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黒曜石やサヌカイトは重要な交易品だった、と教科書に書いてあります。
数百kmに及ぶ驚くほど広範囲で交易が行われていたようです。
特に遠方の交易の場合、産地の人が出かけて行ったのですか、それとも産地へ求めてやって来たのでしょうか。
「そんなことは分からない」というのが正解かも知れませんが、こんな考え方があるといったようなことを教えて下さい。
よろしくお願いします。

「黒曜石研究の動向」
http://www.ao.jpn.org/kuroshio/kenkyudoko.htm 
これは読みましたが、解答はありませんでした。

A 回答 (8件)

人が歩けば道になる。

道ができればさらに人が通うようになります。
最初は産地に人が求めにやってきた。現地での物々交換が始まり、
やがて互いに人々が行き交うようになり、そのうちに中間地の河口の港町
などでの取引も始まるようになるのではないでしょうか。

参考URL:http://www4.tkc.pref.toyama.jp/toyama/topics_det …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

同じ産地の黒曜石やサヌカイトがあちこちの広い範囲で見つかるということは、各地から産地へ求めてやって来たのでは、と想像していました。
それは、必需品であるから欲しい人が何かの情報で産地を知り、産地へ向かったのだろうと思ったからです。
産地の人びとは、本来、自分たちが使う分だけ生産しておればよいわけですから。

私は、特に和田峠・霧ケ峰の黒曜石に関心がありました。
神津島産のものは、舟で遠くへ運べますが、内陸産のモノが広範囲で見つかっていることが不思議で質問しました。
参考URLは、私の想像に沿った内容で勇気づけられました。
大変参考になりました。

お礼日時:2013/06/15 21:13

交易を商業取引・経済活動と考えずに、儀礼としての贈答と考えればいいのではないでしょうか。


No.1回答者のPopoAminさんが述べているのは縄文期以降のことなのでしょう。
 
旧石器時代のようなときでも、小さな集団が広範囲に移動しています。そうした集団のメンバーは相当の長距離でも苦にせずに必要なものならば採取にいったと思いますが、それでも、かなりの石資源は他の集団からもらったのだと思います。贈呈する側の集団も、自分たちが高い価値を認めているものを、出会った他の集団に上げたのだと思います。
代わりに高い価値のあるものをもらえないならば贈呈しないというようなことではなかったろうと思います。
相互扶助などとは決して考えなかったでしょうが、狩猟採集で移動していて他の集団に遭遇・接近したときには、自分たちが大事にしている価値ある石器や骨器、狩猟・漁労用具などを贈与することが当時の人の大事なマナーだったと考えるのが妥当だと思います。 狩猟採集で生活しているならテリトリーは大事で、そこに侵入したのであれば贈答儀礼は敵意を持っていないことを示すためにも欠かすことはできなかったでしょう。
定住・農耕などになってくれば、そうした贈答習慣が、バーター取引のような交易に変貌していくことになったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「交易」という現代用語から、経済活動をすぐに思い浮かべましたが、なるほど、贈答儀礼の面から考える必要もありますね。
全部がそうではないでしょうが、少なくとも贈答儀礼が交易のきっかけになったことはまちがいないでしょうね。

>狩猟採集で生活しているならテリトリーは大事で、そこに侵入したのであれば贈答儀礼は敵意を持っていないことを示すためにも欠かすことはできなかったでしょう。

そうですね、参考になりました。

お礼日時:2013/06/18 20:02

縄文時代に2種類の人達が日本列島に住んでいた。


片方は、ユダヤ系。もう一方は、出雲系です。
ご存知の通り、ユダヤ系は船を使い外洋貿易を盛んに行い。
出雲系は、特定地域しか移動しない人達です。

日本史を封印が施され、ユダヤ系(平家)に関する内容が伏せられています。
私が知る限りでは、船でエジプトまで行き、階段状ピラミッドを建設していました。
ジェドエフラー王の建設中で中止になったロストピラミッド(現在の呼び名)です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

エジプトまで行ったことをどうも理解できません。

お礼日時:2013/06/16 20:24

縄文人は海洋交易民族でしたよ


海を渡って遥か数千キロも旅していた様です

黒曜石は神津島から伝わってきたみたいですね
島民が本土に持ち込んだのが起源とされています
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
神津島の黒曜石なら海路で遠方へ運ばれたことでしょう。

お礼日時:2013/06/15 20:50

石器時代の日本は、まだ蝦夷の統治時代でした。


邪馬台国以前の時代でしたが、その影響は中国の河北省の「燕」との繋がりが深く、卑弥呼の時代まで続きます。
当時の讃岐岩は、鉄製武器よりも鋭利なものであったので、非常に需要がありました。
まして、中国は戦乱期です。
日本は金銀玉鉄と交易品が豊富であったので、中国人に重宝がられました。
中国の東北部が重要視されたのも、この交易品があったればこそです。
中国人は朝鮮まで支配下にしましたが、そこで採掘できないことを知りました。
存外不毛な土地だったのです。
今の平壌辺りまでが中国でした。
そこから先は日本領でしたので、上記の産物が本土から送られて来ます。
ここでは中間貿易が盛んに行われました。
中国人に顔の利く朝鮮人の商人が、和船で渡来しました。
中国人の方が造船技術が高いと思われがちですが、海洋国家でも中国にまともな造船技術があったとは考えられません。

とまぁ、こんな感じで中国、朝鮮、日本との三国間貿易が成立していたのです。

石器時代の文化水準も高かったというのは、十和田高原文明の研究などで分かってきていますよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
よく分かりませんが、日本の黒曜石やサヌカイトが中国で出土しているのですね。

お礼日時:2013/06/15 20:44

現代で言えば クラ交易


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9_ …

こんなかんじで隣接同志の交換ではないかなぁ

http://www.archatlas.org/ObsidianRoutes/Obsidian …


けど定住前でうすーい人口密度であれば、ウロウロしてたかもしれないなぁ。
なんせ ヒト科の動物で歩きまわるののが本性なのが ホモサピエンスだから
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

クラ交易と呼ぶ、文明が入り込んでいない地域の慣習には大いに興味があります。
物々交換とは違うのですね。

定住する前の段階であれば、獲物を追って辿りついたところが生活拠点になるわけですから、ウロウロしていても数百年というスパンで見れば、数百km離れたところで同じ産地の石器が見つかっても不思議ではないですね。
交易というよりは、産地の人が思い思いの方角に散らばって行ったという感じで、ウロウロ説は納得できます。
もちろん、全部が全部そうではないでしょうが。

お礼日時:2013/06/15 20:30

縄文期には既に職業的な集団が形成され,土器や石器の製作に従事する職人の集まりがあったと解されます。


交易には陸路にしろ海路にしろ,地理や運搬技術を会得した人達が居て,生産地から消費地へと物々交換の仲立ちを業とする,運搬人集団が居たと思われます。
でなければ,生産者が生産物を携えて需用者を捜し求めて長旅をしたり,慣れない海路の危険を冒すとは到底思えません。
舟の建造もそれなりの職人が居り,集団で作業したと思われます。
土器・石器・玉造り・たたら製鉄などの工房跡の発掘などがそれを証明しています。
生産物の交易には,交易仲介の専門家集団が居たと解すべきでしょう。
後の弥生→古墳時代には,古事記や日本書紀にも記されているように,モノノベ(物部)と言う戦闘集団が形成されていたこと,ヤハギベ=矢作部,ハトリベ=機織部その他諸々の部があり,職能を携えた氏族が形成されていたようですが,ワタリシ=渡氏(海運),ハフリシ=祝氏(祭神)等,様々な職業氏族が豪族化していったものと考えられ,その始祖が縄文期にあったと見られます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>縄文期には既に職業的な集団が形成され,土器や石器の製作に従事する職人の集まりがあったと解されます。
>生産物の交易には,交易仲介の専門家集団が居たと解すべきでしょう。

なるほど。
ということは、生産者の支配で運ばれたということですね。
ナイフ状の剥片は生活必需品だったでしょうから、それを求めて各地から生産地またはその中継点へやって来た、と想像していました。
縄文期、数千年の間にそんなネットワークができていたのだろう、という想像です。

お礼日時:2013/06/15 20:28

交通路が不備ですから交易品を携えた人間が長距離を移動するのは無理です。


西の集落で交易によって手に入れた黒曜石を、今度は東の集落との交易で
他の物資との交換品として手放す。それを手に入れた人物は自分の集落に戻ると
逆方向にあるもう一つの隣の集落との交易で欲しい物と交換に手放す。
こういった狭い範囲での交易が次々と繰り返され、いつしか黒曜石は
はるか数百キロのかなたまで移動して行ったと考えられます。
こういった交易はシルクロードの時代にも行われていました。
あるオアシス都市の商人の交易範囲は
西隣のオアシス都市から東隣のオアシス都市までというのが普通で、
マルコポーロのように長距離を旅する商人は少なかったようです。
短い交易範囲での交易が次々とつながっていつしか長大な交易路が
形成されていくのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>交通路が不備ですから交易品を携えた人間が長距離を移動するのは無理です。

そうですよね。納得です。
“狭い範囲での交易が次々と繰り返され”て、いつしか数百キロに及ぶ交易路ができたのですね。

お礼日時:2013/06/15 20:24

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