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正義と悪はどちらが先に生まれたのですか?
また、その先に生まれたのはなぜ・何が原因で生まれたのでしょうか?

A 回答 (15件中1~10件)

おそらく、悪が先に立つものと思われます。


以下、その説明を試みます。
ケダモノがケダモノの行為をすること自体は咎められるものではありません。それはそうあるものであり、人から見れば所詮はケダモノであると見られるでしょう。
しかし、人であるにもかかわらず、ケダモノの如き行為をした場合、それは悪と見なされます。それは咎められる行いであり、そうあるべきではない事です。それは制されるべき事柄です。
この時、人である事と、ケダモノの行為とどちらが先立つかと言うと、人である事が先立っているでしょう。しかしながら、それだけでは正義、ここでは善と言い換えますが、善が発動されることはありません。
人が人たる行為をしていることは当たり前であり、咎めるべき何物もないからです。だが、ひとたびケダモノの行為がここに生じた時には、人はそれを悪と呼び、次いで善なるものによってそれは制されなければならないとするでしょう。
故に、悪が生じた後に善が生まれると言えるのではないでしょうか。

また、太古、人がまだこの世に存在していなかった頃より、ケダモノは存在していてケダモノの行為は存在していました。人が何時、ケダモノの生から脱して人となったのか、その時起こったことは、確かにケダモノの生から脱したという事であり、そのことによって人となった。そして、ケダモノの生は悪と呼ばれるようになり、人の生は善と呼ばれるようになった、のであるならば、入り組んでいますが、ケダモノ→人→悪→善の順序で生じたのだと考えられます。

で、何故悪が生まれたのか?については人が生まれたからと、時系列順には答えることになりますが、では何故人が生まれたのか?と問うと、ケダモノの生から脱したため、と言うことになるでしょう。何故脱したのか?については、ケダモノの生が苦しかったからだと思われます。そして問題は、何故ケダモノが生まれたのかと言う事ですが、これには中々答えられません。ケダモノも又、より原始的な生命体から複雑に分化して生まれて来たのであり、その理由に答えるには生命がどこから来たかに答えるよりも、どこへ向かっているのか?に答える事が照準に入って来ます。過去は調べれば何とか見えてくるかも知れないが、未来の事は中々分かりません。できる事は、過去に視座を置いてそこから現在を見る事で、擬似的に未来を見る事でしょうか。そうすれば傾向が分かるかもしれません。
私には、存在は自由へ向かって傾斜しているように思われます。静から動へ、物質よりも原始生命体が、原始生命体よりも動物が、動物よりも人が、人よりも概念やイメージの方が自由、つまり解き放たれていると思われるのです。しかしそれが本当の自由なのかどうかはまた別の問題としてあるでしょう。風に巻き上げられる事と、風に乗る事の違いと言いますか。ここに初めて哲学と思しきものが立ち上がるのだと思います。
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悪がはじめと思います。

正義というものは悪に対抗して称したのでしょう。

悪が生まれたのは自分が作ったものは認めら得ず(農家なら作物が育たず)

他の人は上手く行く その時嫉妬が起こるのです。足を引っ張ろうとかどうしてやろうとか

もう一つは性の問題ですね 衝動が強いために過ちが多いです。
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普遍から逸脱したものが悪。

それを普遍に引き戻す、あるいは排除するのが正義。
正義を行うのは普遍に居る者ですから、普遍=正義と言えます。
しかし悪がない状態の普遍はただの普遍でしかない。そういう意味では悪が先でしょうか。
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この回答へのお礼

なるほど
普遍=正義とは興味深いですが、確かにですね。。。

お礼日時:2018/08/25 21:15

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9007924.html

「悪」というものは太古の昔から人々に認識されていたと思います。「悪」があれば
「善」(正義)という概念は生まれていたと思いますが、一般大衆においてはそれは「
当たり前のこと」という認識ではなかったかと思います。

私も子供のころはそうであったし、善だとかまして正義などとは考えられなかったと
いう記憶があります。
どうでしょう、一般大衆ことに日本という国では「正義」などという概念はまだしっか
り認識されていないのではないでしょうか?

つまり、「正義」などという言葉は権力者が使ってきたものであり。思想家が使ってき
たものであり、まだ地に足がついていないような理解しかできていないのが現状ではな
いかと考えています。

質問内容からはみ出してしまいますが、軍事的あるいは経済的争いのことを正義などと
いうから普遍的正義がない、などという結論になるのだと思います。
争い、競争はなくなることはないでしょうけれど、それは要は競争に「勝った負けた」
ということに過ぎない、という認識が正しいと思います。

普遍的正義って、平和で幸福を楽しめるという意味での「繁栄」でいいと思います。
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「生まれた」と言う表現は、少し問題ですが、


他の方が指摘されるように、正義と悪は同時に存在します。

「これは悪だ。」と言った途端、悪であることの証明が必要になります。
「これは正義だ。」と言った途端に、逆の証明が必要になります。

世の中に「悪」が無かったら、「正義」であると認識出来ません。
世の中に「正義」が無かったら、「悪」であると認識できません。

ひかりはが光であると認識出来るためには、闇の存在が必須です。
同じことです。

表があれば裏がある。
裏がなければ、表だと認識できない。
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人は集団行動する動物なのでコミュニティをつくる


コミュニティができるとそのコミュニティを維持するための最大公約数的な自由の制約ルールができあがる

俺は人を殺したいけど殺されるのはいや
→汝 殺すなかれ
俺は盗みたいけど盗まれるのはいや
→ 汝 盗むなかれ

こういったコミュニティのルールが正義や悪のスタートであり、また正義と悪は表裏なので同時に成立する

正義はその後、倫理観や宗教観や法へと発展していく

こういったプロセスで正義ができるので、コニュニティごとに正義ができあがる
そのため、コミュニティ同士で戦争が起きた場合は互いの正義同士がぶつかるということになるが、どちらかが正義でどちらかが悪というわけではない
互いに味方が正義で敵が悪といった構図になる

これまで述べてきたように、正義とはもとを辿ればコミュニティごとの価値観であるため、普遍的な正義というものは存在しない
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この回答へのお礼

ありがとうごさいます。
納得できました。

お礼日時:2018/08/25 21:11

善悪は、人間が社会を造ってから


生まれました。

社会にとって都合が良いモノを善とし、
都合が悪いモノを悪としたのです。

人間は独りでは非力です。
動物にも敵いません。

しかし、人間が社会を造り、集団化すると
神も驚く力を発揮します。

その社会を維持するために、善悪、という
概念を創りだしたのです。

だから、善悪、つまり正義と悪はセットに
なっているのです。
だから、誕生も同時です。



これに対して、キリスト教では全知全能の
神がいますから、善悪も神が創ったことに
なります。

神はまず、善を創りました。
しかし悪魔がこれを破ったりします。

だから、善、つまり正義が先に誕生した
ことになります。
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なぞなぞ


この世の中に「上り坂」と「下り坂」のどちらが多いのでしょう?
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この回答へのお礼

あ~~~
それは非常に面白い。。
とてもいい観点ですね。
すばらしい。

お礼日時:2018/08/25 21:10

歴史の時間軸の中でまだ未熟な時期に


その時代としての精いっぱいの未熟な価値観における正義、
つまりは未熟な正義によるアクションが起こり
それが未熟で本物の正義でなかったために
それに対する正義としてのアンチが発生した。
それぞれの正義にとっては相手が悪という状態。
つまりは同時なんでしょうね。

その、未熟な時期に同時に発生した
あいまいな正義と悪を軸にして
混沌の争いの時代を突き抜けるということは
種として未熟な時期から進歩せざるをえなかった
生物の一種としての
宿命なんだろうと思います。
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「正義」と「悪」は同義語。


正義とは個人のご都合主義の塊でできているので他人から見るとそれは悪。
人々の主観の違いだけ。
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