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ひとり言のような作文だよ。
文章の推敲のための助けとして回答してくれても良いし哲学可能ならその方がいい。

社会性が、すなわち人の行いが、善の資質を備える事の表れだと言う前提から始めるよ。
文明とは農耕の事なんだそうな。
農耕とはすなわち、自らが生きるために他の生命を育む事である。
このように自らが生きるために、他者をも生かすことにつながっているのが、人間同士の共生として社会生活だ。
生かすから生かされるのが利他であり、生きるから生かすのが利己だ。
見解は人の主観によってさまざまな解釈があるが、所詮同じ事だ。
人を生かす事とは、人に親切にしたりして良くしてあげる事であり、生きる事がすなわちそのような行いである以上、それは善性の発露だ。
屍をさらしてさまよう人は生きているとは分類しない。
そうでなくて、人が生きていて、今後も生きようとするなら、善性に基づいて他者と共に生きようとするのが必然である。
ここで、生きている事は偽りなく善であり、その善のみで生きるのが、悪を知らない私のような生き仏さんだ。
禅宗などの無我の理想的解釈によると、真理とは主観内からは推し量られない事になっているので、無我になる事でそれが可能だとしている。
その例え話上の無我論で論理的に、偏見を捨てれば世界が見渡せると言う事になっている。
私はその真理に、真理の立場では悪は存在しないとか何とか言って一時期流行したがそれはともかく、重要なのは、そのような真理の見地は実際には無我の正反対で確固とした我が確立した「天上天下唯我独尊」であって開ける見地だ。
我は存在する事が動かし難い。
無我の伝承上の理想論そのままであるからこそ、そこには「我」そのものである幸福を実感する私がいる。
そんな私の弥勒菩薩ブリはともかく、釈迦はその説話で悪をたびたび批判している。
当時の無我論でも逆説的表現とは言えそれを実感可能な境地であったならば、真理に悪は存在しないため、釈迦は悪を見なかったはずだ。
したがって非常に胡散臭い。
さらに生きる事が善性の発露である人間の社会生活は、全てが幸福であり、釈迦の言った全てが苦の世界観は偽りだ。
そうすると、無我論は何だったのか、私には明白な解釈が出来ないので考えあぐねています。
くだらない錯誤である事はおおむね間違いないのですが、猿にでも判る明白な解釈をしないと商売になりません。
ですので、サル踊りしてください。
私は自説を商売にするつもりがあって、猿でも悟れる無の境地を一冊の本にでもしようかと本気で考えています。

A 回答 (11件中1~10件)

 この世で人に関わる神はいません。

神の教えのみがあります。それだけですよ。

 神が輝くか、それとも闇に隠れているか。そんなことはどうでもいいのです。

 学校と似ていますね。生徒にとって先生はいる。でも、先生がいること自体は生徒に関係はない。何を教えるかだけが問題です。そして卒業してしまえば無関係です。

 もし、「私は○○先生に教わったんだ、凄いだろう!」と言ってみても、その教わった人に内在するものにしか意味はありません。

 神がいるということを拠り所にしてもいいですよ。しかし、それは他人とは共有できません。共有しても仕方ない。何も生み出さない。あくまでも、教えです。それを理解し、使いこなせればいいだけです。

 もちろん、神に己が望むままのことをしてくれと欲するのは邪道です。己の望みは、己と親しい人、善意の人の助けで行わなければなりません。もちろん、自分も他人の望みを実現することは手伝う。

 そして、神の教えでなくてもいいのです。神と無縁な哲学でもいいし、平易な常識でもいい。それらにより、誇りもせず、愚痴も言わずに、無名のままで、ごく普通に自分を保ち、他人を手助けし、世間をさせる一助になればいいだけのことです。

この回答への補足

辛口だがお礼の追加だよ。
かつての私の質問。
無の悟りとは単純明快である。
http://okwave.jp/qa/q7612407.html

ここに出てきた「そんなのありゃしねー」をその通りだ、もっともだ、と言いながらそんなのありゃしねーのまま信仰として携えている。
そんな傾向があるから「無」が、私の考える無と違っているよ。
信じているならその信仰を侵害したくはないよ。
無実は自分で証明してくれ。
回答の形で私にだけ反論しても歓迎だよ。

補足日時:2013/03/06 23:29
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この回答へのお礼

何度もありがとサン。
実のところ私は過去にストーカー回答者につけ回されたので、改めて回答者の話をまともに聞く気になったのは、半月ほど前からだ。
あなたの回答を3つとも改めて読んでみたよ、今回の回答で特に顕著に理解できたのだが、無の哲学が無の信仰の土台の上で発展している。
神と言う言葉を使わないとしてもだ、、知性のありようと個人の資質は信仰とみっせつに関わっていて、無の信仰は実際には一般的な事だからそれをどうこう言うつもりはないよ。
ただ無、または無常という結論が先にあってそこから一歩も踏み出さない考え方について、このカテゴリーの常連さんがタコつぼ暮らしとか何とか言っていたが、私はそこまでに苛立ちを感じないが、かの常連さんの言い分もなるほどとも思ったよ。
そもそも私は神について知ろうとも思わなかった。
仏に対しても同様だ。
信じるとすれば、人が人を信じ通じ合う事だと考えていた。
それを今解釈すると、我が道として人を信じたと言うよりも、神に背中を押されて人間らしく生きようとしたと言う事だろう。
人間自身を考える事が哲学であるように、神について考える事もそこから人間をしる哲学だと考える。
「無」は「死」と同じく人間について考える哲学について回る問題だとも考える。

お礼日時:2013/03/06 21:43

こんばんは。




>「社会性が、すなわち人の行いが、善の資質を備える事の表れだと言う前提から始めるよ。」

ここから、違います。。。多分、二重・三重に違う。「社会性」、「人の行い」、



>「文明とは農耕の事なんだそうな。
農耕とはすなわち、自らが生きるために他の生命を育む事である。
このように自らが生きるために、他者をも生かすことにつながっているのが、人間同士の共生として社会生活だ。
生かすから生かされるのが利他であり、生きるから生かすのが利己だ。
見解は人の主観によってさまざまな解釈があるが、所詮同じ事だ。
人を生かす事とは、人に親切にしたりして良くしてあげる事であり、生きる事がすなわちそのような行いである以上、それは善性の発露だ。」

>「生かすから生かされるのが利他であり、生きるから生かすのが利己だ。」
そうでしょうか・・・「分業」ということは、それで十分でしょうか?


>「屍をさらしてさまよう人は生きているとは分類しない。
そうでなくて、人が生きていて、今後も生きようとするなら、善性に基づいて他者と共に生きようとするのが必然である」

「契約を基調とする社会においては、「善性」というのは(残念ながら?)、必ずしも重要ではない」


(以下略)
ここで、生きている事は偽りなく善であり、その善のみで生きるのが、悪を知らない私のような生き仏さんだ。
禅宗などの無我の理想的解釈によると、真理とは主観内からは推し量られない事になっているので、無我になる事でそれが可能だとしている。
その例え話上の無我論で論理的に、偏見を捨てれば世界が見渡せると言う事になっている。
私はその真理に、真理の立場では悪は存在しないとか何とか言って一時期流行したがそれはともかく、重要なのは、そのような真理の見地は実際には無我の正反対で確固とした我が確立した「天上天下唯我独尊」であって開ける見地だ。
我は存在する事が動かし難い。
無我の伝承上の理想論そのままであるからこそ、そこには「我」そのものである幸福を実感する私がいる。
そんな私の弥勒菩薩ブリはともかく、釈迦はその説話で悪をたびたび批判している。
当時の無我論でも逆説的表現とは言えそれを実感可能な境地であったならば、真理に悪は存在しないため、釈迦は悪を見なかったはずだ。
したがって非常に胡散臭い。
さらに生きる事が善性の発露である人間の社会生活は、全てが幸福であり、釈迦の言った全てが苦の世界観は偽りだ。
そうすると、無我論は何だったのか、私には明白な解釈が出来ないので考えあぐねています。
くだらない錯誤である事はおおむね間違いないのですが、猿にでも判る明白な解釈をしないと商売になりません。
ですので、サル踊りしてください。
私は自説を商売にするつもりがあって、猿でも悟れる無の境地を一冊の本にでもしようかと本気で考えています
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この回答へのお礼

ありがとう。
そうさな。
「なぜ人殺しが悪いかわからない」
こんな事お言う青二才がいたとしてだな、尋ねられた大人は自分では人殺しするつもりはなくても、青二才を説得する言葉は見つからないらしい。
馬鹿の相手は猿回しから始め、サル踊りをよく観察したうえで、猿を飼いならす方法を積み上げていくのだ。
今回は応える言葉を準備しないよ。
こうしてかかわらない事は無記と言ってな、「そんなのありゃしねー」と「それを語る言葉はない」これを使い分ける有無の分別で卑怯な大人のやることだ。

お礼日時:2013/03/07 20:15

なんか、つまらないなあ。


書くこともない。

調べていたら自分で自分が間違っている箇所も
わかったしなあ。

仏教の魅力とは何だろう。
つまらない。

健康に生きるのが大切なら
雪中断臂とかくだらないですよね。

慧可
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A7%E5%8F%AF

なんかwikipediaを見たら、そもそも作り話らしいし。

そもそも、ブッダの対機説法で
矛盾していることを話していたら
もうなんでもありになるし、

サンカーラの滅した人間とはなんだろう
という根本的な問題もあるみたい。

まさか自殺万歳というわけでもないだろうし。

人助けが大切ならわざわざ出家しないで、
普通に暮らしていればいいのだし、
たとえば儒教には仁というのがあるのだから
わざわざ慈悲でなくてもいいのでは?

仏教のオリジナリティとはなんでしょうね。
そんなものないのかな。

この回答への補足

お礼の追加でゴルゴム節だよ。
世界に幸福を見る私は生きる事を楽しめるが、悪い方にばっかり考える君達は、ほっとけば死ぬか殺し合うかする。
仕方がないので奴隷として養ってやろうかと考えるのが、生き仏だ。

冗談だよ。
気にすんな。
それとも本気になってもらいたいのならそう言え。

補足日時:2013/03/06 22:18
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この回答へのお礼

ありがとう。
そうさな、今考え始めた事なんだが、全てが苦の世の中ってのは、全てが悪の世の中だろう。
そして無常であるとは、全てが悪く変化すると言う事だ。
この世界に幸福を見るならば、全ては善であり、無常である事は全てが良い方向に変化すると言う事だ。
仏教は一切そんな考え方はしていないな。
キリスト教でも世界は滅亡に向かっていると言う考え方を捨てきれないでいて、宗教全体に要するに世の中わ悪い方向に向かっていると言う風潮があり、その信仰が世相に反映している。
冷静に考えてコレは真実をもちださなくても、事実ですらないのではないかと今後考察しようと考えている。

君の言う仏教の魅力に関する悩みとは宗教の傾向とかかわって生じたのだろう。
または君の信仰心そのものから起因して信じる事に疲れたのだろう。
私の信仰は健全でね、アマテラスさんを「セレビィ」「ジラーチちゃん」とお互いを呼び合う幼馴染のような関係だ。
うらやましいだろう。

お礼日時:2013/03/06 21:59

その質のことはしっかり見えているのに、


そこに分量があることを気づけないことも盲目とされる理由ですよね。

善性の質に目を摂られていたら悪性に用もなく、
発露された悪性の分量だって気づけなくなるのかも。

御釈迦さんも散々苦行して死にかけて、乳粥の施しを受けて河で身体を清めて
悟った。
極端に惹かれず目前の用事を済ますべく済ました人の動作「普通がいいことだ」と。

爪にラメ入りの黒いマニキュアをしてみた♪
宇宙を指先に飾る真似事が出来た♪
ルンルン♪(←死語)

この回答への補足

質問主文の補足だよ。

人を生かす事とは、人に親切にしたりして良くしてあげる事であり、生きる事がすなわちそのような行いである以上、それは善性の発露だ。

この親切にしたり良くしてあげるってのは手ぬるい。
それだけじゃあ、ただいい気分に浸るだけだ。
私の場合生かすために善くする事が徹底していて、なんて言っても縁起が理解できる時間認識知性なので、生きる糧となる未来の光明を与えている。
それで大儲けしておきながら、私を生かそうとは出来ない。
困ったもんだ。
そこで出てきたのが弥勒菩薩商法だ。

補足日時:2013/03/06 22:13
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この回答へのお礼

ありがとうさん。
レッツチチをもげダンスだ。

私は仮面ライダーごっこで遊んだ覚えがあるが悪い事をした覚えはないよ。
プリキュアごっこで遊べば君には気に入ってもらえるかな。

お礼日時:2013/03/06 21:46

>こういうだけなら無常の説明だけで無我はおかしいのではないか?



 ご自分で考えないといけませんよ。多少説明を変えての繰り返しになりますが、アートマンを『自我』と訳して、それの否定としての『無我』です。

 人間にはあるとされ、人工知能などでよく問題にされる『自我』(自意識)とは別のものです。自我が芽生えた、などと表現に用いられる自我とは違うのです。その自我は有為転変するものですから。仏のように穏やかであったかと思うと、一瞬の後には悪鬼のようにもなる。そういう自我はアートマンではありません。

 アートマンを自我と言い、それの否定を無我というなら、自意識たる自我は「心」とでも言うべきものでしょう。ブッダの言う無我を話すときには、紛らわしいですからね。

 そして、ブッダ(由来)の『無我論』では、無我なのは無常だからです。この辺りの事情は、よくブッダの言行を見てみるといいでしょう。否定したいことに無知ではいけません。知らないものは否定しようがないのですよ。

 ブッダはアートマンこそ真の自分である説くバラモン僧に、たとえばこういう言い方をしている。

「あなた(=あなたのアートマン)はどこにあるのか。腕があなたか? 足があなたか? 腹があなたか? 胸があなたか? 肩があなたか? 顔があなたか? 頭があなたか? それとも、あなたを離れて在るのか?」

 そう問われてバラモン僧は言葉に詰まる。死ねば朽ち果てる体のどこにも、永遠不滅のアートマンがあるはずがない。

 さりとて、体を離れてアートマンがあるなら、自らが熱心に行い、他人にも勧める苦行は意味がないことになる。

 ブッダは続けて言う。

「見よ。永遠不滅のあなたなど、どこにもないではないか。」

 ブッダの言う無我とは、こういうものです。たとえば、ですが。無いものは説明できない。有るものなら、それがどのようなのか、少しくらいは説明できる。しかし、無い物は無いというしかない。形容すらできない。

 私はブッダが何を思ったかは知りません。しかし、私の属性に永遠不滅も常なる物もないと思っていますよ。死ねば全てが消え去るでしょう。まずは精神、続いて肉体が朽ち果てるでしょう(日本の法律では火葬になりますが)。そうして生きていた私は、何もなくなります。

この回答への補足

備忘録その4
さらにこねくり回しの材料を見つけたよ。
無常であったとしてだ。
人生まだまだこれからだ。
こんなテレビCMを見かけた覚えがある。
善に基づき困難な現在が良い方向に向かうなら、無常は歓迎すべき事だ。
しかし釈迦が語ったとされる無常には全てが滅びに向かうというニュアンスが伝承されている。

補足日時:2013/03/05 23:04
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この回答へのお礼

ありがとう。
流暢に語っているがその内容は解りやすいよ。
釈迦には現在の仏法僧と同じく救いに対する需要があり、明白に求められていただろう。
あなたの説だと私と同じく救いはなく憐れみを慈悲として手向けるだけだとなる。
理性的にも他者の救いの需要をそれだけで満たせると言うのなら悟りに困難はない。
そうして私はこんな言葉を切りだした。

神のみが輝き、その光の前に我はいない。
自己になくても神にはあり信仰でつながれば、言わば救いと言う事もあるだろう。と、解釈もできる。

お礼日時:2013/03/05 22:29

 ブッダの無我は、当時のバラモンのアートマン(永遠不滅の『自我』)に対する回答でしかないですよ。



 人間には永遠不滅の自我なるものがあり、それが業を重ねて苦が生ずるとして、その統制を目指せとバラモンは言う。

 古代インドのヨガにもそういう考え方があり、バラモンがベースになってヨガの思想となったか、古代インドからある信仰を取り入れたヨガからバラモンが学んだか、はっきりしませんが。

 ブッダは、それに対して「どこを探してもアートマン(永遠不滅の自我)なんてなかった」とし、それが事実だと結論しただけです。それを名付けて日本語では無我説と呼んでいるだけです。

 別に、「己を滅せよ」といったものとは、本来は関係ありません。我は自覚できるように在る。ただし、それは他のあらゆる存在と変わらず、因と縁により生じ、無常で有為転変して、最後に滅するということだけ。

 ちなみに、我につきまとう苦も同様に無常です。永遠不滅の苦もないけど、苦が尽きてなくなってしまうこともない。

 そういうシンプルな話です。ただ、それを受け入れる心境にどうやったらなれるかは、分からない。ブッダも説明できないとした。ただただ、分かった結果を応用して、個々人に教えて見て、かなりの成果があった。

 弟子らがそういう事例を記録し、引き継ぎ、今に至るも研究・実践を続けていて、幾多の悟者も出たけど、未だに説明はできないという状況です。

この回答への補足

備忘録と言うよりも要らぬ親切。

テメーで何とかしろ。
誰か他者の信仰心を直接代筆する事は誰にもできない。

神がいなければ我もいない。
神のみが輝き、その光の前に我はいない。

補足日時:2013/03/05 21:54
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この回答へのお礼

ありがとう。
解りやすい説明で読み解きやすかったよ。
研究課題の現在の認識過程について解りやすかった。
その考察を要約すると、やはり当時の宗教家同士の権力闘争の一部と言う事になるが、
我の前に全ては移ろいゆく、そして我もまた移ろいゆく、そのような無常の中に全てはある。
こういうだけなら無常の説明だけで無我はおかしいのではないか?
もっと深い何かとして掘り下げたら出てきたのが備忘録で書いている、
神がいなければ我もいない。
コレなんだよ。

それはそうと、

それを受け入れる心境にどうやったらなれるかは、分からない。ブッダも説明できないとした。

何かこれ以上に説明や説得がいるのかい?
哲学者なら宗教家と違って無理やり押し付ける事はしないよ。
その点で釈迦の生き様は、尊敬だけでなく崇拝すら集めた聖人ではあっただろう。

さらに余計な事、
あなたの回答は冷静でぶち切れがなくて、サル踊りらしい猥褻物陳列が無かったよ。
あなたが無我説を受け入れられない葛藤があると言うなら、それをわいせつ物陳列してくれたまえ。
こねくり回しの材料にさせてもらうよ。

お礼日時:2013/03/05 20:56

おっしゃることは全然ブッダの思想と矛盾しませんし、私も質問者さんと同意見です。



しかしながら、無我の境地は精神上あるし、満足しないという本来の意味の苦もあります。

???

つまりは、明示と暗黙いずれの前提条件が間違いということです。

ですから、”まず偏見を捨てて思想を見渡して”ください。

そのためには、諸概念の一時的解体が必要でしょう。

そして、そのためには、時間をかけて考えた自分の持論への愛着を処理しなければならない。

時間をかけて考えた自分の持論への愛着とは自我の問題であり、それを抱えたままでは”自説を商売にする”という人間同士の共生として社会生活もうまくはいかない。

お気づきと思うが、以上の分析過程は、無我の説明ともなっています。

この回答への補足

宗教では無くて哲学のつもりなので以下を参考にしてください。

哲学の意義について作文しました。添削してください
http://okwave.jp/qa/q7730684.html

補足日時:2013/03/04 10:27
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この回答へのお礼

ありがとう。
私には「我を滅する」と言う考えはもうなくてね、助言は却下だよ。
君達の事なら、確かに一度滅んだほうがいい。

お礼日時:2013/03/04 10:24

質問者さんは以前、中村元について言及した質問をしていましたが


最近、中村元のゴータマ・ブッダ普及版を読んだら

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

buddhaの神格化
http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%B6 …

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そのbuddhaの神格化の項目が、中村元の著書からの引用だということがわかりました。
流し読みをしていたので、どこまで引用かはチェックしていませんが

苦労して、アンギラサだのなんだの調べたのに
中村元がとっくの昔に書いていました。

悟りについても、マハーヴァッガとかいろんな仏典の
翻訳をして内容を検討していました。

ゴータマ・ブッダ普及版は中村元選集を編集したものらしい。

なんだかな。とっくに明らかになっていたことで
騒いでいたのかとなると、むなしくなりました。

中村元は、無我説ではなくて、非我説ですよね。
仏教の解説本もだんだん非我説が多くなってきた。

では、今まで無我だといっていた人はどうなるのか
とも思うけど。

中村元の本に物足りなさを覚えたらどうしたらいいものやら。

この回答への補足

備忘録だよ。

生かすから生かされるのが利他であり、生きるから生かすのが利己だ。

私はここで自らの意思で生きようとしていてね、だからこそ君達も生かす。
君達は生かされたから、私を生かしてくれるだろう。
これが救ってくださいとか何とかだと、私が君達に救われる関係にはならないだろう。そのような錯誤は物乞いをされる立場からすると、困ったことでな、慈悲とかいう美しい憐れみだけ与えて誤魔化そうかとしたのが釈迦だ。
君達は生きる事を実感すればいいのだ。
救われたわけではない。
生きる事は、釈迦の呪縛を離れて自らの信仰の大道を行く事だ。
私はテメーで何とかしろとしか言わない。
これが私なりの自らが生きるために他者を生かす商売だ。
ありがたいだろう。

補足日時:2013/03/04 11:12
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この回答へのお礼

ありがとう。
研究熱心で参考になったよ
非我説なら、
通説のアートマンは厳密には自己ではない。
当時そんな事を言っていただけと言う話で、宗教的な縄張り争いの一つだ。
そう言う可能性が指摘されていて、研究がその方向である事は私も了解している。
でも面白みがなくて商売にならないよ。

お礼日時:2013/03/04 10:29

悪だの苦だのは無視していい。

無我論ってか、無我ってのと天上天下唯我独尊ってのは重なり合う。コペンハーゲン解釈したらいい。でも、猿にはわからんから、商売にはなりにくい。

この回答への補足

備忘録その2

自らの大道を行けと言ってもな、釈迦を棄却するわけではない。
彼を哲学者と見なしてタメ口を聞けばいいのだ。
私が釈迦をこねくり回すのは時間を超えた彼への友情だよ。
君達にサル踊りをさせるのは空観を超えた友情だ。
慈悲ではないよ。

君達はアホだから釈迦との決別を考え彼を憎まなければならないと考えるだろう。
それは夫婦の離婚話にある愛が憎しみに変わる修羅場だ。
女々しい話だ。
オカマが似合っているよ。

補足日時:2013/03/04 11:28
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この回答へのお礼

ありがとう。
判らなくても踊ってくれるだけで結構だよ。

お礼日時:2013/03/04 10:13

> 禅宗などの無我の理想的解釈によると、真理とは主観内からは


推し量られない事になっているので、無我になる事でそれが可能
だとしている。

嫌味・批判・侮辱と取られそうな表現への配慮・説明は面倒
なので、忌憚なく書かせて頂きたいのだけれど、、無我という
のは、割りと初歩の段階での発見・自己確認であり、自己の
意識体の全体ではなく、また全体にする物でもなく、普通の
人間心への上乗せである、拡大の部分といえるだろうと、、

拡大の部分によって、少しずつ意識体全体が変化していく
という

これは予想・想像・仮説ではなく、経験でありながら、確信・
断定せず、という姿勢からの表現として

後はその駒1つの脈絡で、質問内容の事象は氷解すると思う
のだけれど

> 私は自説を商売にするつもりがあって、猿でも悟れる無の境地を
一冊の本にでもしようかと本気で考えています。

学校教育でいうと、あなたは素養を与えられていない、永遠の
就学前だと思う

生まれながらに素養が与えられ、小5~中1の段階になると、
銀の球か粒が、正面から自分の胸の中に飛び込んで来る節目
の現象を経験するかもしれない
(他に、素養のある者への2つの現象がある)

その現象というのは、初歩の初歩のスタートラインのよう
だけれど、本を書くような立場というのは、大学を卒業し、
教員・教授・博士になってからの段階が適切だろうと・・・

永遠の就学前という表現が、私なりに、嫌味・批判・侮辱
のつもりではないのは、素養を与えられていない人達が、向上・
進化する可能性はあり、それはこれまでの秘教・密教の制約の
理解とは違い、、
それは霊的探求者が、霊的働き掛けなどで与える方法があり、
それが許されている事を知った為

私はそれを少し前から、試行し始めていて、せめて縁のある
人達の為に、役に立てたらと思っている所・・・
偉そうにクソ生意気な奴だと思われても構わない・・・

この回答への補足

備忘録その3
研究されている非我論は宗教家同士の縄張り争いだとしてだ、それも一理あるが、無の観想と(仏教の座禅)、愛として生きる動態である、普段の私が頭を真っ白にする観想では違いがあってな、私の普段は神とつながり、神から授かった知性として、ひらめきなり知恵がある。無の観想はおそらくこれと違って、神に由来しないで自らが考える。という点がある。そうすると神がいないのではなくて我がいない無我だ。または神も我もいない無我だ。
無の悟りと言う言い方がこれに起因するのだろう。
人間(仏)を人間たらしめているのは神の存在を認識できる事であり、知性が信仰と密接にかかわるのはそれゆえである。
この無我体験の証言だけで、信仰の合理性と根源的な功徳の説明になりうるが、それをより明白にして、神が存在するのは明白であるゆえに信仰は重要な意味をもつ、こういう形で間接的にでも莫大な懸賞金がかかっている、神の存在の証明につなげようかともくろんでいる。
全て弥勒菩薩商法であり営利目的だ。
私個人は愛の観想にふけり、生きる事を楽しむだけで幸福なのだが、猿回し形式思索法に発展させて、君達の面倒を見て、遊ぶ金を手にしようかと考えている。

補足日時:2013/03/04 20:52
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この回答へのお礼

ありがとう。
何か君自身は励んでいるようだね。
私は自分の知性の根拠を他者に依存する状態が嫌いで、猿の職業訓練のようなお勉強は実際に未就学状態に等しいよ。
私は頭が良さそうに目されるだろうが小学校の通信簿は5段階評価で1と2ばっかりだった。

お礼日時:2013/03/04 10:12

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