>
『日本の古代瓦窯』
「武蔵国分寺造営での造瓦は、郡が一つの責任集団であり、その下部の郷、さらに郷を構成する戸主といった行政組織にのって、戸主層より瓦の納入がなされた。しかし、実際には、国ごとの各瓦屋に瓦長から一括発注され、焼きあがった瓦は、郡、郷の責任で人坦輸送し、それぞれの瓦屋から寺へ搬入されたものであろう。」とあり。

『武蔵国分寺古瓦塼文字考 早稲田大学考古学研究室報告 5』
「瓦塼の運搬については、人担、車載、馬力などを考えることができる。しかし、奈良時代の瓦[セン]運搬に関する一般的記録が存しないので、延喜式木工寮の記載を参考とすれば、(略)」とあり。延喜式木工寮の記載には、瓦に関して人担の率・車載の数量が定められている。このことにより、筆者は運搬方法として「人担、車載、馬力など」をあげている。 <以上引用終わり>

2)明日香石舞台古墳の築造時、土や石を「もっこ」や「せおいこ」で運んだと推定されています。土の重さは、含んでいる水分によって変わりますが、ほぼ水と同じです。比重の大きい銅鏡は、かさばらないので、同じ重さであればかえって運び易いと思います。

「石舞台古墳築造の謎」 明日香村・関西大学共同制作
http://www.asukamura.jp/youtube/ishibutai.pdf

3)箸墓古墳の葺石は「手こし」で運んだ、と『記紀』にあるそうです。
  であれば、卑弥呼に贈られた品々も人担ではないかと想像します。

「古墳の石」 新潟応用地質研究会誌第66号
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp:8080/dspace/bi … 

<以下引用>石は重いので運搬が問題である。箸墓古墳の石は大坂山(芝山か二上山)から手こし(手から手にリレー式)に運んだと『記紀」にのっている。その可能性は否定できないが、道のりは約18キロである。手こしでなくともいろいろな方法で運ばれたであろう。<引用終わり>

4)車は、卑弥呼の時代にはなかったのではないでしょうか。
ぬかるみや丸木橋など、整備されていない道ではかえって不便だと思います。

「ホイールの歴史」5ページ 日本自動車用品・部品アフターマーケット振興会
http://www.jawa.jp/download/chap01.pdf#search='% … 

<以下引用>ところで、わが国では遺物としては発見されていないが、先史時代にも簡単な車があったものと思われる。日本書紀には紀元400年ごろの履伸天皇紀に天皇の乗る車を作る部族であった車持部(くらもちべ)や、その長である車持ノ公という名が見られることから、この時代には他の古代国家と同じような形の車輪があったようである。<引用終わり>

毎日新聞記事「国内最古の車輪出土 7世紀後半?」

http://www.eva.hi-ho.ne.jp/ordinary/JP/rekishi/r … 

5)馬は、飼育して調教して、はじめて使用できるものですが、卑弥呼の時代のことは私には分かりません。

6)一人が担う重さは、岩波書店『列島の古代史 4 人と物の移動』によれば、
  籠に詰められた貢納物は、「延喜式」木工寮人担条で一担は大60斤(約38.4kg)
とされている、
と書いてあります。
こんなに重い物を担ぐことは、私にはできません。

だらだらと私の推測ばかり書きましたが、少しくらいはお役に立てればの思いです。
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NO.3 です。

補足頂きましたのでお答えします。
先回も書きました朝鮮通信使の国内通行,多数の運搬人足が徴発されています。
技術があっても,それが広く普及する為には,社会的生産力の発展が不可欠です。
古代中国では,王族の興亡に係わる戦闘が繰り返されてきました。その間,戦闘用馬車は普及しましたが,運送用には普及していません。持てるものと持たざるものとの差,それは,その社会での経済力,生産力で規定されます。奴隷的労働や農兵の徴発が,王族の生活を支えていた時代の,社会的未発展に注目しましょう。
日本での大八車の普及も,農村に及ぶまでには相当な年月を要しています。一輪車も,木製車輪で壊れやすく,今日ほどには普及しませんでした。
自転車も,昭和初期にはお金持ちしか買えませんでした。生産力が急速に向上した今日では,自動車が一人1台,複数台保有する家庭も珍しくは無くなりました。
技術力と生産力とは,発展・普及の仕方に大きな開きがあります。始皇帝の馬車が2000年も前に発明・実用化されていたにもかかわらず,広く普及しなかったのは何故でしょうか。
生産力・量産技術が伴わなかったからです。
歴史の考証は,社会的生産力の観点と,身分差・階級差の観点を抜きには出来ません。
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まず,『下賜品』についてですが,これは,『朝貢品』に対する儀礼的な『返礼品』に過ぎません。


中国の諸代皇帝が,周辺国を見下して朝貢させていたのであり,これは,港地での自由貿易黙認の手段として,双方了解の交易法でした。『朝貢貿易』の常套手段でした。遣唐使などの使節に便乗した留学僧などが,多数の文物を持ち帰っていることをにも,注目が必要です。
日本でも平安時代に「鴻ろ(月偏に盧)館」を置き,外国使節の接待所として国交と共に交易を図りました。江戸時代の長崎「出島」も,それ以前の「平戸」も類似の施設です。

運搬手段ですが,車軸を利用した大八車や馬車のようなものは,中国にもありません。
大八車は江戸の産物で,道路状況の良くなかった時代には,全国的には普及していません。農村で用いられたのは,昭和前期まで主として一輪車でした。
戦国期には「馬匹」という運送業集団が居ましたが,馬の背中に乗せて荷を運んでいます。
中国には古代から戦車はありましたが,平地での固い地盤の上での戦闘が前提です。山岳地帯での運搬手段は,今日でも人手や牛馬の背中に頼っています。

下賜品の総重量は他の人の回答を参考にして下さい。

この回答への補足

始皇帝の墓に馬車が見つかっています。
馬車の車輪幅まで規定されていたそうです。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~tanzawa/heibayou1/he …

補足日時:2013/03/05 03:06
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正確なことは私にはわかりません。

このサイトも参考にしてください。
http://www.cac-net.ne.jp/~inohanda/tourei01.html
重量だけでものを測ることはできませんが、全体で500kgにはならないでしょう。
人が運ぶ場合でも、20~30人で運べるのではないでしょうか。
魏志倭人伝では、倭には牛、馬、虎、豹、羊はいないとなっています。服装などの記述状態から想像すると、車軸を使う運搬具はなかったでしょう。
 
時代が江戸時代末になりますが、和宮が京都から江戸に行くときの行列や荷物運搬は、近隣から人足などを調達しています。遣隋使、遣唐使などの場合も随行員等も身だけでいくことが多く、荷物は賦役で人足を近郷近在から調達していたと思います。
http://www.city.kasugai.lg.jp/bunka/bunkazai/kyo …
 
玄奘三蔵なども随行の僧だけでなく、荷物運搬は別口で人足や兵隊を使っていたと思います。
三蔵の運んだ分量はとても多く、馬や人足もたくさん使っていますが、この時代と西域旅行ルートと、魏志倭人伝の時代やルートとは違うし、分量が桁違いです。
http://ethnos.exblog.jp/5503548/
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匹→反物(着物などを作る材料)の枚数  張→出来上がった製品(絨毯や緞帳「幕」)  両→金(Gold)の量   斤→金(Gold)の重さ、他に匁(もんめ)も有り「この斤の項はwikipediaを参考に」。

量や重さについては今の計り方とは違いますので確実なことは差し控えます。あと豆腐などは 丁 箪笥は 棹(さお)と数えますね。本題ですが、魏志倭人伝自体がほんとのことを記述しているかどうか、はなはだ疑問もあり、考古学でも立証されたものは何一つありません。只 三角縁神獣鏡は畿内では見つかっておらず、九州が圧倒的に多い。「漢委奴国王印」の金印が偶然見つかったのも九州の孤島ですね。邪馬台国自体が何処か?私は近畿の者ですが、九州説を支持しています。それも具体的には「宇佐」です。何故かというと神の降り立った地高千穂のほぼ真北に位置している。京大などは畿内説、東大は九州説に分かれてます。大八車や馬車はあったのかどうか?当然あったと思います、それまでに何度も卑弥呼の使いが訪問していますので、見ているはずで同じようなものを持っていたと考えるのが妥当だと。魏志倭人伝に興味を持たれているのはやはり古代のロマンからですか?よく読むと「南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る」これが考古学者を悩ませているものです。帯方郡から距離と方向をそのまま辿ると遥かフィリピンの東太平洋上になります、そんなことはないですよね九州南部を支配していた「熊襲」が居たのですから。話は逸れましたが面白いというか、私としては邪馬台国の有った地が特定されないほうが良しと思っています。そのほうがロマンもありいろんな論争を聞き立証していく作業も面白いからです。一度地図を広げて 宇佐と伊勢を線で引いて また宇佐と出雲 伊勢と出雲を線で結ぶと二等辺三角形になりませんか?その底辺 出雲から宇佐と伊勢の中央(直角に線を引く)に高知県 そこには一の宮という神社があり、三種の神器の一つ「草薙の剣(天叢雲剣)あめのむらくものけん」を一時祀った所です。実際そこに訪れました。
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